2.
零は広い会場を見渡した。参加者たちは皆、硬直してじっと零を見つめている。
「その覚悟がないのなら、いますぐこんな茶番は終わりにするべきでしょう。くだらない、ほんの数年で形骸化するその場しのぎの宣言を発表するよりは、はるかにましというものです。時間の節約にもなる」
容赦のない零の言葉が続いた。成人するかしないかの若造に、皆怒ることも忘れて時を止める。
歯に衣着せぬ零の言葉はしかし、嘘ではない。確かに彼の言うとおり、この会議は研究者たちの自省であると同時に、パフォーマンス的な側面を持った自己満足に過ぎないのだった。
対象となる事物は違ったが、かつて何度も同じような趣旨の会議は行われていた。そのたびに、表向きには評価されるべき、歴史に残るような宣言が出されてはいた。しかし、それが人々の話題になるのはほんの少しの間でしかない。次第に、それらは効力を失い、人々の記憶からも薄れて、まるではじめからなかったもののように消え去っていった。
拘束力をもつ法ですら影では破られるのがあたりまえのものとなっている昨今、ただの宣言にどれほどの威力があるのだろう。
だがそれは、皆わかっていても言えないことだった。言うつもりも多分ないのだろう。彼方も、藪をつついて蛇を出すような真似を好きこのんでやるつもりはまったくない。
誰だって我が身が可愛いものだ。
「そうして、滅べばいい」
零の言葉が、わずかに狂気を帯びた。
とても目の前の青年のものとは思えない、深い憂いと怒りを秘めた声。まるでなにかにとりつかれているかのように、零は言い募った。
「自分たちで自分たちの命を奪って、消えてしまえばいい。そうすれば惑星は蘇る。こんなばかげた会議に頼らなくとも、人の力をあてにしなくとも、再び緑あふれる楽園になる」
水をうったかのような場内に、零の声だけが響いた。
「なにをしている!」
沈黙は、その一声で破られた。固まっていた場内の人間は、それによって我に返る。零の周りにいた人間が、場内の視線を集める零を、数人がかりで取り押さえる。零は、それに抵抗することなく、大人しく従っている。
零が取り押さえられたことで緊張が解けたのか、あたりは凄まじいほどのざわめきに包まれた。不愉快だと怒る声、困惑に満ちた声。
彼方はその中で、零のほうだけを見つめていた。
彼は取り押さえられたまま、場外へと移動させられはじめている。
物静かな、英知を秘めた瞳と、狂気とも言える言動。そのふたつがどうしても、ひとつにならない。彼はいったい、どんな人物なのだろうか。
姿を消すその一瞬、零と視線が重なった。凍り付くまでに冷たい賢者の瞳は、その中に確かに暗い炎を宿している。それは世界を変える者の証であるように、彼方には感じられた。
会議は、零のことがあってか、終始覇気のないままだった。零の言葉通りの、当たり障りのない無難な宣言が出されたのち、表向きには無事に終わった。
研究所に戻った彼方は、しかし、零のことが頭から離れないでいた。彼はいったい、これからどうなってしまうのだろう。青年の狂気は、このままで終わるはずはない。
混乱を招いたことで、零は研究者としては致命的な傷を負っただろう。学生とはいえ、その罪は許されざるものとして、周りの目に映ったに違いないだろうから。下手をすれば、研究者生命の危機に陥りかねない。
その名は禁忌として、長く記憶に残るだろう。
しかし彼方は。
あのような青年の瞳にどこか羨ましいものを感じていた。あれほどまでに記憶に焼き付く色を、彼方は見たことがない。それは研究に熱心でいられない、惑わされてばかりの彼方とは正反対のものだったからだ。
あのとき確かに、零と自分の視線が交わった。思い切れない彼方を、どこか責めているようにも感じられるそれ。自分の思い過ごしなのだろうが、彼方にはどうしても、そのように感じられるのだった。
彼方と零の運命が交錯したとき。
それが、はじまりなのだと、彼方自身もそのときは思わなかった。
「夕代博士」
ふいに、自分を呼ぶ声がした。それをきっかけに、まどろみの海、過去の幻にたゆたっていた意識が浮かび上がってくる。
瞳をあげると、あのときの自分や零と同じ年頃に見える若い研究者が、彼方をのぞき込んでいた。過去と未来、一瞬、その判断が付かずに記憶を探る。
「夕代博士、大丈夫ですか?」
もういちど、若者が彼方に呼びかけた。なにか失礼をしてしまったのではないかとうろたえるその姿に、ようやく彼方は、自分が夢を見ていたのだということを思い出す。
確かに、彼にもこの若者と同じような時代があった。それに、懐かしさとくすぐったさを感じながら、彼方は背筋を伸ばした。
「あ、ああ、大丈夫だ。どうした?」
「はい。そろそろ、時間です。皆さんお待ちです」
時間。その言葉に、彼方は瞳を巡らせた。夢にまどろんでいたせいで、自分がなにをするつもりだったのか、時間とはなんなのかが思い出せないのだ。
「……そう、だったかな」
さすがに、忘れたとは言い出しにくかった。言葉を濁し、立ち上がる。
「そうです。博士ご自身が動かれた避難計画の、はじめての会議じゃありませんか」
忘れたんですか、と言外の意味を込めて若者が告げた。
「そう――だったな」
会議。零が忌み嫌った自己満足のための会議。その中心にいま、彼方はいる。しかし彼方は、これを自己満足で終わらせないという覚悟があった。いまそれで終わらせてしまったら、人に未来はない。
ため息を吐いて立ち上がった。白衣の襟を正して、気合いを入れる。流れを変えるためには、生半可な気持ちではいられない。
零の一件があってから、彼方は考え方を徐々に変えていった。『自らの命をかける覚悟』といえば大げさかもしれないが、零の言葉が、ずっと心の奥底にわだかまっていたのは事実だった。研究所を立ち上げ、自分になにができるかを模索し続けた。
いつしか人の口の端にのぼるようになったDr.ウインド――それがかつてのあの青年、風見零だとわかってから、死にものぐるいで駆け抜けた。零は滅びを口にしていた。その気になれば、それを実行してもおかしくない覚悟だった。
零――Dr.ウインドがそのつもりならば、彼方はそれを、全力をもって止めるまでのことだ。
みちは変わっていく。
決して後戻りの許されないそれは、一歩先すら見えぬ、か細い糸の上を歩くようなものだ。まっすぐですらない。
しかしそれは確実に、未来へと続いていく。
白衣をなびかせ、彼方は部屋から姿を消した。
零は広い会場を見渡した。参加者たちは皆、硬直してじっと零を見つめている。
「その覚悟がないのなら、いますぐこんな茶番は終わりにするべきでしょう。くだらない、ほんの数年で形骸化するその場しのぎの宣言を発表するよりは、はるかにましというものです。時間の節約にもなる」
容赦のない零の言葉が続いた。成人するかしないかの若造に、皆怒ることも忘れて時を止める。
歯に衣着せぬ零の言葉はしかし、嘘ではない。確かに彼の言うとおり、この会議は研究者たちの自省であると同時に、パフォーマンス的な側面を持った自己満足に過ぎないのだった。
対象となる事物は違ったが、かつて何度も同じような趣旨の会議は行われていた。そのたびに、表向きには評価されるべき、歴史に残るような宣言が出されてはいた。しかし、それが人々の話題になるのはほんの少しの間でしかない。次第に、それらは効力を失い、人々の記憶からも薄れて、まるではじめからなかったもののように消え去っていった。
拘束力をもつ法ですら影では破られるのがあたりまえのものとなっている昨今、ただの宣言にどれほどの威力があるのだろう。
だがそれは、皆わかっていても言えないことだった。言うつもりも多分ないのだろう。彼方も、藪をつついて蛇を出すような真似を好きこのんでやるつもりはまったくない。
誰だって我が身が可愛いものだ。
「そうして、滅べばいい」
零の言葉が、わずかに狂気を帯びた。
とても目の前の青年のものとは思えない、深い憂いと怒りを秘めた声。まるでなにかにとりつかれているかのように、零は言い募った。
「自分たちで自分たちの命を奪って、消えてしまえばいい。そうすれば惑星は蘇る。こんなばかげた会議に頼らなくとも、人の力をあてにしなくとも、再び緑あふれる楽園になる」
水をうったかのような場内に、零の声だけが響いた。
「なにをしている!」
沈黙は、その一声で破られた。固まっていた場内の人間は、それによって我に返る。零の周りにいた人間が、場内の視線を集める零を、数人がかりで取り押さえる。零は、それに抵抗することなく、大人しく従っている。
零が取り押さえられたことで緊張が解けたのか、あたりは凄まじいほどのざわめきに包まれた。不愉快だと怒る声、困惑に満ちた声。
彼方はその中で、零のほうだけを見つめていた。
彼は取り押さえられたまま、場外へと移動させられはじめている。
物静かな、英知を秘めた瞳と、狂気とも言える言動。そのふたつがどうしても、ひとつにならない。彼はいったい、どんな人物なのだろうか。
姿を消すその一瞬、零と視線が重なった。凍り付くまでに冷たい賢者の瞳は、その中に確かに暗い炎を宿している。それは世界を変える者の証であるように、彼方には感じられた。
会議は、零のことがあってか、終始覇気のないままだった。零の言葉通りの、当たり障りのない無難な宣言が出されたのち、表向きには無事に終わった。
研究所に戻った彼方は、しかし、零のことが頭から離れないでいた。彼はいったい、これからどうなってしまうのだろう。青年の狂気は、このままで終わるはずはない。
混乱を招いたことで、零は研究者としては致命的な傷を負っただろう。学生とはいえ、その罪は許されざるものとして、周りの目に映ったに違いないだろうから。下手をすれば、研究者生命の危機に陥りかねない。
その名は禁忌として、長く記憶に残るだろう。
しかし彼方は。
あのような青年の瞳にどこか羨ましいものを感じていた。あれほどまでに記憶に焼き付く色を、彼方は見たことがない。それは研究に熱心でいられない、惑わされてばかりの彼方とは正反対のものだったからだ。
あのとき確かに、零と自分の視線が交わった。思い切れない彼方を、どこか責めているようにも感じられるそれ。自分の思い過ごしなのだろうが、彼方にはどうしても、そのように感じられるのだった。
彼方と零の運命が交錯したとき。
それが、はじまりなのだと、彼方自身もそのときは思わなかった。
「夕代博士」
ふいに、自分を呼ぶ声がした。それをきっかけに、まどろみの海、過去の幻にたゆたっていた意識が浮かび上がってくる。
瞳をあげると、あのときの自分や零と同じ年頃に見える若い研究者が、彼方をのぞき込んでいた。過去と未来、一瞬、その判断が付かずに記憶を探る。
「夕代博士、大丈夫ですか?」
もういちど、若者が彼方に呼びかけた。なにか失礼をしてしまったのではないかとうろたえるその姿に、ようやく彼方は、自分が夢を見ていたのだということを思い出す。
確かに、彼にもこの若者と同じような時代があった。それに、懐かしさとくすぐったさを感じながら、彼方は背筋を伸ばした。
「あ、ああ、大丈夫だ。どうした?」
「はい。そろそろ、時間です。皆さんお待ちです」
時間。その言葉に、彼方は瞳を巡らせた。夢にまどろんでいたせいで、自分がなにをするつもりだったのか、時間とはなんなのかが思い出せないのだ。
「……そう、だったかな」
さすがに、忘れたとは言い出しにくかった。言葉を濁し、立ち上がる。
「そうです。博士ご自身が動かれた避難計画の、はじめての会議じゃありませんか」
忘れたんですか、と言外の意味を込めて若者が告げた。
「そう――だったな」
会議。零が忌み嫌った自己満足のための会議。その中心にいま、彼方はいる。しかし彼方は、これを自己満足で終わらせないという覚悟があった。いまそれで終わらせてしまったら、人に未来はない。
ため息を吐いて立ち上がった。白衣の襟を正して、気合いを入れる。流れを変えるためには、生半可な気持ちではいられない。
零の一件があってから、彼方は考え方を徐々に変えていった。『自らの命をかける覚悟』といえば大げさかもしれないが、零の言葉が、ずっと心の奥底にわだかまっていたのは事実だった。研究所を立ち上げ、自分になにができるかを模索し続けた。
いつしか人の口の端にのぼるようになったDr.ウインド――それがかつてのあの青年、風見零だとわかってから、死にものぐるいで駆け抜けた。零は滅びを口にしていた。その気になれば、それを実行してもおかしくない覚悟だった。
零――Dr.ウインドがそのつもりならば、彼方はそれを、全力をもって止めるまでのことだ。
みちは変わっていく。
決して後戻りの許されないそれは、一歩先すら見えぬ、か細い糸の上を歩くようなものだ。まっすぐですらない。
しかしそれは確実に、未来へと続いていく。
白衣をなびかせ、彼方は部屋から姿を消した。