13.


「ファム、どうしたんだ、突然」
 ハルの見えなくなった廊下に立ちつくすファムの背後から、声が掛かった。慌てた様子のアキは、突然手を振り払って駆けだしていったファムの様子にとまどいを隠せないでいる。
 大きい手が彼女の華奢な肩に触れた。跳ね上がりそうな心臓を抑えて振り返る。
「なんでもないわ」
 わずかに揺れる瞳がアキを見た。彼にすがりつけたら。はかない願いが浮かんでは消える。
 その表情の微妙な変化を、アキは見逃さなかった。やはり、彼女の心にはなにかがある。
「なんでもないという顔には見えないね。この頃の君は、どこか変だ。突然泣きそうに瞳を潤ませたり、叫んだり。いったい……」
 アキの手からぬくもりが伝わる。ひとつ息をついて、ともすればパニックを起こしてしまいそうな自分を、なんとか落ち着かせた。手を上げて、その細い指をアキの髪に絡ませる。
「なんでも、ないわ。もうすぐ、すべてが終わるのよ」
 アキの問いに答えず、ファムはただそのようにだけ言い、笑った。


 すべてを告げることに決めたショウは、情報管理エリアでメンバーにすべてを話していた。告げられた真実に、言葉も出ないものがほとんどだった。誰よりも信じていた管理者さえもがそれに加わっているというショックから、立ち直れないでいる。
 そして、すべてがなくなってしまったという事実にも、言葉を失うほどの動揺がメンバーを襲った。
 少し前の自分の姿を見ているようで辛かった。ショウ自身も、いまだ完全に立ち直ったとは言いがたいのだ。それでも、このままでいるわけにはいかない。
「すぐに立ち直れ、といっているわけじゃないです。もちろん、協力したくなければそれでもかまいません。でも、少しでも望みの残っているうちは、あきらめたくないんです。まだ私たちは生きています、ここにいます。……力を貸してください。お願いします」
 静かな部屋に、ショウの声だけが響いた。頭を下げたショウはそのまま、自分の席に戻る。決断するのは彼らなのだ。
 長い沈黙が続いた。動くものはいない。皆ひたすら、自分の道について考えているようだった。ショウの言葉が、心の奥に響く。なにをいま、するべきなのか。
 自分の席についたまま、ショウは目を閉じてひたすら待った。

 どれだけ経っただろう。意を決したように、ひとりが立ち上がった。かすかなざわめきの中、彼は迷いながらもしっかりとした足どりで、ショウのほうへと向かう。それが、かつてショウは管理者補佐としてふさわしくない、とアキに直訴した人物であることを、当のショウは知らない。
 彼はショウの目の前まで来ると、小柄な彼女に合わせるようにひざをついた。
「私も、あきらめたくありません。できる限りの事をしましょう。協力、します。ショウ……新しい、管理者殿」
 その最後の言葉を、静かに聞いていた皆の心が決まった。ひとり、またひとりと顔を上げ、ショウの許へ歩み寄る。頼りなかったはずの、少女の許へ。メンバーは一様に、信頼のまなざしをショウに向けている。いつのまにか、彼女は誰よりも成長していた。信じるに足る、管理者だった。
 アキがいなくなってからのことを、皆が思い出していた。誰よりも辛いだろうに、彼女はいつも一生懸命に立っていた。一番経験の浅い彼女を、自分たちが助けていかなければならなかったはずなのに、逆に支えられていた。
 彼女ならば、共に道を見つけられる。切り開いていける。なにがあっても。
 メンバーの心の中には、そんな確信が芽生えつつあった。
「皆さん……ありがとう、ございます」
 メンバーの中心で、ショウは、それだけを言うともういちど頭を下げた。


「Egg Shellの全員を集めることは不可能でしょう。逆に混乱を招きかねません」
「では、施設内全域に放送しかないですね。もう、時間がないんです。早いほうがいいと思います」
 決断をしてからは早いもので、メンバーはそれぞれ、準備のために方々へ散っていった。すでに、今日の業務時間は過ぎていた。本来ならもう、大部分の人間が体を休めている頃だった。しかし、情報管理エリアメンバーは誰ひとりとして、仕事をやめようとはしない。
 ショウはすべてを告げるべく、委細を詰めている。情報管理エリアでも指折りの頭脳たちが補佐をしていた。
「放送、といっても、声だけでは多分効果は薄いでしょう。普段娯楽用に使っている大型ディスプレイも繋いで、注目を集めないと」
「事前に、皆に知ってもらうことも必要ですね。聞き逃してしまったでは済まされないことですから。ショウ、各エリアに協力を要請しますか?」
 伝えられる事柄を頭の中に入れて、ショウは一番いい選択をしようと懸命になっていた。混乱をできるだけ少なくし、そして希望を芽生えさせるために。
「まず、明日の業務開始時間に、各エリアリーダーを会議室へ集めてください。それと、教育エリアリーダーのリアリィと機械調整エリアリーダーのヒロはすでにこの件について知っています。もう動いてもらっていますから、彼らのことは大丈夫です。リーダーたちを集めたら、そこで私が話しましょう」
「私たちに話したようなことをですか?」
 ひとりの問いに、ショウは頷いた。
「それが終わった、明日の正午。リーダーの出席を願った上で、施設内全域に管理者・各エリアリーダーの連名ですべてを告げます。なるべくディスプレイのある場所から動かないように、ひとりでいないように伝えてるつもりです。ひとりでなんて、きっと耐えられないし受け止められないでしょうから」
 考え抜いた上でショウは言葉を口にした。

「それでは皆さん、よろしくお願いします」
 ショウの言葉と共に、残ったメンバーたちも、それぞれの仕事を抱えて飛んでいく。
 ひとり残されたショウは、明日を思い、深い息を吐き出した。
 想像もしていなかった時間の流れに巻き込まれて、こんなところまで走ってきてしまった。もう、かつてのような穏やかな時間に戻ることはできないだろう。けれどいまの彼女に後悔はなかった。
「負けていられない。立ち止まってなんかいられない。絶対に、あきらめない」
 未来を、これからも作っていきたいのだ。失うなんて、絶対にできない。
 強い意志を瞳の奥に秘めて、ショウはまっすぐに前を見つめた。


「ヒロ、手がかりは見つかった? ディスクの解析は? 早く、急いで。時間がないの」
 ヒロの頬に蜂蜜色の髪が触れる。ディスクの解析をはじめてから、もうかなり経つ。その作業の途中から、半ば無理やり乗り込んできた彼女――リアリィ――はヒロの戸惑いも気にしない様子で、彼を追い立てていた。その後ろではルークが、おろおろした様子で立ちすくんでいる。彼女がここまで激しい行動をとる人物だとは思っていなかったらしい。
 普段大人しい人物がせっぱ詰まったときどうなるか。ヒロはこの数日でよく学んだ。
「そんなこといわれたって、どうしようもないって何度言ったらわかってくれるんだ。少しは落ち着いて、それに、こんな時間までかかりきりになっていたら、次の仕事に支障が」
 ひたすら困りきった様子でヒロが言う。彼女に対してはぞんざいな口の利き方をすることができずにいた。
「そんなことを言っている場合じゃないの! 早くしないとみんなおしまいになってしまうわ」
 Egg Shellの騒がしさが、雰囲気を変えたのだ。まるで嵐の起こる前のような、怖いくらいに張りつめたものに。本当に、いつ『そのとき』が来るのかわからない。これ以上はないほどに、リアリィの口調は焦りを表していた。
「お願い。隠された場所が、正確にはどこにあるのか、どうやっていけばいいのか、それだけでも、早く」
 出て行こうとする人たちは、ショウがなんとかしてくれる。それなら自分は、アキたちをなんとか思いとどまらせなければいけないのだ。そのためには、彼らがどこにいるのか突き止めなくてはならない。もうあとは、ここしかないのだ。
 泣きそうになる声と自分を、必死に奮い立たせた。まだ、間に合う、と自分に言い聞かせていなければ、崩れ落ちてしまいそうだった。
「わかってる。俺だって、このままって訳にはいかない」
 長い間端末にかじりついていたせいで、もうまともに考えることすら怪しくなっている。業務時間をとうに過ぎ、次の業務時間開始が迫ってきている。ここでどれだけの時間を費やしたのか、それももうわからない。目も霞んでいた。それでも端末の前から離れようとはしない。離れてはいけないと心が命じていた。
 ただならぬ雰囲気を漂わせたままのリアリィが、多くを語ることはなかった。しかし、その少ない言葉の端々から、もう一刻の猶予もない事態なのだということが伝わってくる。
 父の願いも星の海への夢も、彼にとってはこの上なく大事なものだった。しかし、これはそれ以前の問題なのだ。
 封印されたディスクの中には、数多くの情報が詰まっていた。すべてを見る時間は、いまはない。端末の処理が遅いことに苛立ちを感じながら、ヒロは探索を続けていた。なぜだかショウの姿が頭から消えない。彼女もいま、必死になってがんばっているのだろうか。彼女の笑顔を、また見る日は来るのだろうか。


「あった!」
 一際大きい声が響く。皆の目がディスプレイに集中した。
 現れたのは、設計図と思しきもの。いつも見慣れているEgg Shellのものではない、とヒロとルークが気づいた。
 シェルターならば必要のない推進機関や、大仰過ぎるほどの隔壁、特徴的な構造。
 ――船だ。
「これが、隠されたもうひとつのEgg Shellなのね。ここに……。ヒロ、ここにはどうやって行けばいいの?」
 リアリィの問いに、またしばらく端末を操るキィの音が続いた。
「ええと、上と下をつなぐエレベーターからだな。どうやらなにかの操作で、エレベーターを途中で止めていかなきゃならないみたいだ。キィワードの端末操作が結構厄介かもしれない。長い」
「いますぐ出せる?」
 ディスプレイに張り付くような姿のまま、リアリィが言った。
「もちろん」
 その声と共に、画面が変わる。一面にキィワードと手続きが表示された。それ自体はどうということのないものであろうが、長すぎて、覚えることは不可能に近いだろう。いったいなぜここまで複雑にしたのか、と少しだけ父たちを恨みたい気分になった。一分でも時間が惜しいときなのに。
「ヒロ、これをプリントアウトして。私が行くわ」
 画面を見てもひるむことなく、リアリィは命じた。その言葉の厳しさに、ヒロが一瞬戸惑いを覚える。が、鋭い視線がやまないのを感じ、慌てて言うとおりにした。紙が吐き出されるのを待つ、もどかしい時間が過ぎる。張り詰めた沈黙が部屋を満たしていた。
 プリントアウトが終わると同時に、優雅さを残しつつ、それでもすばやい動きでリアリィが紙を掴み取った。そのまま、きびすを返して駆け出していく。あっけにとられたヒロとルークの耳に、彼女の声が聞こえた。
「ありがとう! なんとかしてみせるわ。貴方たちはEgg Shellの様子に気をつけていて。危険だったら迷わず身を守ってね。なにが起こるかわからないもの。そしてヒロ、ショウのそばにいてあげて!」
 蜂蜜色のきらめきが、かすかに余韻を残して消えた。
「じっとしてはいられないな。ルーク。お前ここで解析の続きを頼めるか? お前の夢の宇宙船だ。願ってもないことだろう?」
「はい! やります。でも、先輩はどこへ?」
 席を立ったヒロが、ルークを振り向いた。どことなく不敵な笑みが彼の口元に浮かんでいる。
「決まってる」
 皆まで言わず、ヒロも部屋を駆け出していった。
 なんのことを言っているのか思い当たったルークは、ただその様子を見送り、席についた。真剣な表情で端末に向かう。いまは誰もが、やれることをやるしかないのだ。それがずっと夢見てきたことならば、断る理由などどこにもない。


「いいか! いよいよ決行の日だ。やっと、外に出られるんだ」
 明かりを落とした部屋の中で声が響いた。その声に多くの気配が頷く。
 皆、ひとつの目的のために集まったものたちだった。すなわち、この息の詰まりそうな卵を破壊して、なつかしい大地に帰るという目的を実行するために。
 彼らはもう、ここで暮らすのは嫌だった。来る日も来る日も白い壁に囲まれ、つくりものの環境で日々を送るのは、ひどく息苦しかった。澱んではいたが、大地の生み出す風と、曇ってはいたが、広い空のもとへ帰りたかった。
 こんな所へ来るべきではなかったのだ。いつまでも、大切な家族のもとにいるべきだったのだ。

 乾いた金属の音がかすかに続く。
 彼らは息をひそめて、ときが来るのを待った。


 静かに空調が働くその部屋で、ハルは重いため息をついた。疲れた目元を押さえて、椅子に座る。
 暫くして上げられた視線の先には、役目を終えたばかりのさまざまな機器や薬品が転がっていた。
 父の狂気の軌跡をたどるのは、耐え難い苦痛だった。しかしハルには他に考えられる方法がなかったのだ。彼らに協力すると見せつつ、彼らの計画を無に帰すためには。
 父の願ったとおりのことが起こっているとしたら、外の世界は、人の住める状態ではなくなっているだろう。それを、なんとかして人の住める状態にしておくことが必要だった。そうすれば、人は再び生きてゆける。
 なにを欺いてでも、これだけはやり遂げなければならなかった。
 卵の運命を駆けた一世一代の挑戦なのだ。
「卵は外から中の命を守るためのもの。そして……命に一番初めに試練を与えるもの。僕たちが再び生まれるためには、絶対に避けられない壁。殻を破る過程で、耐えられないものは、殻を破れないものは生きてはゆけない。夕代博士はわかっていて、Egg Shellと名付けたのかな。卵のもうひとつの意味を、わかっていて」
 容赦なく訪れるそのときを、ハルは裁きを受ける人のように、ただひたすら目を閉じて待った。
 脳裏をしきりにかすめる、この先どう転んでも、もうあえないだろう淡い少女の記憶にまどろみながら。


 静かに夢にたゆたう卵の中。
 少しずつ、だがはっきりと、未来は動き始めていた。