Egg Shell -intermission- 幻想の中の真実
1.


 一見、なんでもないようなことが、のちに重要な出来事であったとわかることが、生きていると稀にある。思わぬ縁もあるものだ、と夕代彼方は思うのだ。彼がまだ駆けだしの研究者であった頃。それが彼との因縁の始まりであったのだといまではそう思う。


 きっかけは、とある国際会議だった。そのころも、やはり地球の環境は悪くなっていく一方で、時代の最先端の技術を操るものたちはその対応に追われていたのだった。最先端の技術で惑星の形を変えていく傍らで、これ以上人が住めなくならないようにと心を砕く。最大の皮肉であると誰かが言っていたが、まったくそのとおりだと彼方も思っていた。
 その国際会議は、ある程度以上の惑星開発、環境改変を及ぼす技術を、研究するもの自らが自粛しようとする動きからはじまった。元に戻せる技術もないのに、むやみやたらと技術を発展させてよいものなのか。そんな世論の動きにおされた形ではあったが、それでも、進歩といえば進歩といえたのだろう。
 所属していた研究所の先輩研究員につれられて、その会議が行われる場所へ足を運んだときのことを、彼方はいまでも覚えている。
 まだ経験の浅い彼方に色々と注文をつけながらも、研究所の人間は彼を高く買っていたのだろう。普段であれば新人が、共に出席することなど余りない。世界中の研究者とのつながりをつくるための、特別の計らいだった。
 あの人はどこの大学の何教授だの、あの論文を発表した何博士だのと説明して回る研究員のあとを、まだ若かった彼方はわけもわからず追いまわしていた。正直、そのときの彼方にとってその会議は、あまり意味のないものとしか思われなかったのだ。
 暫くすると、先輩研究員は彼方をそっちのけで旧友らしい出席者と会話に花を咲かせていた。研究のことを話す彼らというのはどこの国でも似たようなもので、きらきらと輝く瞳は、数十歳も彼らを幼く見せている。
 彼らの話の輪の中に、経験の浅い彼方はまだ入っていくことはできなかった。邪魔をするのも気が引けて、会議の始まる前の会場を眺め回す。研究の場に身をおくことを決めたのは自分自身だったが、学会やこのような会議に足を運ぶと、本当にこの世界で生きていけるのだろうかと生来の小心者である彼方は戸惑いを隠せない。研究は楽しく、それが具体的な成果となって現れることはなによりの喜びだっが、どうにも踏み切れないのだった。
 駆け出しであるところの彼方には、まだこれといった業績もなく、注目される論文もない。おまけに生活できるのがやっとの給料で、これでは付き合っている恋人に結婚を申し込むことすらできる状態ではなかった。周りの友人たちは仕事もし、結婚もし、充実した生活を送っているのに。この差はいったいなんだろう。
 熱心な研究者とは言いがたい若者。それが夕代彼方なのだった。


「失礼、君は手伝いの学生?」
 舞踏会ならば壁のシミと呼ばれるだろう、ぼうっと立ち尽くす状態だった彼方に、誰かが話し掛けてきた。東洋人らしいその若い男は、しばらく、彼方の反応を待っていたようだったが、遠い目をした彼方は気づかない。なにを勘違いしたのか、彼は暫く考えると次々に別の言語で同じような質問を繰り返した。
 ようやく、彼方が気がついたときには、男は三十番目の言語で同じ質問を投げかけていた。
「……あなたは、誰ですか?」
 彼方にしてみればその男は、いきなり目の前に出現し理解できない言語でわけのわからないことを尋ねる人物にしかうつらなかった。
 そこでようやく、男も彼方が自分の言葉を理解できなかったのではなく、ただ単に気づかなかっただけなのだと理解したのだった。
「失礼。この会議の準備のための手伝いの学生かと思ったもので。何人か来ていないようだから見つけてきてくれと頼まれたのだが……」
 東洋人は概して若く見える。同じような年代だろうと男は見当をつけたらしかった。会議の雑用やさまざまな業務のために、関係する学問を学ぶ学生が補助をするのは珍しいことではない。おそらく男も、そのようにしてここへ来たものなのだろう。理知的な瞳が印象的な、彼方より少し年下であろう若者。彼方が童顔であることを考えれば同世代に見えても不思議ではない。
 予想していなかった質問に、彼方は怒るのも忘れ、ただ目を丸く見開く。からかっている風でもなく、ひたすら真面目に尋ねる男の様子がうつった。急に、笑いがこみ上げる。
 いきなり腹を抱えて笑い出してしまった彼方を見て、男はむっとした表情になった。それに気づいた彼方は、慌てて表情を取り繕った。
「いや、ごめん。君の様子があまりに真剣だったものだから、つい。私は夕代彼方。残念ながら君が探してる手伝いの学生じゃない。一応、この会議の出席者だからね。とはいっても、私は先輩について来ただけなのだけれども」
 その言葉に、男は彼方が、ただ若く見えるだけなのだという事実を知った。勝手に勘違いしていたのだ。
「申し訳ありません。とても若く見えたものですから。それでは失礼します」
 自らの失敗を恥じたのだろう。男はぶっきらぼうにそう言うときびすを返した。
「あ、待って、君」
 そのまま立ち去ろうとする男を彼方は引き止めた。怪訝そうな顔をして男が振り返る。
「名前を知らないと不便だから。もしかしたら色々手伝いを頼むかもしれないし、実を言うと、あまり英語が得意とはいえなくてね。話が通じる知り合いが居るのは心強い。君の事をなんと呼べばいい?」
 大勢の中で取り残されて、彼方は少し心細かった。間違いとはいえ話し掛けてきた人物がいたことが、少しだけ嬉しかったのだ。
「私は風見零。植物学を専門にするつもりの学生です」
 零はそれだけを告げると、頭を下げて去っていった。
「かざみ、れい、か。悪いことをしてしまったかな」
 零のあまりの愛想のなさに、彼方は自分のどこが悪かったのだろうと首を傾げるばかりだった。


 零と名乗った青年とは、その日はもう、顔を合わせることはなかった。本格的な会議の前であったし、いろいろと準備に追われていたのだろう。
 再び彼を目にしたのは会議も中盤に差し掛かった頃だった。


 会議は、なかなか先へ進もうとしなかった。互いが互いの主張を譲ろうとしなかったのだ。それに個人や国家の利益、尽きることのない学術的な好奇心がかかわってくると、もう、目も当てられない惨状といったほうがふさわしい状態になる。
 彼方にも自分なりの主張がないわけではなかった。確かにいま、自分は人間の生活のためにこの惑星を変えていっている立場にある。より良い生活のためならば、多少の犠牲は仕方がないと考えていた。誰だって便利な生活にはあこがれる。そういうことだ。
 それにも限界はある。人が制御できないほどの技術は、それがどんなに有用であろうとも、存在してはいけないのだという思いもあった。
 しかし、それも確固とした理由があるわけではない。ただ、どんなものにも超えてはいけない一線のようなものがあるのだと、ただ漠然と考えていた。それは極めて普通の考え方であったが、そんな考えが研究の邪魔になるのだと彼方は研究所の人間からよく言われていた。その度に彼方は、そうなのかもしれないと思う。できれば色々な考えに揺さぶられる事なく研究に没頭できたらどんなにいいだろう。
 しかし性分として、そういった生き方はできないのだった。
 そんな彼方だから、長引く会議は苦痛に変わりつつあった。みんなあと少しずつ主張を譲ったなら、丸くおさまるのに。
 浮かんだ疑問が消えることはなかった。
 格好だけは会議に加わっているが、つい出てしまいそうになるあくびをかみ殺すばかりだったそんなとき、である。
 曲がりなりにも進行していた会議が、突然沈黙にかわった。皆がそれぞれの主張を発言するためにもたらされた、思考の時間のための沈黙ではない。
 それは起こり得ないことが起こったとでもいうような、驚きがもたらした沈黙であった。
 半ば意識を飛ばしかけていた彼方は、異変にようやく気がついた。慌てて心を現実に引き戻す。会場中の人間の視線が、ひとつに集まっていた。彼方もつられて、その方向を見る。
 あの青年がいた。彼方を同じ学生だと勘違いして話しかけてきた風見零だ。
 零は、名だたる研究者や有力者の鋭い視線を受けてなお、物怖じせず、まっすぐに前を見据えていた。友人だろうか、彼のとなりにいた青年のほうがあおい顔をしてうろたえている。
「あなたがたはみずからの命と引き換えにしてでも、技術の進歩を求める覚悟がおありですか」
 顔色ひとつ変えずに、零はそう、よくとおる声で言い放った。