5.


 気がつくと、こんな道に入り込んでしまっていた。いまでも彼はそう思う。だが後悔はしていない。たとえ、それがどんな道であっても。
 人生には、行く末を決めてしまうほどの大きなターニング・ポイントがある。それは日常に巧妙に紛れ込み、気づかないままに人を取り込んでしまう。元の生活に戻れないところへと、押しやってしまうこともある。
 彼の場合もそれに当てはまるかもしれない。
 彼はごく普通に産まれ、成長していったし、ほかの若者と同じように恋もしたし他愛のない悪戯もした。ほんの少し正義感が強いだけ、ごく普通の、取りたてて言うこともないほどの存在だった。
 なにもなければ、迷い込みさえしなければ、ただ普通に日々を過ごし、生きていっただろう。自分と、自分の大切な者たちのささやかな幸せを守り、一生を終えたに違いない。いくら破滅の危機にあるとはいえ、人の世界はその当時、暫くはもつだろうと考えられていたのだから。

 世の中の声が言うように、彼は狂気の固まりや、悪魔のような人物ではなかった。混乱を巻き起こしたこや悪化させたことに責任の一端はあったが、彼はもともとあった種に水をやり、大きくするきっかけを与えただけなのだ。
 いったいどこで、迷い込んでしまったのだろう。
 そんな皮肉めいた感情が彼の心に生まれた。


 もともと、過激な考えの持ち主であったことは否定できない。
 いつだったか、大規模な国際会議で手伝いを頼まれたときのことがいまでも脳裏をかすめる。あのとき、進まない会議にあまりに腹が立って、すさまじい暴言を吐き、場を凍りつかせてしまった。もちろん、それが彼の本音であることは間違いない。もともと、数少ない比較的きれいな地方で生まれ育った彼にとって、「いま」はたえがたいほどの状況だった。
 年を追うごとに消えていくこの惑星本来の姿。それがわかっているのに、皆、他人任せのまま、悪化させていくばかり。それが彼にとってはあまり気持ちのいいものではなかった。
 再び命あるものの惑星に戻すことを夢見ていた彼は、本当ならこんなくだらない会議などにかりだされたくはなかった。多少の偏見が含まれてはいたが、彼にとってこの会議の出席者の、大部分を占める技術者とはそりがあわない存在なのだ。こんな場所に出るよりは、自分の研究を早く形にしたかった。確かに、一致団結して問題に取り組むことはいいことだと思う。が、それが形になったためしなど、いままでにないではないか。
 結局、あの暴言騒動は若気の至りだということで処理され、あとで大目玉と停学処分は食らったが、それ以外には害のない事件だった。
 確かにあのときの言動は若さゆえの愚行だといわれても仕方がない。いまでも、ほんの少しだけ懐かしさと恥ずかしさが思い出される。
 それからも、時々若さゆえの暴挙ともとれる行動はあったが平凡に、ごく普通の研究者として暮らし、愛する人を見つけ、それなりに幸せな家庭を築いた。
 人並みの幸せ。波乱に満ちた彼の後半生に比べれば、それは驚くほどに穏やかな時間だった。
 激しいところも、甘いところもある彼だったが、熱心に研究に取り組む姿を、周りは好意的に受け止めていた。妻も、そしてひとり息子も、お互いがお互いを大切に想い、こんな世界に生きてはいるけれど、不満はなかった。
 あのころを愛しく思う気持ちは、いまでも消えてはいない。妻も息子も、自分を憎んで離れていってしまったが、彼はいまでも家族を愛していた。

 愛する家族を失っても、彼にはやらねばならないことがあった。
 たとえ、愛する彼らごと、犠牲にすることになったとしても。


 いまでも彼の脳裏をかすめるのは、もう戻れない愛しいときだ。
 そして、それが音をたてて崩れ去ったあのとき。
 それは、他愛のない出来事だった。特に思い入れないものなら、見逃してしまったに違いない、些細なこと。
 だが、彼にとって――なにより、自然を愛する彼にとっては耐えがたいものだったのだ。
 大切な家族を、自分の生まれ育った故郷に連れて行ったときのことだった。長いこと帰っていなかった故郷に行くことを、自分はもちろん、妻も息子も心から楽しみにしていた。常々、なにかにつけて彼の故郷の素晴らしさが、話題にのぼるのだ。
 彼の子どもの頃の記憶という、あやふやなものではあっても、まさに、それは夢見る楽園のように思われた。
 そこは、記憶ののままの、時に忘れられた土地だった。鮮やかな命のきらめきが、かわらずにある。
 妻や息子は、はじめて見る「自然」に目を輝かせ、彼もその様子を心から楽しんだ。
 それだけなら、過去のなつかしい一コマとして心の中に残るだけだったろう。
 しかし、彼は見つけてしまった。故郷であるその地に拭いきれないほどの違和感が漂っていることを。
 「自然」であると他の誰もが信じ切っているそこは、すでにつくられた場所だった。なにひとつ記憶の中の故郷と変わらないそこは、巧妙に創造のあとを隠した人工の「自然」だった。
 本当に、とても些細なことだ。それなのに、その事実はもう戻れない暗闇に彼を取り込んでしまった。
 気づかぬ間に、彼の視界の一端が色を失った。
 ゆるやかに、でも確実に、灰色の世界は触手をのばす。
 愛した者も、そして自分さえもすべてが同じように見えていく。凍り付いた心は、流したい涙も流せなかった。泣ける場所があったなら、もしかしたら引き返せていたのかもしれない。


 あのときを最後に、しあわせは永遠に手の届かない場所になった。
 ひとりきりになった彼は、いまは廃墟の真ん中にいる。世界が変わってゆくのなら、自分がその向きを変える風になる。荒れ果てたこの惑星の、色を取り戻すために。
 そのためなら、人の心を捨てても構わない。そう思った。

 この廃墟は、破壊されたまま復興することもなく放置されていた場所だった。住む場所を無くした者たちが、細々とその命を繋いでいる場所。新しく、誰が来たところで注目などされないそこは、彼にとって格好の場所だった。
 幸いにして、彼は数多くの成果ある研究者で、彼の考えに心から頷いてくれる者も、多くはなかったがいてくれた。世界を風に巻き込むのには十分だった。きっかけさえあれば、あっけないほどに秩序は乱れる。ぐらぐらになった礎を、ほんの少しだけ押してやればいい。あとはドミノ倒しのように、すべてが壊れてゆく。
 兵器開発の知識は乏しかったのだが、それも協力者たちのおかげでクリアできた。世の中には、金になるならば心を売り渡すものも皆無ではない。
 ただの兵器ではなく、彼の研究成果を加えて新たな破滅を生み出すことだってできた。
 しかし、彼の心は満たされないままだった。
 心のむなしさは、どこへ行ってもつきまとう。廃墟が増えるたびに、そこに緑が蘇るとわかっていても、苦しみは消えなかった。後戻りはできない。もちろん後悔してもいなかったが、なにかがおかしい、と、心が訴え続けている。

 彼の住む廃墟は、ときに忘れ去られたかのように変わらずにあった。
 いまではそこが唯一の、ほんの少しだけ彼の心が安らげる場所。住む場所も、守ってくれる存在もなくした幼い者たちが、彼に優しさを教えてくれる。そのときだけ、彼は、捨ててしまったあのなつかしいときに思いを馳せる。
 黒髪の、浅黒い肌の少女が自分を見上げた。少女は自分からすべてを奪った世界を恨んでいた。
 少女がわらう。自分を慕う瞳で、世界の終わりを願う。しかしそれを除けば、いまでは少し賢い普通の少女でしかない。
 自分の息子と同じ年頃だということが、なおさらその少女を愛しく思わせる。それと同時に、世界の本当の姿を知らないことに、悲しみを感じた。
 世界を壊す。すべてをはじめから、やり直す。
 そこにあるべきは、けがれを知らないものたち。
 そんな思いが、彼の心の中に芽生え始めた。この惑星の、本当の「再生」のときだ。

 かつていちどだけ、運命が交錯した研究者が、世界の再生計画を打ち出すつもりだと、協力者が噂を伝えてきた。それはまだ水面下で進む、最後の切り札だった。
 破壊されてしまった後でも、やり直すための手段。

 その知らせをきっかけに、彼の心の中でなにかが動いた。
 世界の破滅はもう、止めようがない。彼が思い立てば、即座に終わりはやってくる。しかし待つこともできる。それならば、この少女たちに世界の本当の姿を見せてやることも、できるのではないだろうか、と。 
 けがれを知らない存在、苦しみを知るものたちならば、にどとこんな世界にはすまい。


 世界を変えるのが彼の仕事ならば、他の役割を担う者もまた存在する。表立って協力するなど論外だし、そもそもそんなこと、望んでもいない。しかし、別の形でならば、『手を貸す』こともできる。彼の望むところへと、僅かずつでも方向を変えていくこともできる。
 『再生計画』に、別の意味をもたせることができるのだ。

 自分の名は、禁忌として深く人の心に刻まれることになるだろう。
 しかし、それでもいい。彼の目的が、過程はどうあれ達成されるのなら。
 それはひとつの賭けだった。