3.
乾いた風が吹く。どんよりと曇った空は、ところどころ気まぐれのように差す陽の光だけで薄暗い。しかしそれでも、近頃のこの惑星の様子から考えれば、ずいぶんといいほうなのだった。普段であれば、まともに外出することなどかなわない。
白い大きな人工の固まりが、荒野のただ中にあった。その周囲には、厚い金属が敷きつめられ、遙か視界の先まで広がっている。風にあおられて、砂が金属の上を駆けていった。
遮るもののないこの荒野で、小高い丘にも似たその固まりはひどく目立った。
中央に、大きな継ぎ目があった。まるでいまにも開きそうなそれは、中と外とを分ける扉だ。こちら側からは絶対に開くことのない、それはいわば、大きな壁だった。
つい今し方、閉ざされたばかりのそれの前には、幾人かの姿があった。皆一様に真剣な瞳で前を見つめている。彼らはこのときのために長いときを費やしてきた。計画が日の目を見るまで気の遠くなるほどの時間が掛かった。
計画――Egg Shell計画と名付けられたそれは、世の中の大部分が思いこんでいたような、国家プロジェクトではなかった。国家が先立って行われたものではないのだった。狭い惑星の上、覚えきれないほどの国が集まるここで、しかも互いが互いを譲らずに争ういま、国家の協力など到底望めないことだったからだ。
篤志家を募り、資金を集め、完全なる私的な事業としてEgg Shell計画は発動した。
無謀にも思われたその計画。それを実現させるためにどれだけの労力を要しただろうか。
彼らを突き動かしたのはなんとかしなければという思い。せめて少しでも希望を残せればという、はかない願い。この計画が成功する確率は、限りなく低い。卵が孵る希望も、再び彼らにまみえる希望も、ないに等しい。卵の中に時間を閉じこめて、破滅の時間を少しでも伸ばそうとする、それは無謀な賭でもあった。
荒野に声が満ちる。厳重に囲われた扉の外には、身動きもできないほどの人の群れがあった。閉ざされた扉に、あとからあとから押し寄せてくる。
皆、ここに来た理由は同じだった。
この場所は、一般には公開されてはいなかった。混乱を起こすことが目に見えていたからだ。しかし、どこから漏れたのか、この場所のことは皆の知るものとなった。
吹き荒れる怒号が絶えることはない。この世の終わりを前にした、それは必死の叫びだ。あるものは自分の身を、あるものはもっとも愛するものの身を。そして大多数を占めるのは、自らの子どもの身を案ずる声だった。
救われなかった子どもの数は、救われる子どもの数より遙かに多い。すべての命を救うことができないと、頭では理解している。けれど、自らが親の立場であれば話は別だった。
なんとか、我が子だけは。
そう思うのは当然のことだ。
同じ思いを持つ人々の数は、数え切れないほどだった。
扉の前に立つうちの数人は、同じように人の親だった。条件に合う年齢の子どもたちは無条件で収容されてもいる。ひとり、長い髪の女性が、堪えかねたようにくずおれた。
同じ立場の親として、周囲に群れる人たちに申し訳ないという思いがある。すべてを救うことができなかったという、自らの無力さに悔しい思いもある。
そして、自らの血を分けた愛しい子どもに、もう会えないと思うと、一度流れた涙止められなかった。
扉の前から、ひとり、またひとりと立ち去ってゆく。
ひとりは名残惜しそうに、またあるひとりは迷いを断ち切るように足早に。
最後に残ったひとり、くずおれた女性を支えるように、もうひとりがそばに立った。慰めるように肩を優しく抱き、立ち上がらせる。
彼女は泣きながら、それに身を委ねた。
すべてが去ってしまうと、扉の前には静寂が訪れた。
とおく、救いを求めて響く声にも揺るがない。
孵化を迎えるまで、卵は眠りに就いたのだ。
薄暗い部屋が、一瞬にして光に満たされる。部屋の主は明かりに安堵したかのように、ゆっくりと息をついた。
「少し、待っていてね、紘。お父さんとご飯つくるから。ヴィルト、手伝って」
いつもの習慣のように口にして、葛葉はあっと口を覆った。遅れて部屋に入ったヴィルトも、なにかもの言いたげな、悲しい瞳をする。
「そう……いないのよね。ごめんなさい」
振り返った葛葉は、真っ赤に泣きはらした目を隠しもせずに、顔を笑みのかたちに変えた。強がっているのが見て取れる、泣き笑いの表情だ。
葛葉、そしてヴィルト。夫婦であるこのふたりは、彼らのひとり息子である紘に別れを告げてきたばかりだった。
「お仕事? 早く帰ってきてね! 僕もがんばるから」
これが永遠の別れになるのだとつゆほども思っていないだろう息子は、そう、笑ってふたりを見送った。これが最後だと悟らせてはいけない。葛葉もヴィルトも、泣き出したいのを懸命にこらえてきびすを返した。
無邪気な紘の声がいまでも聞こえるようで、ふたりはともに息苦しいほどの切なさをおぼえていた。
「葛葉……。大丈夫だ、紘はきっと、うまくやってくれる。それに、きっともういちど会える」
堪えていても、自然に涙があふれてくる。細い指が、白い葛葉の顔を覆う。その隙間から、透明な涙がこぼれ落ちた。華奢な妻を、ヴィルトが優しく抱く。しゃくり上げる葛葉を力づけるように優しく肩を叩く。
そのヴィルト自身も、葛葉の温もりに、感情をようやく抑えているかに見えた。
もういちど会える。
そう思うのは気休めにしかならないと、ふたりとも悟っていた。
Egg Shell計画が表面化してから、世界は加速度的に悪化の道をたどっていった。つぶされた都市は、もう数え切れない。廃墟と化した都市、失われゆく自然。人々は数少ない残された都市で、その命を繋いでいた。しかしその都市も、いつ破壊されてしまうかわからない。
大都市に住む方が危険といえたが、人に残された道は、もうそれしか残されていないのだった。廃墟と化した多くの場所では、人が次々と命を奪われている。人が住めるような場所ではなかった。汚染が進んでいるのだ。
荒れ果てた大地に、命のかけらはあまり残されていない。蘇る日など決して来ないのではないだろうかという思いすら浮かんでくる。
「ええ、そう、ね。もういちど、きっともういちど会えるわよね」
声に出すのは、そう信じていたいから。
あの子にはずっと生きて欲しいから、辛くてもこの道を選んだ。それなのに、いざ別れてみると、それが堪らなく悲しい。
うらはらな心に、ふたりは揺れていた。
「ほら、あの子たちが困らないように、俺たちがいまやるべき事はなんだ? 立ち止まってはいられないよ。切り札も、そして葛葉、君の研究も、まだまだやるべき事が残されている。卵が孵るとき、外の世界が昔と変わらなかったら、あの子たちは困るだろう? さあ、諦めずにいこう」
いまだ涙に濡れる葛葉の頬を両手で支えて、彼女の瞳をのぞき込む。さあ笑って、と視線で訴えた。
最後まで、諦めない。きっとだめだと思っていても、ほんの少しでも希望が残されているのなら。
卵をあたためる親鳥は、なにがあってもその場を動きはしないのだから。
乾いた風が吹く。どんよりと曇った空は、ところどころ気まぐれのように差す陽の光だけで薄暗い。しかしそれでも、近頃のこの惑星の様子から考えれば、ずいぶんといいほうなのだった。普段であれば、まともに外出することなどかなわない。
白い大きな人工の固まりが、荒野のただ中にあった。その周囲には、厚い金属が敷きつめられ、遙か視界の先まで広がっている。風にあおられて、砂が金属の上を駆けていった。
遮るもののないこの荒野で、小高い丘にも似たその固まりはひどく目立った。
中央に、大きな継ぎ目があった。まるでいまにも開きそうなそれは、中と外とを分ける扉だ。こちら側からは絶対に開くことのない、それはいわば、大きな壁だった。
つい今し方、閉ざされたばかりのそれの前には、幾人かの姿があった。皆一様に真剣な瞳で前を見つめている。彼らはこのときのために長いときを費やしてきた。計画が日の目を見るまで気の遠くなるほどの時間が掛かった。
計画――Egg Shell計画と名付けられたそれは、世の中の大部分が思いこんでいたような、国家プロジェクトではなかった。国家が先立って行われたものではないのだった。狭い惑星の上、覚えきれないほどの国が集まるここで、しかも互いが互いを譲らずに争ういま、国家の協力など到底望めないことだったからだ。
篤志家を募り、資金を集め、完全なる私的な事業としてEgg Shell計画は発動した。
無謀にも思われたその計画。それを実現させるためにどれだけの労力を要しただろうか。
彼らを突き動かしたのはなんとかしなければという思い。せめて少しでも希望を残せればという、はかない願い。この計画が成功する確率は、限りなく低い。卵が孵る希望も、再び彼らにまみえる希望も、ないに等しい。卵の中に時間を閉じこめて、破滅の時間を少しでも伸ばそうとする、それは無謀な賭でもあった。
荒野に声が満ちる。厳重に囲われた扉の外には、身動きもできないほどの人の群れがあった。閉ざされた扉に、あとからあとから押し寄せてくる。
皆、ここに来た理由は同じだった。
この場所は、一般には公開されてはいなかった。混乱を起こすことが目に見えていたからだ。しかし、どこから漏れたのか、この場所のことは皆の知るものとなった。
吹き荒れる怒号が絶えることはない。この世の終わりを前にした、それは必死の叫びだ。あるものは自分の身を、あるものはもっとも愛するものの身を。そして大多数を占めるのは、自らの子どもの身を案ずる声だった。
救われなかった子どもの数は、救われる子どもの数より遙かに多い。すべての命を救うことができないと、頭では理解している。けれど、自らが親の立場であれば話は別だった。
なんとか、我が子だけは。
そう思うのは当然のことだ。
同じ思いを持つ人々の数は、数え切れないほどだった。
扉の前に立つうちの数人は、同じように人の親だった。条件に合う年齢の子どもたちは無条件で収容されてもいる。ひとり、長い髪の女性が、堪えかねたようにくずおれた。
同じ立場の親として、周囲に群れる人たちに申し訳ないという思いがある。すべてを救うことができなかったという、自らの無力さに悔しい思いもある。
そして、自らの血を分けた愛しい子どもに、もう会えないと思うと、一度流れた涙止められなかった。
扉の前から、ひとり、またひとりと立ち去ってゆく。
ひとりは名残惜しそうに、またあるひとりは迷いを断ち切るように足早に。
最後に残ったひとり、くずおれた女性を支えるように、もうひとりがそばに立った。慰めるように肩を優しく抱き、立ち上がらせる。
彼女は泣きながら、それに身を委ねた。
すべてが去ってしまうと、扉の前には静寂が訪れた。
とおく、救いを求めて響く声にも揺るがない。
孵化を迎えるまで、卵は眠りに就いたのだ。
薄暗い部屋が、一瞬にして光に満たされる。部屋の主は明かりに安堵したかのように、ゆっくりと息をついた。
「少し、待っていてね、紘。お父さんとご飯つくるから。ヴィルト、手伝って」
いつもの習慣のように口にして、葛葉はあっと口を覆った。遅れて部屋に入ったヴィルトも、なにかもの言いたげな、悲しい瞳をする。
「そう……いないのよね。ごめんなさい」
振り返った葛葉は、真っ赤に泣きはらした目を隠しもせずに、顔を笑みのかたちに変えた。強がっているのが見て取れる、泣き笑いの表情だ。
葛葉、そしてヴィルト。夫婦であるこのふたりは、彼らのひとり息子である紘に別れを告げてきたばかりだった。
「お仕事? 早く帰ってきてね! 僕もがんばるから」
これが永遠の別れになるのだとつゆほども思っていないだろう息子は、そう、笑ってふたりを見送った。これが最後だと悟らせてはいけない。葛葉もヴィルトも、泣き出したいのを懸命にこらえてきびすを返した。
無邪気な紘の声がいまでも聞こえるようで、ふたりはともに息苦しいほどの切なさをおぼえていた。
「葛葉……。大丈夫だ、紘はきっと、うまくやってくれる。それに、きっともういちど会える」
堪えていても、自然に涙があふれてくる。細い指が、白い葛葉の顔を覆う。その隙間から、透明な涙がこぼれ落ちた。華奢な妻を、ヴィルトが優しく抱く。しゃくり上げる葛葉を力づけるように優しく肩を叩く。
そのヴィルト自身も、葛葉の温もりに、感情をようやく抑えているかに見えた。
もういちど会える。
そう思うのは気休めにしかならないと、ふたりとも悟っていた。
Egg Shell計画が表面化してから、世界は加速度的に悪化の道をたどっていった。つぶされた都市は、もう数え切れない。廃墟と化した都市、失われゆく自然。人々は数少ない残された都市で、その命を繋いでいた。しかしその都市も、いつ破壊されてしまうかわからない。
大都市に住む方が危険といえたが、人に残された道は、もうそれしか残されていないのだった。廃墟と化した多くの場所では、人が次々と命を奪われている。人が住めるような場所ではなかった。汚染が進んでいるのだ。
荒れ果てた大地に、命のかけらはあまり残されていない。蘇る日など決して来ないのではないだろうかという思いすら浮かんでくる。
「ええ、そう、ね。もういちど、きっともういちど会えるわよね」
声に出すのは、そう信じていたいから。
あの子にはずっと生きて欲しいから、辛くてもこの道を選んだ。それなのに、いざ別れてみると、それが堪らなく悲しい。
うらはらな心に、ふたりは揺れていた。
「ほら、あの子たちが困らないように、俺たちがいまやるべき事はなんだ? 立ち止まってはいられないよ。切り札も、そして葛葉、君の研究も、まだまだやるべき事が残されている。卵が孵るとき、外の世界が昔と変わらなかったら、あの子たちは困るだろう? さあ、諦めずにいこう」
いまだ涙に濡れる葛葉の頬を両手で支えて、彼女の瞳をのぞき込む。さあ笑って、と視線で訴えた。
最後まで、諦めない。きっとだめだと思っていても、ほんの少しでも希望が残されているのなら。
卵をあたためる親鳥は、なにがあってもその場を動きはしないのだから。