6.
その日は、いつもと変わらない、ごく普通の日だった。どんより曇った空からは、所々に光がのぞき、最近わずかに澄んできた風が時折吹き抜ける。
どこまでも続く荒野の中、それでも人は生きていた。
ようやく人は、自らの愚かさに気づきはじめた。命を失ってゆく大地を見つめ、その取り返しのつかない事態に愕然とする。相手にされずに消えていった、心あるものたちの声が、ようやく届きはじめた。
それでも、いまではもう、かつてのような高層の建築物は数えるほどしか存在しない。都市はほとんど、廃墟へと変わった。命を奪う荒廃した環境は、その触手をゆっくり広げていく。力にすがる者はそれでも、勝ち目のない戦いにしがみつくように、頑丈に造られたビルにこもることをやめようとしなかった。
それが滅びを招く要因のひとつだと気づかぬ愚かさを持つものたちは、過ちをそのままに、混乱ばかりを生みだしてゆく。
Egg Shell封印から二年。世界のほころびはあちこちに広がっていた。
そしてまた砂時計のように、時は滑り落ちていくばかりであった。
「いままでご苦労だった。もう我らにできることはない。少しもしないうちに終わりは来るだろう」
そんな声がうち捨てられかけた都市の、ほんの少しだけ人の残った区画に響いた。片隅の白い研究所の中には、こんな状況でもなお残る、わずかな希望に賭けている人々がいる。大きかった研究所は、度重なる崩壊に巻き込まれて場所を変え、かつての勢いは見る影もない。
最盛期にはあれほどたくさんいた研究員も、いまでは少ない。
故郷に帰ったまま戻れなくなった者、病に倒れた者、そして絶望に取り込まれた者。さまざまな理由でひとりふたりと消えていった。
台に立てばすべてが見渡せるほどの小さな部屋に、彼方は皆を集めた。研究員たちを前にして、彼方は深い息をついた。
その意味がわからず、研究員たちは戸惑った表情をあらわにした。小さなその部屋は、すぐにざわめきでいっぱいになる。
なにがあろうと絶対に諦めないという心でいままで来た彼方が、いったい何故こんな言葉を口にするのか、研究員たちは理解できなかった。
「いままで、君たちは良くやってくれた。望み少ない未来を信じる君たちの力があったからこそ、卵は無事に眠りにつくことができた。残された仕事にも片がつき、これで我々のやるべきことはおしまいだ。Egg Shellの計画の成功を祈ることしか、いまの我々にはできない。もう、打つ手はすべて打ってしまった。近いうちに終わりは来るだろう。確実に。いままで引き止めてしまって申し訳なかった。君たちの望むところ……故郷だろうとどこだろうと、好きな場所に行くといい」
静かな表情で、彼方は言葉を続けた。なにを言わんとしているのか、ようやく気づいた研究員たちは息を呑む。立ち上がり、なにかを言おうとしたひとりを、彼方は手の動きで制した。
「話は以上。本当にいままでありがとう。君たちの無事を祈るよ。できるだけ長い間、生き延びてくれ」
そのまま、彼方はきびすを返す。引き止める研究員たちの言葉など、まったく耳に入っていないかのようだった。
窓の隙間から、薄明かりが覗く。疲れ切った体を彼方は椅子に預けた。ゆっくり休む暇すら与えられなかった体が、悲鳴を上げている。彼方は、深いため息をついた。そろそろ、この体も限界なのだろう。
「夕代博士、入ります」
言うやいなや、許可も取らずに部屋に駆け込む人物がいた。こんなとき、一番わかりやすい行動をする人物はひとりしかいない。彼も、はじめの頃の冷たい様子から、ずいぶん変わったものだ、と彼方は奇妙な感慨を抱いた。いまでは昔をかけらも感じさせない、すっかり熱い人物になっている。
「ヴィルト、君はどこに行くんだ?」
「どういう、おつもりなんですか、ここを解散するなんて。夕代博士らしくありません。……博士!」
声を荒げるヴィルトには、彼方の変化が信じられなかった。彼方だけは、絶望の外にいると思っていたのに。
「君も、行きたいところに行くといい。葛葉の具合もあまり良くないんだろう。無理はしなくていい。本当に、残された時間は僅かなのだから」
ヴィルトの激しさとは対照的に、彼方はやはり、静かなまま、表情を崩さない。どこか悟ったような眼差しで、前を見つめている。
「博士。いったいどうしたっていうんですか? まさか」
彼方の眼差しが、ヴィルトの感情を鎮めてゆく。静かな、それでいてなにかを強く訴えるそれ。
ヴィルトは、彼方がなにを言わんとしているのか、薄々ながら感じ取り、表情を変えた。相変わらず察しがいいと彼方は苦笑する。
「聡いね。タイム・リミットだよ。卵は無事眠りについたが、親鳥のほうは無理だったようだ。あと少しも経たぬうちに、世界は終わりを告げるだろう」
あくまで静かな彼方の口調。
「現在、まともに機能している都市は百もない。重要人物が密かに作らせた避難施設もそれほど多くない。Dr.ウインドが思いたてば、すぐにでも片付けられる数だ。覚悟はいいかとご丁寧にもメッセージを頂いたよ」
彼方の顔に、かすかに広がる苦笑。
「彼は私のことを一応は認めてくれたらしいな」
普段なら、これから滅びを与えるものたちに、事前に知らせたりなど絶対にしない彼なのだ。こんなことは極めて珍しい。
「そんなもの、信用できません。彼のことです。言葉で俺たちを惑わせようと企んでるに違いないんです。確かに都市はほとんど崩壊しています。けれど、環境は少しずつ元に戻り始めているんです。悔しいけれど、あいつの望んだ方向に。だったら、全てを終わらせる必要なんてどこにもない。違いますか?」
「彼は、やると言ったらやるよ。直接話したことはなくても、長年やりあってきたんだ、それくらいはわかる。今更、もう戻れないのだろう。これで、全てを終わりにしたいのかもしれない」
崩壊した世界はいずれ、再生の道を辿るだろう。彼方は、いままでの長い戦いを振り返るようなとおい目をした。あれほど憎んだDr.ウインドに、いまでは奇妙な連帯感すら覚える。相容れられない思いを持ちながらそれでいて近い場所にいた。
望んだものは同じ、世界の再生。
「だが、私たちにはEgg Shellがある。最後の宝だ。あれがあるかぎり、希望は潰えたりしない。彼の手がそこに及んでいたとしても、卵は絶対に無事だ。研究者としてははなはだ不本意だが、理由もなくそう思うんだよ。私たちが舞台から去ったとしても、負けたわけではない。未来は続く。そこには、勝利が見えるよ。私たちの賭けの、ね」
彼方は、驚くほどにすがすがしい顔をしていた。いままでの長い時間を思い、ヴィルトは目頭を押さえる。これで本当に最後なのだと、心が告げていた。
「ありがとうヴィルト。君や葛葉と出会えて良かった。さあ、行くといい」
手を固く握りしめる。涙を堪える様子のヴィルトの肩を軽く叩くと、彼方は別れを告げた。
「夕代博士、博士はどこに行くんですか」
立ち去りかけるヴィルトが、名残惜しそうに振り返った。彼方は逃げる準備はしていないのだろうか。ここに居続けるなら、まず助かる術はない。
「私はここに残るよ。最後の挑戦だ。受けなくては失礼だろう」
彼方は相変わらずの静かな顔で微笑んだ。
「もし運良く孵化に立ち会えたなら、暁に済まないと伝えてくれ」
とうとう溢れてしまった涙を拭いもせず走り去るヴィルトの背に、彼方の声が掛かった。
静かに、風の吹く音がする。廃墟の中、その男はただ静かに立ちつくしていた。白衣がおどる。
彼は自分の最期の地に、ここを選んだのだった。とおくから、よみがえりかけた命の匂いが運ばれてくる。その空気を一息吸い込むと、彼は薄く笑った。どこか自嘲気味なそれ。
色素の薄い髪を風に遊ばせながら、男は空を仰いだ。
すべては終わった。あとは最後の仕上げを残すのみ。男には、自分のすべてを賭けたこの試みが、必ず成功するという奇妙な自信があった。
まず、なにより大事な願い。この地上を再び命あふれる場所にすること。これは、時間さえあれば必ず成し遂げられる。
次に、すべてをゼロにするということ。彼の心の中の憎しみを、すべて解放してしまうということ。これもまた、半ば成功している。
――そして。これは言うなれば隠された願い。ないはずの想い。
自分がいなくなった後も、延々と続く時の流れの中で、必ず実を結ぶだろうひとつの結末、そしてはじまり。
「生き続ける。どこまでも……私の、勝ちだよ」
低い声はやがて、巻き起こった大嵐に呑み込まれ、消えていった。
その日、時はいちど、その動きを止めた。
その日は、いつもと変わらない、ごく普通の日だった。どんより曇った空からは、所々に光がのぞき、最近わずかに澄んできた風が時折吹き抜ける。
どこまでも続く荒野の中、それでも人は生きていた。
ようやく人は、自らの愚かさに気づきはじめた。命を失ってゆく大地を見つめ、その取り返しのつかない事態に愕然とする。相手にされずに消えていった、心あるものたちの声が、ようやく届きはじめた。
それでも、いまではもう、かつてのような高層の建築物は数えるほどしか存在しない。都市はほとんど、廃墟へと変わった。命を奪う荒廃した環境は、その触手をゆっくり広げていく。力にすがる者はそれでも、勝ち目のない戦いにしがみつくように、頑丈に造られたビルにこもることをやめようとしなかった。
それが滅びを招く要因のひとつだと気づかぬ愚かさを持つものたちは、過ちをそのままに、混乱ばかりを生みだしてゆく。
Egg Shell封印から二年。世界のほころびはあちこちに広がっていた。
そしてまた砂時計のように、時は滑り落ちていくばかりであった。
「いままでご苦労だった。もう我らにできることはない。少しもしないうちに終わりは来るだろう」
そんな声がうち捨てられかけた都市の、ほんの少しだけ人の残った区画に響いた。片隅の白い研究所の中には、こんな状況でもなお残る、わずかな希望に賭けている人々がいる。大きかった研究所は、度重なる崩壊に巻き込まれて場所を変え、かつての勢いは見る影もない。
最盛期にはあれほどたくさんいた研究員も、いまでは少ない。
故郷に帰ったまま戻れなくなった者、病に倒れた者、そして絶望に取り込まれた者。さまざまな理由でひとりふたりと消えていった。
台に立てばすべてが見渡せるほどの小さな部屋に、彼方は皆を集めた。研究員たちを前にして、彼方は深い息をついた。
その意味がわからず、研究員たちは戸惑った表情をあらわにした。小さなその部屋は、すぐにざわめきでいっぱいになる。
なにがあろうと絶対に諦めないという心でいままで来た彼方が、いったい何故こんな言葉を口にするのか、研究員たちは理解できなかった。
「いままで、君たちは良くやってくれた。望み少ない未来を信じる君たちの力があったからこそ、卵は無事に眠りにつくことができた。残された仕事にも片がつき、これで我々のやるべきことはおしまいだ。Egg Shellの計画の成功を祈ることしか、いまの我々にはできない。もう、打つ手はすべて打ってしまった。近いうちに終わりは来るだろう。確実に。いままで引き止めてしまって申し訳なかった。君たちの望むところ……故郷だろうとどこだろうと、好きな場所に行くといい」
静かな表情で、彼方は言葉を続けた。なにを言わんとしているのか、ようやく気づいた研究員たちは息を呑む。立ち上がり、なにかを言おうとしたひとりを、彼方は手の動きで制した。
「話は以上。本当にいままでありがとう。君たちの無事を祈るよ。できるだけ長い間、生き延びてくれ」
そのまま、彼方はきびすを返す。引き止める研究員たちの言葉など、まったく耳に入っていないかのようだった。
窓の隙間から、薄明かりが覗く。疲れ切った体を彼方は椅子に預けた。ゆっくり休む暇すら与えられなかった体が、悲鳴を上げている。彼方は、深いため息をついた。そろそろ、この体も限界なのだろう。
「夕代博士、入ります」
言うやいなや、許可も取らずに部屋に駆け込む人物がいた。こんなとき、一番わかりやすい行動をする人物はひとりしかいない。彼も、はじめの頃の冷たい様子から、ずいぶん変わったものだ、と彼方は奇妙な感慨を抱いた。いまでは昔をかけらも感じさせない、すっかり熱い人物になっている。
「ヴィルト、君はどこに行くんだ?」
「どういう、おつもりなんですか、ここを解散するなんて。夕代博士らしくありません。……博士!」
声を荒げるヴィルトには、彼方の変化が信じられなかった。彼方だけは、絶望の外にいると思っていたのに。
「君も、行きたいところに行くといい。葛葉の具合もあまり良くないんだろう。無理はしなくていい。本当に、残された時間は僅かなのだから」
ヴィルトの激しさとは対照的に、彼方はやはり、静かなまま、表情を崩さない。どこか悟ったような眼差しで、前を見つめている。
「博士。いったいどうしたっていうんですか? まさか」
彼方の眼差しが、ヴィルトの感情を鎮めてゆく。静かな、それでいてなにかを強く訴えるそれ。
ヴィルトは、彼方がなにを言わんとしているのか、薄々ながら感じ取り、表情を変えた。相変わらず察しがいいと彼方は苦笑する。
「聡いね。タイム・リミットだよ。卵は無事眠りについたが、親鳥のほうは無理だったようだ。あと少しも経たぬうちに、世界は終わりを告げるだろう」
あくまで静かな彼方の口調。
「現在、まともに機能している都市は百もない。重要人物が密かに作らせた避難施設もそれほど多くない。Dr.ウインドが思いたてば、すぐにでも片付けられる数だ。覚悟はいいかとご丁寧にもメッセージを頂いたよ」
彼方の顔に、かすかに広がる苦笑。
「彼は私のことを一応は認めてくれたらしいな」
普段なら、これから滅びを与えるものたちに、事前に知らせたりなど絶対にしない彼なのだ。こんなことは極めて珍しい。
「そんなもの、信用できません。彼のことです。言葉で俺たちを惑わせようと企んでるに違いないんです。確かに都市はほとんど崩壊しています。けれど、環境は少しずつ元に戻り始めているんです。悔しいけれど、あいつの望んだ方向に。だったら、全てを終わらせる必要なんてどこにもない。違いますか?」
「彼は、やると言ったらやるよ。直接話したことはなくても、長年やりあってきたんだ、それくらいはわかる。今更、もう戻れないのだろう。これで、全てを終わりにしたいのかもしれない」
崩壊した世界はいずれ、再生の道を辿るだろう。彼方は、いままでの長い戦いを振り返るようなとおい目をした。あれほど憎んだDr.ウインドに、いまでは奇妙な連帯感すら覚える。相容れられない思いを持ちながらそれでいて近い場所にいた。
望んだものは同じ、世界の再生。
「だが、私たちにはEgg Shellがある。最後の宝だ。あれがあるかぎり、希望は潰えたりしない。彼の手がそこに及んでいたとしても、卵は絶対に無事だ。研究者としてははなはだ不本意だが、理由もなくそう思うんだよ。私たちが舞台から去ったとしても、負けたわけではない。未来は続く。そこには、勝利が見えるよ。私たちの賭けの、ね」
彼方は、驚くほどにすがすがしい顔をしていた。いままでの長い時間を思い、ヴィルトは目頭を押さえる。これで本当に最後なのだと、心が告げていた。
「ありがとうヴィルト。君や葛葉と出会えて良かった。さあ、行くといい」
手を固く握りしめる。涙を堪える様子のヴィルトの肩を軽く叩くと、彼方は別れを告げた。
「夕代博士、博士はどこに行くんですか」
立ち去りかけるヴィルトが、名残惜しそうに振り返った。彼方は逃げる準備はしていないのだろうか。ここに居続けるなら、まず助かる術はない。
「私はここに残るよ。最後の挑戦だ。受けなくては失礼だろう」
彼方は相変わらずの静かな顔で微笑んだ。
「もし運良く孵化に立ち会えたなら、暁に済まないと伝えてくれ」
とうとう溢れてしまった涙を拭いもせず走り去るヴィルトの背に、彼方の声が掛かった。
静かに、風の吹く音がする。廃墟の中、その男はただ静かに立ちつくしていた。白衣がおどる。
彼は自分の最期の地に、ここを選んだのだった。とおくから、よみがえりかけた命の匂いが運ばれてくる。その空気を一息吸い込むと、彼は薄く笑った。どこか自嘲気味なそれ。
色素の薄い髪を風に遊ばせながら、男は空を仰いだ。
すべては終わった。あとは最後の仕上げを残すのみ。男には、自分のすべてを賭けたこの試みが、必ず成功するという奇妙な自信があった。
まず、なにより大事な願い。この地上を再び命あふれる場所にすること。これは、時間さえあれば必ず成し遂げられる。
次に、すべてをゼロにするということ。彼の心の中の憎しみを、すべて解放してしまうということ。これもまた、半ば成功している。
――そして。これは言うなれば隠された願い。ないはずの想い。
自分がいなくなった後も、延々と続く時の流れの中で、必ず実を結ぶだろうひとつの結末、そしてはじまり。
「生き続ける。どこまでも……私の、勝ちだよ」
低い声はやがて、巻き起こった大嵐に呑み込まれ、消えていった。
その日、時はいちど、その動きを止めた。