4.


 Egg Shell封印以後、世界情勢は目に見えて悪化していった。卵の中の子どもたちに、真実を伝えられなくなるほどに。不安と混乱を避けるため、当初予定されていたはずの、外の様子を伝えるための情報発信も、行える状況ではなくなったのだ。
 年一回の、管理者との連絡がただひとつ残されているものだった。
 アキは疲労の色を残しながら、しかし明るい雰囲気で、Egg Shellの生活は滞りない、と伝えてきた。やはり異なる文化圏から集まってきた者たちだけに、トラブルは多かったが、それでも毎日は充実している、と。それは未来を導く若者の、希望を失っていない声だった。それが外の人間には痛々しいほどだ。
 映像のない、声と文字だけの通信。技術の進歩した現在では考えられないほどのその手段は、疲労と絶望の色を感づかせないための、せめてもの処置だった。再会する可能性が日に日に減っている、などとどうして言えようか。
 まして、卵の本来の、そして最大の目的とは外が滅亡してしまったときのためのものなのだと、決して言えるわけはない。
 確かに卵の目的にはそれもあった。しかし、子どもたちの認識は、別のところにあるということを、開発者たちはよく知っていた。現状が、かなり厳しいものだとよくわかっているはずの、管理者であるアキですら、危機が去ったなら元通り、親しい人のところへ戻れるのだと思っている節がある。
 大切なものを思う気持ちからくるその願いは、無理のないものといえた。
 だがそれゆえに、外の人間は苦しみを抱え込まざるを得ないのだ。
 もしも卵が孵る日を、親が見届けられないかもしれないなどと伝えてしまったらそれこそ、危ういバランスの上に成り立っているEgg Shellは崩壊してしまいかねない。


「ヴィルト! ゆ、夕代、博士は、まだお戻りに、ならないのか?」
 砂埃が舞うさびれかけた大都市の中央、夕代博士の研究所。そこにはまだ、多くの人々が働いていた。最後の最後まで、希望を繋ぎとめておくために、全力をかけて走る者たちの集まる場所だ。
 再び息子に会うために、細い細い希望の糸を紡ぎつづけていたヴィルトは、血相を変えた古株の研究員に呼び止められた。確か、情報収集にかけては右に出るものがいないと、この研究所でも有名な人物だ。いつも穏やかな様子の彼が、この日ばかりは半ば取り乱したような形相なのに、ヴィルトは首をかしげた。
「おや、ダーレス、どうした? 夕代博士だったら今日は……」
 腕時計の時間と日にちを確認しつつ、彼に答える。なんとか破滅を防ぐために、夕代彼方はこのところ、色々な場所を飛び回っている。だが、どこからも芳しい返事が返ってきたことはなく、そのたびに、終わりが急速に近づいている気がしてならないと頭を抱えていた。
 今日もやはり外出していて、この戻ってくるのは明日か明後日頃になるはずだった。
「いますぐ、なんとか戻っていただける方法は!」
 ダーレスの口調が荒い。いつもはこんな口のきき方をする人物ではないはずだった。
「ダーレス、落ち着いてくれ。なにがあったかは知らないが、慌てていいことはひとつもないぞ。ほら、そこにでも座って、なにか飲むか?」
 同僚の肩に手を置き、ソファを指さす。しかしダーレスは、そんなヴィルトをいっそう厳しく見つめる。
「ヴィルト、そんな場合じゃない。事は一刻を争うかもしれない! 卵が孵らずじまいになってもいいのか?」
「な、んだって?」
 ダーレスの、半ば叫びにも似た言葉に、ヴィルトは耳を疑った。卵が孵らない。それは、絶対あってはいけないことだ。外が滅んでしまっても、卵はなにより頑丈な殻で守られている。その卵が死ぬはずはない。
「Egg Shellの、収容メンバー選定に使ったコンピューターがあるだろう。それに、他人の手の入った痕があった。こちらで選んだメンバー以外は、完全に人の手の及ばないところで、アトランダムに選ばれるのが絶対条件だったはず、なのに。どうしてだと思う」
 ダーレスの、怖いほどに張り詰めた顔が問う。
「誰かを、故意にEgg Shellに行かせる必要があったということか? しかし、どうやって? あの端末はハッキングを防ぐためにネットワーク上にはなかったはずだ」
「だが、故意に選ばれた人間が実際に数名、見つかった。ネットワーク上にないということで油断していたのかもしれない。きわめて古典的なやり方で、な。そして、その数名というのが問題なんだ」
 故意に選ばれたものたち。その理由とは。なにか恐ろしい予感がして、ヴィルトは身をすくませた。
「すべて、どこかでDr.ウインドと関わっている。巧妙にそのあとを辿れなくしてはあったが、なんとか突き止めた。いったい、奴はどこでこの計画に潜り込んでいたんだ? なんとかしなければ、卵は内から腐ってゆくぞ」
 ダーレスの言葉は、ヴィルトの血相を変えさせるのには十分すぎるほどだった。事の深刻さが、恐ろしいほどにわかる。Dr.ウインドの息のかかったものが、閉鎖空間であるあの卵の中で行動を起こしたなら、それは悲惨なパニックを起こしかねない。
「わかった。急いで博士を呼び戻そう。状況次第では計画の中止も考えに入れなければならないかもしれない。すまないがダーレス、博士が戻る前に証拠を用意しておいてくれないか」
「ああ、もちろんだ」
 頷いたふたりは、それぞれの目的を果たすために白衣を翻らせた。


「中止しない!? いったいどうしてです、夕代博士!」
 深刻な顔をした研究員が集まる中、ひとつの怒号が会議室を満たした。声の主はヴィルト。Egg Shellメンバー選定に、Dr.ウインドの手が及んでいることがわかり、急遽開かれた会議の席上のことだった。
 外出先から呼び戻された夕代彼方は、すべてを知った上で、『Egg Shell計画』の中止をしないことを決めたのだ。ヴィルトほどわかりやすくはないが、彼方の言葉を理解できずに皆ざわめいている。
 Dr.ウインドの裏をかく形で組まれたこの計画が、逆に読まれてしまっていた。それだけでも十分な衝撃なのだ。それに加えて、Egg Shell内に人を潜り込ませるという計画の成否に関わるようなところにまで及んでいる。それなのに。
「いま、卵を解放したとして、それがなんになる? それこそDr.ウインドの思う壺だよ。彼は、この計画が台無しになればそれでいいのだから。それよりはむしろ、このまま計画を続行したほうが希望は残る。卵が風に惑わされなければ、大丈夫だ」
 しっかりしたその言葉には、息子であるアキに対する信頼も込められていた。彼が管理者であるならば、強い心で導いていってくれる、そんな想い。時々甘いことはあるが、アキは自らの責任を放棄するような人物ではない。そう彼方は信じていた。
「ほかにも問題はあるだろう。この研究所の中に、Dr.ウインドと繋がっている人物がいることは間違いないのだろうからな。しかし、いまはそれも突き止める必要もない」
 さらに場がざわめいた。
「夕代博士、しかしそれでは」
 やはり、我慢しきれないとヴィルトがまた反論した。このままにしておけば、またいつ同じようなことが起こるかもしれない。それをそのままにしておけなど、彼方に面と向かってはいえないが、正気の沙汰とは思えない。
「いまは、そんなものに関わっている暇はない。それよりも、もっと大事な、自分のやるべき事があるはずだ。そうだな……いまこの場に彼に連なるものがいるのなら、彼にこう伝えてもらおうか。私たちも卵も、絶対に屈したりはしない、とね」
 ゆるぎない視線。彼の思い通りにだけは、絶対にさせないという、強い意志がそこにあった。
「私たちはこれからも、生きつづける。いままでの過ちを償うために、世界を変える。この惑星が、いつか真の楽園になると、絶対に信じている」
 そのために、足掻きつづける。
 償えない罪など、絶対にない。この星を破壊し尽くすまでは、遅すぎることはない。だから希望の卵を生みだしたのだ。


 深いため息をついて、ヴィルトは会議室を後にした。彼方の覚悟を聞いて、彼も反論を引っ込めざるを得なかったのだ。
 しかし、不安が残る。
 閉鎖された空間、外への道はどこにもない。そんなところでパニックが起きたとしたら、取り返しがつかないではないか。
 置いてきてしまった息子のことを思うと、心配でいてもたってもいられなくなる。いくら賢いとはいえ、あの子はまだ、十にもならないのだ。無邪気な笑顔が脳裏に浮かぶ。いま、抱きしめてやれたら。
 おさまらない気持ちを抱え、自分の研究室に戻ろうとしたヴィルトは、人のいるはずのない部屋にあかりが付いているのに気づいた。そこはほかでもないヴィルトの妻、葛葉の研究室だ。彼女は外での研究がたたってか、体を壊してここにはいないはずだ。今日も自分と一緒に来たがる葛葉を、無理やり引き止めてきたのに。
「誰かいるのか? ……葛葉!? 来るなと言ったろう!」
 部屋の中の人物を認めたヴィルトは、思わず声を張り上げた。青白い顔をした葛葉がそこにいたのだ。
 振り返った彼女は、夫の姿を目にして首を振る。
「ヴィルト。嫌よ私。このまま終わるのは、絶対に嫌。研究がまだ途中なの。あきらめきれないわ」
 細い声だったがはっきりと、葛葉は言った。慌ててヴィルトが妻のもとへ駆け寄る。細い体。美しさが衰えていないだけになおいっそう、痛々しさを感じさせる。
「葛葉、無茶だ。いまは休んでいなければ、起き上がることすら難しくなる。暫く休むだけだ、違うかい?」
 まっすぐに葛葉を見つめて、懇願するようにヴィルトが言う。このままでは、彼女は消えてしまいかねない。
「ヴィルト。もう、時間がないのよ。わかるでしょう? 来年が、来月が、明日がなくてもおかしくないの、いまの地球は。それまでに、完成させなきゃ」
「葛葉」
 妻の決意は固い。なにがあっても、それを動かしたりしないだろう。ヴィルトは、それを悟らざるを得なかった。
 葛葉は、破壊され尽くしたこの地上に、少しでも緑を蘇らせるために心血を注いでいた。
 緑が再び育ち始めたという噂を聞いては、Dr.ウインドに破壊された都市を巡り、再生への手がかりを探しつづけた。その結果が、いまの彼女の姿だ。都市に漂う毒素に侵され、すっかり体を壊してしまった。
「不思議なの。廃墟から自然が息を吹き返し始めているわ。人が住めなくなるほど汚染されているはずなのに。これが、都市にも応用できれば……」
 彼女の言うとおり、何故かDr.ウインドに破壊されてしまったはずの廃墟から、惑星が蘇りはじめているのだ。人が、誰も住むことがなくなったからだろうか。破壊されてしまった都市は、人にとっては命取りになるほどの危険な場所なのだ。
 そんな場所で再生がはじまっている。
 青白い顔で、葛葉は続けた。
「もし、あの子が帰ってきたとしたら、自然がなにもない、変わっていない世界を見せられないわ。だから……」
「ああ、そうだな。だがやはり、少し休んだほうがいい。もしあの子が帰ってきて、いまにも倒れそうな君の姿を見たらどうする?」
 ため息をついて、ヴィルトは葛葉を抱きしめた。
 言えなかった。
 大切な息子がいるその卵が、いま、まさに危機にさらされているということを。