Egg Shell 最終章 永遠回帰
1.


 時は、混乱が生まれる数刻前に遡る。Egg Shellは、まだ安らかな眠りの中にあった。これから起こる出来事などなにも知らない多くの住人は、それぞれのまどろみに包まれていた。
 その、静かな卵の中。あたりの沈黙を破るかのような足音が響いていた。一生懸命になにかを目指す、そんな音。絶え間ない足音の合間に、荒い吐息がかすかに響く。明かりを落とした居住区。その中で、走る人物の蜂蜜色の髪がなびいてきらめいた。

 走り続けるリアリィの手に握られているのは、ヒロから奪ったばかりのプリントアウト用紙だった。暗い考えに囚われてしまったアキたちに会いに行くための、大切な鍵だ。救いに行く、などという気持ちでいたのではないけれど、どうしても自分が、彼らに会いに行きたかった。
 理屈ではなく、心の問題なのかもしれない。これからもずっと、変わらない想いがリアリィの中にあった。管理者でも開発責任者の息子でもなく、ただひとりの人間として、自分は彼、アキが大切なのだ。
 その彼が、自らの身を滅ぼすような真似をしていることが、リアリィには許せなかった。
 こんなことになってしまった原因は、彼の心の中にあるのだろう、と思う。上に立つ人物であることを、常に求められていたアキには、弱音を吐くことなど許されなかったはずだ。常に前を向き続け、後ろを振り返るなどとんでもない、と彼は思いこんでいた節がある。実際には、彼の周りの者たちはアキにそれを求めていたわけではなかったのだろう。しかし、結果として、彼はどこにも出せない感情を、ひとりで抱え込んでしまった。
 おそらく、アキ自身も無意識のうちに、そんな感情を閉じこめてきた。それ故に、膨らんだ感情は、行き場を求めて疾走してゆく。
 いまなら、まだ間に合う。混沌が卵の中を支配するその前だから、取り返しはつく。
 いままでにないくらい、さまざまな言葉が投げられるかもしれない。信頼していた人物の思わぬ裏切りに、去ってゆく者もいるかもしれない。
 それでも、それでも。
 リアリィは思う。
 生きている限り、遅すぎることはない。
 祈るのではなく、行動することで、道は開ける。絶望に立ち止まるより、一歩ずつでも確かに歩く。
 リアリィはただまっすぐに、走り続けた。目指す所は卵の中心。過去に一番近い場所。過去の幻影に囚われた、幼子の眠る場所。


「リアリィ? ……リアリィなの?」
 薄闇の中、駆けるリアリィの背に、小さな声が掛かった。こんな時間に何事かしら、と振り返ったリアリィの視線の先には、ひとりの少女がいた。誰もが眠っているであろう、こんな時間なのに、彼女が顔を出した部屋からは、煌々と明かりが漏れている。
 少女――メイは、しばらく眠っていないかのような疲れ切った表情で、リアリィを見つめていた。泣きはらしたかのように真っ赤な目が、心細そうに揺れている。
「メイ? あなたどうしたの、こんな時間に」
「それはリアリィも同じじゃない……。なにかあったの?」
 一刻も早く、アキたちのもとへ行かなければならない。心は急いていたけれど、メイのあまりに弱々しい姿が気になって、リアリィは思わずメイのもとへ歩み寄った。
 真実を知ってしまったときから、メイはどこかおかしかった。何度彼女の部屋へ足を運んでもメイは自分から扉を開けることはなく、リアリィの呼びかけにも答えてくれない。ハルがリーダーを去って姿を消して以後、メイの姿もまた、植物エリアから見られなくなった。
 自分のエリアや皆の集まる休憩室で、明るい表情を振りまいていた少女の姿はどこにもない。
 なにより大切だと思っていた者の裏切りが少女の心を閉ざしてしまったのだ。
 頼りなく揺れる華奢なメイの体を、リアリィは慌てて支えた。触れた肩は驚くほど痩せている。いまにも倒れてしまいそうだった。
「メイ、あなた、なにも食べていないのではない? 寝てもいないんでしょう。こんなに……」
 やつれきった小さなメイを、リアリィは思わず抱きしめた。
「リアリィ……眠れないの。ハルに、ひどいこと言っちゃった。それに、なんにも知らないの。ハルが変なことに巻き込まれているのに、私はなんにも知らない。ハルも、なんにも話してくれない。もう、どうしたらいいのかわかんないよ」
 リアリィに抱きしめられたのがきっかけになったのか、メイの、堪えていた感情が一気にあふれ出す。自分の殻に閉じこもって、考えに考えたけれど答えは出なかった。なにが一番いい道なのか、まったくわからなかった。
 こんな気持ちを、本当は誰かに聞いて欲しかったのに。
「もう大丈夫よ、大丈夫だから……」
 子どものようにしゃくり上げるメイを、リアリィはただひたすら抱きしめた。なぜこんなことが許されるのだろう。とおい昔に無邪気に信じていた神を、リアリィは恨みたい気持ちだった。


「ごめんね、リアリィ。意地ばっかり張って、本当に馬鹿みたい」
 真っ赤な目が、もっと真っ赤になっちゃった、これじゃ本当にウサギみたいね、と半ばおどけてメイが言う。そんな彼女を、リアリィはただひたすら、優しい瞳で見つめている。
「ねえ、メイ。もういちど、がんばってみましょう。ハルに、自分の想いを告げるのよ。もっともっと、近い場所に寄り添うために」
 優しい表情を崩さないまま、リアリィは告げる。このままでは、なにもはじまらない。互いが互いの心を思うがゆえに、なにより大切な人に背を向けてしまう、そんな悲しさが、ハルとメイの間にはあった。
「でも……ハルは、どうしてなにも話してくれないんだろう。なにがあっても、いまのハルはハル、それ以外ないのに」
「そうね。あなたはずっと、彼のそばにいたのだものね。……本当は、彼の口から話してもらうことなのかもしれないけれど、私には心当たりがあるわ。ハルがなぜ、口を閉ざしたのか」
 ファムの口から告げられた、ハルの過去。きっと、あの優しい青年はそのことを気にしているのだろう。誰より少女のことを思うがゆえに、彼は真実を心の中に封印し続けている。
「……それは、ハルの過去に関わること? どうしてリアリィが知っているの?」
 メイの瞳の色が変わった。
 ハルの沈黙の意味を、メイはずっと考えていた。いつも穏やかな表情を崩さなかった彼が、なぜ時折凍り付いた表情をするのか、冷たい瞳をするのか。考えれば考えるほど、答えは流砂に呑み込まれるようにわからなくなっていく。
 けれど、その混乱の中でたったひとつ、メイが確信したことがあった。いつでも、出会ったときからハルは変わらなかった。手をさしのべて、ずっと握っていてくれた。
 ハルの心に闇があるとしたら、それはメイと出会う前に原因があるのかもしれない。
 出会ってからあのときまで、メイは彼から目を逸らしたことなんてなかったのだから。
 彼の過去。冷たい瞳と声。突き通されていた嘘。はじめはひどく怖くて、悲しかった。でも、いま冷静になってみれば、ハルの心を自分がひどく傷つけてしまっただろうことがなにより悔やまれた。
 優しい瞳のその奥に、嘘に抱え込まれていた深い悲しみを、そのときは見つけることができなかった。それがひどく辛くて苦しい。
「そう、ね。ハルがここに来るまでのこと、ファムが教えてくれたわ。ハルが、なにを恐れているのか、私はわかる気がする。きっと、離れていくのが怖いのよ。いままで親しかった人たちが、自分を恐れて去っていくのが」
 なぜなら、ハルは『彼』の息子だから。すべてを無にかえそうと、悪をその身に背負った人物の、息子なのだから。
「私はそんなことしないわ。だってハルはハルだもの。大好きな、ハルだもの……。ハルがたとえ、犯罪者だったとしたって、そんなの構わない」
 涙に濡れる瞳が、かすかに笑った。
「もういちど……もういちど、ハルに聞いてみたい。なにがあったって私はそばにいるって、そう伝えるわ。……今度は、なにがなんでも、手を離したりしない。手錠でもなんでももってこいってくらいよ」
 少しずつ元の調子を取り戻しはじめたメイに、リアリィも笑って返した。
「……そうね、それがいいわ。あなたらしい。だったら、会いに行きましょうか。間に合ううちに、取り返しが着かなくなる前に」
 リアリィの話した意外な言葉に、メイは目を見開く。
「え? どういうこと?」
 穏やかな表情を崩さないまま、リアリィは真剣なものを言葉の端ににじませる。そう、もう時間がないのだ。メイも来てくれるのなら、これほど心強いものはない。
「詳しいことはあとよ。このままではもう未来がないの。卵が、壊れてしまう」
 あまりに突拍子もないことなので、信じられずにメイは首を傾げた。
 卵――Egg Shell――は、なにより強固な守りだ。壊れるはずがないのに。メイは思った。
 でも、あまりに真剣なリアリィの瞳は、嘘を言っているようには見えない。
「それに、ハルが関わっているのね?」
 リアリィは表情を崩さないまま頷いた。
「いまなら止められるわ。まだ、間に合うの」
 こくりと頷いたメイの手を勢いよく掴んで、リアリィは再び走り出した。


 メイに声をかけられ、泣き付かれてからかなりの時間が経ってしまったのだろう。外はすっかり光に満ちていた。人のざわめきが戻っている。どうやらもう、業務開始時間は過ぎてしまっているらしい。
「どこに行くの?」
 手を引っ張られながら走るメイが、至極当然の問いかけをした。どこに行くか、まったく見当が付かない。
「エレベーターよ。そこから秘密の場所に行けるの」
 秘密の場所、などという子どものようなネーミングに、思わず笑いそうになってしまったメイだが、リアリィの言葉にはそんな楽しい意味は微塵も含まれていなかった。
 今日はなにか行事でも予定されていただろうか、居住区のあちこちに人が集まっている。すでに業務時間だろうに、仕事をしている者がいない。
 Egg Shell全域に流れていただろうショウの放送を、ふたりは聞いていなかった。すべてに心を閉ざしていたメイの部屋では、すべての接触が絶たれていたのだ。
 ざわめきの中、映像端末の前を動こうとしない皆を押しのけて、ふたりはエレベーターに乗り込んだ。

 狭いエレベーターの中、リアリィとメイはようやくエレベーターの端末扉をこじ開けた。並ぶキーボードと、リアリィが大切に持っていたプリント用紙を付き合わせる。
「これを打ち込めばエレベーターが普段とは違う場所に止まるはずよ」
「そこに、ハルたちがいるのね」
 うなずきあい、早速端末に挑み掛かった。もう、絶対に退くことはできないのだ。
 最初のキィを、リアリィが叩いたそのとき。
 ふっ、と明かりが消えた。非常用のバッテリーの、薄い明かりだけがエレベーターに満ちる。急速に下っていたはずのエレベーターが勢いをそがれ、その反動が襲う。ゆっくりゆっくりとしか動いていないことがわかった。
「停電……?」
「外の世界じゃないんだし、こんな所で停電っておかしくない? それともヒロが整備を怠って……」
 不安を紛らわせるために、思わず愚痴が口をついて出る。
「こんなときに停電なんて、本当に偶然なのかしら。もし違ったら」
 普段であれば、メイの愚痴に笑うこともできた。滅多にない状況を、少しは楽しむこともできた。けれど、いまはそんなのんきな状況ではない。
「もう、リアリィったら心配性なんだか……きゃぁ!」
 ドォンッ。
 先ほどとは比べものにならない衝撃が、エレベーターを襲う。
 倒れ込んだメイを慌てて支えながら、リアリィは心の底から生まれた、得体の知れない恐怖を感じていた。