14.
「ショウ、そろそろ時間です」
「はい。わかりました」
静かに背後から声が掛かる。疲れた頭を振って、ショウはそれに応えた。いよいよだ。
話す事柄をまとめたファイルを胸に抱える。果たして、皆聞いてくれるだろうか、受け入れてくれるだろうか。不安ばかりが増して、本当はとても怖い。
いったい何故、こんな事になってしまったのだろう。
Egg Shellの片隅の、資料管理室にいた頃からは想像もできないほどの慌ただしい日々がいま、彼女の前にある。それどころか、その渦の中心に近いところに自分もいるなんて、とまだ信じられない気持ちがある。これは悪い夢で、いまは暖かいベッドの中、目が覚めたら幸せな生活、と思ったことが幾度もあった。
「でも、もう、逃げるわけには、いかないよね」
現実から目を背けることはやめて、一歩一歩、確実に歩いていく。
それがいま、一番大切なことだ。
「それでは行ってきます。ここに残るメンバーはEgg Shell内の動きに注意していてください。いまはなにが起こるかわからないときですから。もしも余裕があるのなら、《切り札》発動のための準備をお願いします」
そう言い残すと、ショウは緊張した面持ちで会議室へと向かった。
準備ができたとの言葉通り、会議室には各エリアのリーダーたちがとまどいを残しつつ集まっていた。ショウの姿を認めると、ざわめきが静まる。
「このように早い時間に、お集まりいただいてありがとうございます。皆さんにお知らせしたい緊急事態が発生したために、ご協力を戴きたく出席をお願いしました」
皆のほうに向き直ったショウは、その言葉と共に、強い眼差しを前へと向けた。いちどは収まったざわめきが、ふたたび起こる。
「それはどういう事ですか? また、補佐とはいえ、管理者でないショウ、あなたがここにいる理由はなんですか? 我々は管理者の名前でここに集められました。それなのに管理者アキの姿はどこにも見えません。彼はどこに?」
ざわめきの中のひとりが、立ち上がって声をあげた。それは、ここに集まるほぼすべての者の疑問でもあった。何故管理者がいないのか、Egg Shellに立ちこめる不穏な空気はなんなのか。その答えが管理側からもたらされた事はない。
それが不安でいっぱいの皆の心を、さらに不安で満たすのだった。
ざわめきは不安を吸って徐々に大きくなっていく。皆が口々に不安と不満を、目の前のショウにぶつけた。
ショウはそれを、目をきつく閉じて聞いている。
そばで見ていた情報管理のメンバーが、耐えかねて口を開こうとしたが、それを気配で感じたショウは、彼を手の動きで抑えた。
「しかし、ショウ、このままでは収まりがつきません」
「わかってます。大丈夫です」
ひとつ、深呼吸をして、ショウは顔を上げた。まっすぐな視線は変わらない。
「それも含めて、いまからお知らせいたします。大事なことです。皆さん、聞いてください」
眼差しの強さに気圧されて、声は次第に小さくなっていった。
「まず、はじめに。ご報告が遅れましたことを謝罪します。ほぼ、半年前のことです。Egg Shell管理者、アキは、直筆の書き置きを残してEgg Shell内から姿を消しました」
会議室の皆が、息を呑む音が響く。噂は、本当だった。
「そして、その書き置きには、私、ショウに管理者の権限を委譲する、とありました。これを発表せず、ずっと管理者の失踪を隠し続けてきたことは、大変申し訳なく思っております。ですが、これを公表したことによる混乱を考えると、どうしてもできませんでした」
夢の中の出来事だという面持ちで、リーダーたちはショウの話を聞いている。すでに驚きが声を封じているようで、一言も発することはない。
「情報管理エリアでは、管理者の行方を捜し続けました。しかし、これ以上隠し続けていくことは不可能だと判断し、今回の報告に至りました。これより、管理者アキ存在の確認がとれるまで、管理者補佐である私、ショウがEgg Shell管理者の任を代行します」
ショウはためらうことなく、一気に言葉を紡いだ。
沈黙が、会議室を支配する。どう反応していいのか、迷っているような様子だった。
ショウは、リーダーたちがなにかの反応を見せてくれるまで、静かにその場で立っている。本当に大事な報告が、このあとに待っている。これを受け入れてくれなければ話せない。
徐々に、我に返りはじめたリーダーたちは、そばにいる者たちと顔を見合わせた。決断を迷っているような雰囲気が感じられる。
「お尋ねします。管理者アキは何故姿を? そして、もし、彼が戻らないことがわかった場合、そのときは?」
声があがる。
質問者のほうへ向けて、ショウが視線を投げかける。ここにいる以上、ひとつの部門を預かるリーダーであるはずだったが、不安にさいなまれ、その瞳が揺れている。
「その答えは、今日ここにお集まりいただいたもうひとつの理由にあります。もうひとつの、私たちのこれからに関わる、重大な報告です」
覚悟を決めたショウは、口をひらいた。
静かな部屋に、ノックの音がする。まどろみの海に沈んでいたハルは、その音で現実に引き戻された。軽く伸びをして、その音に答える。
静かな動作で扉に歩み寄った。
「そろそろ、時間よ」
扉の前には腕を組んだファムが立っていた。厳しい視線は相変わらずだった。
「わかってる。いま、行くよ」
ため息をついたハルは、ファムの視線から逃れるように目を閉じた。
Egg Shellの居住区と生産・作業部門を繋ぐ長いエレベーター。そのほぼ中央部に隠された、大きな空間の一番端に、そこはあった。Egg Shellのネットワークに接続されている大きな端末ひとつと、閉ざされた扉がひとつだけある殺風景な、日々の生活からはほど遠い部屋だった。
しかし、そこはEgg Shellで一番、外に近い場所なのだ。固く閉ざされたこの扉の向こうにある長い通路の先には、十数年前に別れを告げた故郷の大地が広がっている。
その空間に、ただひとりたたずんでいたアキは、訪れたファムとハルに気づき振り返った。
「やっと来たね。こちらの準備はもう、整ったよ」
「お疲れさま。解放を求める運動がもうすぐはじまるわ。その混乱に乗じて、こちらも行動を起こす」
名前を明かさず謎の人物として、外に出ることを熱望する者たちに援助をしてきた。彼らはこちらの意図に気づくことも疑うこともなかった。単純なものだった。
運動が起こるのは、ここからとおく離れた場所。こちらの動きを邪魔されることはまずないはずだった。むしろ、混乱が混乱を呼び、破滅への時間を早めてくれることだろう。
「こちらの準備はもうすっかりいいよ。いつでもプログラムを流せる」
端末に歩み寄って操作をしながら、アキが言った。その言葉に、微妙な瞳の揺れを残しつつ、ファムが頷く。彼女は迷いを振りきるように、ハルのほうを見やった。彼はうつむいていた顔をゆっくりと上げ、静かにファムを見据える。
「わかっている。こちらも、覚悟はできているよ。僕の仕事は最後の最後だから、それまで暫く、調整に入る」
ハルはやはり迷いの色を残した瞳をしていたが、告げられたその言葉に、ファムは満足そうに頷いた。
「そう。じゃあ、おねがい」
去りゆくハルの背に、ファムの声が掛かった。
「時間は?」
ふたりきりになったその部屋。アキはファムの肩を抱いて、彼女に問いかけた。おそらく最後であろう、静かな時間。ふたりのぬくもりと息づかいだけが、ここにいることの証だった。
「もう少し。そうね、あと一時間ね。時計は合わせたでしょう」
やんわりと、肩を抱くアキの手をはずす。彼の両頬を支えて、自分のほうへと向き直らせた。互いの額をあわせて、見つめあう。こうやってふたりきりで過ごせるのも、きっともうないだろう。だから、これが最後だ。
「ごめんなさい」
小さな声がファムの口から漏れた。
「ファム、なにを?」
驚いたアキが目を見開く。いまだかつて、彼女がこんな物言いをすることはなかった。なのに。顔を近づけているがゆえに、ファムの揺れる吐息が感じられる。
この最後の時になって、ファムは、ようやくその心の内の思いを、表に出した。もう戻れないからこそ、やっと告げられた。
「最後の数年は、貴方がいてくれて、本当に良かったわ。いままでにないくらい本当に、本当にしあわせだった。ありがとう。そして、巻き込んでしまってごめんなさい。これから騒がしくなったら、もう言えない気がして」
少女の微笑みで、彼女は言葉を止めた。
「ファム――」
この関係がはじまってから、彼女の悲しみの混じった表情は変わることがなかった。いつでも割り切っているように見えながら、その実、揺れる瞳が心の迷いを表していた。
彼女の抱いている悲しみ、それを分かち合い共に生きられるなら、という願いは、最後まで叶うことがなかった。彼女の瞳はここに至っても変わらない。
いったいなんのために。いったいなぜ。
最後の時になって生まれた思いは、急速にはアキの心を支配していった。
『本日、あと三十分後にEgg Shell管理者より重大なお知らせがあります。映像端末の前にお集まりください。本日の業務は一時中断して、お知らせをお待ちください。皆さんのご協力をお願いいたします』
そんな放送が、Egg Shell全域に流れた。とまどいを隠せず、Egg Shellはざわめきに包まれる。ここしばらくの不穏な空気が、さらに煽られたかたちになった。
しかし、閉鎖された空間であるこのEgg Shellに、逃げ道はない。
人々は不安を胸に抱えながらも、その知らせをただ、待つしかなかった。
『端末の前にお集まりいただいた皆さん、こんにちは。ご協力感謝いたします。これから、皆さんにとても大切なことをお知らせしなくてはなりません。どうか、心を落ち着けて聞いてください』
映像端末に、ショウの姿が映った。緊張に張りつめた顔。
大急ぎでショウの元に駆けつけつつあったヒロが、それを目の端に止め、立ち止まった。
『いま、ひとりでいる方は急いで誰かの姿を探してください。家族、友人。大切な方とこの話を聞いてください。そばに、誰かのぬくもりを感じていてください。いまここに、あなたが生きているということを、しっかりと感じていてください』
静かなショウの声が響く。端末の前は水を打ったかのように静まりかえった。
ヒロは、もういちど映像の中のショウに目をやると、本物の彼女のもとに行くために、再び走り出した。
放送は続く。
少し視界が広がり、ショウの背後の様子が映し出される。
ショウと同じく緊張した面持ちの、各エリアリーダーの姿が見えた。
心を落ち着かせるために、ショウは深く息をつく。
『皆さんに、お知らせしたいことがあります。これからの私たちの未来が掛かっている、とても大切なことです。それは……』
ショウがためらいがちに口を開く。重い真実が、言葉を鈍らせた。
『それは――』
それでも再び、ショウは言葉を紡ぐ。しかし、次の瞬間。
暗闇がEgg Shellを満たした。
どこまでも続く闇。ショウたちも、そして映像端末の前にいた人々も、一瞬、なにが起こったのかもわからずにあたりを見回す。
「どうなっているんですか!?」
いち早く我に返ったショウが声をあげた。しかし皆、原因もわからずただ、とまどいと恐怖の浮かんだ表情をしている。
恐怖が、ショウのもとへも忍び寄ってきた。
アキとファムは黙って、端末を見つめていた。
演算を続ける端末は、ネットワークを通じて、Egg Shell全体にプログラムを送り込んでいる。元管理者であったからこそ、知り尽くしている構造を利用して、Egg Shellの生命維持機能以外の電力を、一時的に落としたのだ。
暗闇は混乱を生み、混乱は不安と恐怖に変わる。
そしてこれが、卵の最初のひびとなるのだ。
暗闇の中、秩序だった足音が響いていた。突然の暗闇に驚くことも不安になることもない。
彼らはこのときを待っていた。
足音はやむことなく、ひとつの方向を目指していた。一番人の集まる記念碑前。Egg Shellの最上部にあるそこが、外に一番近い場所だと教えられたからだ。
用意していた非常用の明かりをその記念碑の前でつけた。まぶしい光がそこを満たす。
「私たちは、このEgg Shellを出て行くために活動を続けている! 皆、不安に追われながらここで暮らすことに、本当に満足しているか? いま、このEgg Shellを支配している不安は増すばかりだ。閉ざされた空間で、ただ日々を送るより、なつかしい故郷に帰ろう。我々はもう、ここに来たときのような無力な子どもではない! いまこそ、行動を起こすときなのだ!」
先頭に立ったひとりが、唖然とする人々の前で思いの丈をぶつけた。
「ここから、出て行こう。卵はいつか孵らなくてはならない。私たちが生きるべきなのは、こんな閉ざされた世界ではない。ちゃんと大地の上に立って、生きていこう」
強い視線が、あたりの人々を順々に見つめていく。
「そう、だ。俺たちは、出て行かなきゃならないんだ、ここから」
熱に浮かされたような言葉が、群衆の中から上がった。それが伝染するように、皆、思いを口に出す。
閉ざされた空間での、溜まりに溜まった思いが暗闇の混乱と不安、恐怖によって、増幅されていく。
『帰りたい! 出て行こう!』
いつしか、そんな叫びが、Egg Shellを満たしていった。
ショウは不安に揺れる心を、必死に抑えつけていた。
なにが起こったのかもわからず、暗闇の中でひとりでいる気分だった。自然に、自分を支える腕が震えた。
「ショウ!」
まぶしい光が突然、目の前に現れる。驚く間もなく、自分が誰かの腕の中にいることに気が付いた。荒い息の音が聞こえる。顔を上げると、ヒロが自分を見つめていた。
「Egg Shellの電力が落とされたみたいだ。生命維持装置は動いているから大丈夫だが、あたりが混乱しきってる」
「ヒロ、なんでここに?」
抱えられた腕のたくましさに安心感を覚えながら、それでも、何故ここに彼がいるのかがわからずに、目の前のヒロが夢の中の人物であるかのように見つめた。暗闇の中でヒロは、張り詰めた顔をしながらも少し照れたような風情だ。
「お前が心配になった。いつまで経っても頼りないのは変わらないからな」
そう告げるヒロの顔には、いつもの笑みが浮かんでいる。
「ヒロ……」
あれほど不安だった心が、それを機に落ち着いていくのを感じた。
「直せる? このままじゃ、みんなパニックになっちゃう」
「俺ができないって言うと思ったか? まかせてろ」
ヒロは走って闇の中に姿を消しかけた。しかし、もういちど戻ってきてショウを強く抱きしめる。
と。
ドォンッ。
重い響きと共に、Egg Shellが強い衝撃に曝された。
「な、なに?」
衝撃が強い揺れとなって襲ってくる。立っていることができず、その場に座り込む。
『出て行こう、ここから!』
揺れの中から、口々にそう叫ぶ人々の声が聞こえた。
「ショウ、そろそろ時間です」
「はい。わかりました」
静かに背後から声が掛かる。疲れた頭を振って、ショウはそれに応えた。いよいよだ。
話す事柄をまとめたファイルを胸に抱える。果たして、皆聞いてくれるだろうか、受け入れてくれるだろうか。不安ばかりが増して、本当はとても怖い。
いったい何故、こんな事になってしまったのだろう。
Egg Shellの片隅の、資料管理室にいた頃からは想像もできないほどの慌ただしい日々がいま、彼女の前にある。それどころか、その渦の中心に近いところに自分もいるなんて、とまだ信じられない気持ちがある。これは悪い夢で、いまは暖かいベッドの中、目が覚めたら幸せな生活、と思ったことが幾度もあった。
「でも、もう、逃げるわけには、いかないよね」
現実から目を背けることはやめて、一歩一歩、確実に歩いていく。
それがいま、一番大切なことだ。
「それでは行ってきます。ここに残るメンバーはEgg Shell内の動きに注意していてください。いまはなにが起こるかわからないときですから。もしも余裕があるのなら、《切り札》発動のための準備をお願いします」
そう言い残すと、ショウは緊張した面持ちで会議室へと向かった。
準備ができたとの言葉通り、会議室には各エリアのリーダーたちがとまどいを残しつつ集まっていた。ショウの姿を認めると、ざわめきが静まる。
「このように早い時間に、お集まりいただいてありがとうございます。皆さんにお知らせしたい緊急事態が発生したために、ご協力を戴きたく出席をお願いしました」
皆のほうに向き直ったショウは、その言葉と共に、強い眼差しを前へと向けた。いちどは収まったざわめきが、ふたたび起こる。
「それはどういう事ですか? また、補佐とはいえ、管理者でないショウ、あなたがここにいる理由はなんですか? 我々は管理者の名前でここに集められました。それなのに管理者アキの姿はどこにも見えません。彼はどこに?」
ざわめきの中のひとりが、立ち上がって声をあげた。それは、ここに集まるほぼすべての者の疑問でもあった。何故管理者がいないのか、Egg Shellに立ちこめる不穏な空気はなんなのか。その答えが管理側からもたらされた事はない。
それが不安でいっぱいの皆の心を、さらに不安で満たすのだった。
ざわめきは不安を吸って徐々に大きくなっていく。皆が口々に不安と不満を、目の前のショウにぶつけた。
ショウはそれを、目をきつく閉じて聞いている。
そばで見ていた情報管理のメンバーが、耐えかねて口を開こうとしたが、それを気配で感じたショウは、彼を手の動きで抑えた。
「しかし、ショウ、このままでは収まりがつきません」
「わかってます。大丈夫です」
ひとつ、深呼吸をして、ショウは顔を上げた。まっすぐな視線は変わらない。
「それも含めて、いまからお知らせいたします。大事なことです。皆さん、聞いてください」
眼差しの強さに気圧されて、声は次第に小さくなっていった。
「まず、はじめに。ご報告が遅れましたことを謝罪します。ほぼ、半年前のことです。Egg Shell管理者、アキは、直筆の書き置きを残してEgg Shell内から姿を消しました」
会議室の皆が、息を呑む音が響く。噂は、本当だった。
「そして、その書き置きには、私、ショウに管理者の権限を委譲する、とありました。これを発表せず、ずっと管理者の失踪を隠し続けてきたことは、大変申し訳なく思っております。ですが、これを公表したことによる混乱を考えると、どうしてもできませんでした」
夢の中の出来事だという面持ちで、リーダーたちはショウの話を聞いている。すでに驚きが声を封じているようで、一言も発することはない。
「情報管理エリアでは、管理者の行方を捜し続けました。しかし、これ以上隠し続けていくことは不可能だと判断し、今回の報告に至りました。これより、管理者アキ存在の確認がとれるまで、管理者補佐である私、ショウがEgg Shell管理者の任を代行します」
ショウはためらうことなく、一気に言葉を紡いだ。
沈黙が、会議室を支配する。どう反応していいのか、迷っているような様子だった。
ショウは、リーダーたちがなにかの反応を見せてくれるまで、静かにその場で立っている。本当に大事な報告が、このあとに待っている。これを受け入れてくれなければ話せない。
徐々に、我に返りはじめたリーダーたちは、そばにいる者たちと顔を見合わせた。決断を迷っているような雰囲気が感じられる。
「お尋ねします。管理者アキは何故姿を? そして、もし、彼が戻らないことがわかった場合、そのときは?」
声があがる。
質問者のほうへ向けて、ショウが視線を投げかける。ここにいる以上、ひとつの部門を預かるリーダーであるはずだったが、不安にさいなまれ、その瞳が揺れている。
「その答えは、今日ここにお集まりいただいたもうひとつの理由にあります。もうひとつの、私たちのこれからに関わる、重大な報告です」
覚悟を決めたショウは、口をひらいた。
静かな部屋に、ノックの音がする。まどろみの海に沈んでいたハルは、その音で現実に引き戻された。軽く伸びをして、その音に答える。
静かな動作で扉に歩み寄った。
「そろそろ、時間よ」
扉の前には腕を組んだファムが立っていた。厳しい視線は相変わらずだった。
「わかってる。いま、行くよ」
ため息をついたハルは、ファムの視線から逃れるように目を閉じた。
Egg Shellの居住区と生産・作業部門を繋ぐ長いエレベーター。そのほぼ中央部に隠された、大きな空間の一番端に、そこはあった。Egg Shellのネットワークに接続されている大きな端末ひとつと、閉ざされた扉がひとつだけある殺風景な、日々の生活からはほど遠い部屋だった。
しかし、そこはEgg Shellで一番、外に近い場所なのだ。固く閉ざされたこの扉の向こうにある長い通路の先には、十数年前に別れを告げた故郷の大地が広がっている。
その空間に、ただひとりたたずんでいたアキは、訪れたファムとハルに気づき振り返った。
「やっと来たね。こちらの準備はもう、整ったよ」
「お疲れさま。解放を求める運動がもうすぐはじまるわ。その混乱に乗じて、こちらも行動を起こす」
名前を明かさず謎の人物として、外に出ることを熱望する者たちに援助をしてきた。彼らはこちらの意図に気づくことも疑うこともなかった。単純なものだった。
運動が起こるのは、ここからとおく離れた場所。こちらの動きを邪魔されることはまずないはずだった。むしろ、混乱が混乱を呼び、破滅への時間を早めてくれることだろう。
「こちらの準備はもうすっかりいいよ。いつでもプログラムを流せる」
端末に歩み寄って操作をしながら、アキが言った。その言葉に、微妙な瞳の揺れを残しつつ、ファムが頷く。彼女は迷いを振りきるように、ハルのほうを見やった。彼はうつむいていた顔をゆっくりと上げ、静かにファムを見据える。
「わかっている。こちらも、覚悟はできているよ。僕の仕事は最後の最後だから、それまで暫く、調整に入る」
ハルはやはり迷いの色を残した瞳をしていたが、告げられたその言葉に、ファムは満足そうに頷いた。
「そう。じゃあ、おねがい」
去りゆくハルの背に、ファムの声が掛かった。
「時間は?」
ふたりきりになったその部屋。アキはファムの肩を抱いて、彼女に問いかけた。おそらく最後であろう、静かな時間。ふたりのぬくもりと息づかいだけが、ここにいることの証だった。
「もう少し。そうね、あと一時間ね。時計は合わせたでしょう」
やんわりと、肩を抱くアキの手をはずす。彼の両頬を支えて、自分のほうへと向き直らせた。互いの額をあわせて、見つめあう。こうやってふたりきりで過ごせるのも、きっともうないだろう。だから、これが最後だ。
「ごめんなさい」
小さな声がファムの口から漏れた。
「ファム、なにを?」
驚いたアキが目を見開く。いまだかつて、彼女がこんな物言いをすることはなかった。なのに。顔を近づけているがゆえに、ファムの揺れる吐息が感じられる。
この最後の時になって、ファムは、ようやくその心の内の思いを、表に出した。もう戻れないからこそ、やっと告げられた。
「最後の数年は、貴方がいてくれて、本当に良かったわ。いままでにないくらい本当に、本当にしあわせだった。ありがとう。そして、巻き込んでしまってごめんなさい。これから騒がしくなったら、もう言えない気がして」
少女の微笑みで、彼女は言葉を止めた。
「ファム――」
この関係がはじまってから、彼女の悲しみの混じった表情は変わることがなかった。いつでも割り切っているように見えながら、その実、揺れる瞳が心の迷いを表していた。
彼女の抱いている悲しみ、それを分かち合い共に生きられるなら、という願いは、最後まで叶うことがなかった。彼女の瞳はここに至っても変わらない。
いったいなんのために。いったいなぜ。
最後の時になって生まれた思いは、急速にはアキの心を支配していった。
『本日、あと三十分後にEgg Shell管理者より重大なお知らせがあります。映像端末の前にお集まりください。本日の業務は一時中断して、お知らせをお待ちください。皆さんのご協力をお願いいたします』
そんな放送が、Egg Shell全域に流れた。とまどいを隠せず、Egg Shellはざわめきに包まれる。ここしばらくの不穏な空気が、さらに煽られたかたちになった。
しかし、閉鎖された空間であるこのEgg Shellに、逃げ道はない。
人々は不安を胸に抱えながらも、その知らせをただ、待つしかなかった。
『端末の前にお集まりいただいた皆さん、こんにちは。ご協力感謝いたします。これから、皆さんにとても大切なことをお知らせしなくてはなりません。どうか、心を落ち着けて聞いてください』
映像端末に、ショウの姿が映った。緊張に張りつめた顔。
大急ぎでショウの元に駆けつけつつあったヒロが、それを目の端に止め、立ち止まった。
『いま、ひとりでいる方は急いで誰かの姿を探してください。家族、友人。大切な方とこの話を聞いてください。そばに、誰かのぬくもりを感じていてください。いまここに、あなたが生きているということを、しっかりと感じていてください』
静かなショウの声が響く。端末の前は水を打ったかのように静まりかえった。
ヒロは、もういちど映像の中のショウに目をやると、本物の彼女のもとに行くために、再び走り出した。
放送は続く。
少し視界が広がり、ショウの背後の様子が映し出される。
ショウと同じく緊張した面持ちの、各エリアリーダーの姿が見えた。
心を落ち着かせるために、ショウは深く息をつく。
『皆さんに、お知らせしたいことがあります。これからの私たちの未来が掛かっている、とても大切なことです。それは……』
ショウがためらいがちに口を開く。重い真実が、言葉を鈍らせた。
『それは――』
それでも再び、ショウは言葉を紡ぐ。しかし、次の瞬間。
暗闇がEgg Shellを満たした。
どこまでも続く闇。ショウたちも、そして映像端末の前にいた人々も、一瞬、なにが起こったのかもわからずにあたりを見回す。
「どうなっているんですか!?」
いち早く我に返ったショウが声をあげた。しかし皆、原因もわからずただ、とまどいと恐怖の浮かんだ表情をしている。
恐怖が、ショウのもとへも忍び寄ってきた。
アキとファムは黙って、端末を見つめていた。
演算を続ける端末は、ネットワークを通じて、Egg Shell全体にプログラムを送り込んでいる。元管理者であったからこそ、知り尽くしている構造を利用して、Egg Shellの生命維持機能以外の電力を、一時的に落としたのだ。
暗闇は混乱を生み、混乱は不安と恐怖に変わる。
そしてこれが、卵の最初のひびとなるのだ。
暗闇の中、秩序だった足音が響いていた。突然の暗闇に驚くことも不安になることもない。
彼らはこのときを待っていた。
足音はやむことなく、ひとつの方向を目指していた。一番人の集まる記念碑前。Egg Shellの最上部にあるそこが、外に一番近い場所だと教えられたからだ。
用意していた非常用の明かりをその記念碑の前でつけた。まぶしい光がそこを満たす。
「私たちは、このEgg Shellを出て行くために活動を続けている! 皆、不安に追われながらここで暮らすことに、本当に満足しているか? いま、このEgg Shellを支配している不安は増すばかりだ。閉ざされた空間で、ただ日々を送るより、なつかしい故郷に帰ろう。我々はもう、ここに来たときのような無力な子どもではない! いまこそ、行動を起こすときなのだ!」
先頭に立ったひとりが、唖然とする人々の前で思いの丈をぶつけた。
「ここから、出て行こう。卵はいつか孵らなくてはならない。私たちが生きるべきなのは、こんな閉ざされた世界ではない。ちゃんと大地の上に立って、生きていこう」
強い視線が、あたりの人々を順々に見つめていく。
「そう、だ。俺たちは、出て行かなきゃならないんだ、ここから」
熱に浮かされたような言葉が、群衆の中から上がった。それが伝染するように、皆、思いを口に出す。
閉ざされた空間での、溜まりに溜まった思いが暗闇の混乱と不安、恐怖によって、増幅されていく。
『帰りたい! 出て行こう!』
いつしか、そんな叫びが、Egg Shellを満たしていった。
ショウは不安に揺れる心を、必死に抑えつけていた。
なにが起こったのかもわからず、暗闇の中でひとりでいる気分だった。自然に、自分を支える腕が震えた。
「ショウ!」
まぶしい光が突然、目の前に現れる。驚く間もなく、自分が誰かの腕の中にいることに気が付いた。荒い息の音が聞こえる。顔を上げると、ヒロが自分を見つめていた。
「Egg Shellの電力が落とされたみたいだ。生命維持装置は動いているから大丈夫だが、あたりが混乱しきってる」
「ヒロ、なんでここに?」
抱えられた腕のたくましさに安心感を覚えながら、それでも、何故ここに彼がいるのかがわからずに、目の前のヒロが夢の中の人物であるかのように見つめた。暗闇の中でヒロは、張り詰めた顔をしながらも少し照れたような風情だ。
「お前が心配になった。いつまで経っても頼りないのは変わらないからな」
そう告げるヒロの顔には、いつもの笑みが浮かんでいる。
「ヒロ……」
あれほど不安だった心が、それを機に落ち着いていくのを感じた。
「直せる? このままじゃ、みんなパニックになっちゃう」
「俺ができないって言うと思ったか? まかせてろ」
ヒロは走って闇の中に姿を消しかけた。しかし、もういちど戻ってきてショウを強く抱きしめる。
と。
ドォンッ。
重い響きと共に、Egg Shellが強い衝撃に曝された。
「な、なに?」
衝撃が強い揺れとなって襲ってくる。立っていることができず、その場に座り込む。
『出て行こう、ここから!』
揺れの中から、口々にそう叫ぶ人々の声が聞こえた。