Episode 3 Because I love you.

2.ファム


 図体だけは大きいくせに、やけに頼りない後姿が消えていく。それを見ながら、あたしはこころの中でくすりと笑った。あれじゃあ、どれだけ時間がかかるのかしら。
 まあその時間も、あとどれだけあるかどうか怪しいものなのだけれど。
 あたし達に時間はない。もっと言ってしまえば、このEgg Shellに未来なんてないんだから。

 残ったカルテを何とか書き終え、ひと息ついたときに通信機のコール音が響く。また仕事なのかと思うとちょっと気が重いけれど、居留守を使うわけにもいかないから仕方なく、受話器を取った。
「ファムか? 私だ。アキだよ。今時間はいいだろうか」
 彼、だ。
 声を聞いたとたん、不覚にも、胸が高鳴るのを感じた。
 何てことだろう。
 それでも、何とか声だけは平静を装う。あたしのこの動揺を、少しでも感じ取らせまいと努力する。あまり、効果はないのだけれど。声が自分でもわかるほど震えてる。しっかりしなさい。

 秘密の話をしたい。それが、彼の用件だった。口に出すにははばかられる、とても危険な話だ。だから、誰にも聞かせられない。
 自然に、受話器の向こうの声は内緒話でもするように小声になる。それが、まるで耳元でささやかれているような錯覚さえ起こさせるのだ。ますますあたしの心拍数は跳ね上がる。
「いいわ、空いてる。しばらく誰も入らせないようにしておくから」
 それだけをのどの奥からしぼり出すと、あたしは震える手でようやく受話器を置いた。それでもあたしの心臓は、しばらく騒いだままだった。
 馬鹿みたい。何だってまた、こんなにうろたえなければいけないんだろう。あたしは十やそこらのちっぽけな少女じゃないはずなのに。
 これじゃあ、ヒロのことを笑うなんてできないじゃない。

 アキとあたしとは、共通の目的を目指している、いわば同志のようなものだ。
 でもはじめから、そんな間柄だったわけじゃない。ここに来てからしばらくは、彼のことを憎んでばかりいた。すべてに恵まれたお坊ちゃまの彼が、恨めしくてならなかった。
 直接話したことなんてなかったけれど、いけ好かない奴だろうって、そう勝手に思い込んでいた。
 ――あのひとに、敵対するものだから。

 あたしは、あのひとに拾われるまでずっとひとりだった。親のことなんて、これっぽっちも覚えていない。荒野の中、助けてくれるものなんてほとんどない中で、おんなじような境遇の子ども達と肩を寄せ合って暮らしていた。
 でも、子どもだけでなんてそう簡単に、暮らしていけるものじゃない。なんでもした。けれど、その努力も空しく仲間の数はどんどん減っていった。みんなみんな、大人に見殺しにされていった。
 そんな時、だ。あたしは運良く、あのひとと出会った。あのひとに、命を助けられた。
 あのひとだけは、他の大人と違った。薄汚れた格好なのに、目を背けたりしなかった。あたしのこれまでの境遇を聞いて、大変だったね、と言ってもくれた。黄昏に沈むようなひとみが、まっすぐにあたしを見つめた。
 だから、あたしはあのひとのところに行ったのだ。
 そこには他にもたくさんの子どもがいて、やっぱり身を寄せ合って暮らしていた。でもひとつ違ったのは、みんなのひとみがきらきらと輝いていたことだった。
 あのひとは昔、大きな都市で学者さんをしていたと言った。だからだろうか、勉強だけは思いっきり、好きなようにできた。あのひとのつてを頼って、幼いながら医学を修めることもできた。
 それがあのひとの目的のために必要だったとしても、かまわなかった。
 だってあのひとの望みはあたしの望みだったから。あたしは、あたしを助けてくれなかった大人達への、復讐がしたかったから。

 あたしは、あのひとが好きだった。もういないってわかっていても、ずっと好きだった。あのひとの願いでなければ、あのひとの側から離れるなんて絶対しなかった。最期のときまで、側にいたかった。
 たったひとりのあのひとの願いだからこそ、あたしは今、ここにいる。

 でも。
 それなのに。あたしの心はゆれている。彼がここにくるとわかったとたん、少女のように慌てている。これは、この気持ちは何なのだろう。
 小さな鏡を取り出して、おかしなところがないか念入りに見ているあたし。白衣がしわだらけだったからって、慌ててロッカーに駆け込んでいるあたし。
 彼は、愛の言葉を囁きにこの部屋にやってくるのではない。それはわかっている。ちゃんと。
 でも、ふとした拍子に、甘い雰囲気になるんじゃないかって期待しているあたしがいる。そんなこと、あるわけがないのに。
 こんな心の動揺を、きっと彼は知らない。彼は何でも知っているかのような顔で、まるでどこかのお姫さまのようにあたしを扱ってくれるけれど、この気持ちだけはきっと知らない。
 彼は、あたしに利用されているだけだと、きっとそう思っているから。
 はじめはあたしもそのつもりだった。彼を精一杯利用してやろうと思った。あのひとのことを誰より憎んでいた男の息子なんだもの。
 でもあたしは、いつしかそんなこと、忘れてしまった。


 あのひとの願いを成し遂げることだけが、あたしの望み。それ以外には何もいらないはずなのに、別の望みがだんだん大きくなっていく。
 あたし達に未来はない。ハッピーエンドなんてありえない。
 ただただ暗い闇の底に、落ちていくだけ。それでも、『もしかしたら』を望んでしまうのは、なぜなんだろう。


 あの日、あの時、あの隠された場所で、もしも彼に出会っていなかったら。あのひととおんなじひとみをした彼に会うことがなかったら、あたしは変わっていただろうか。
 彼に出会う前のあたしのままでいたのだろうか。

 ――『もしも』なんて無意味だってことはわかってる。
 だって、あたしは彼に出会ってしまった。
 そこから、未来は進みはじめたんだ。違う、方向へ。

 昔、なけなしの報酬をはたいてそろえた茶器を、慌てて戸棚から取り出す。彼には言わないけれど、これはとっておきのためだけのものなのだ。ずっと封印していたけれど、彼に出会ってから、なぜだかあっさりそれを解いた。
 ついでに、この間メイがおいていった焼き菓子を並べる。少しくらい減っていたとしても、きっとメイは笑って許してくれるだろう。
 やっとファムにも春が来たのかしらなどと、勝手な想像を膨らませたりはするかもしれないけれど。

 これから彼とする話は、楽しいものではありえない。
 でも、雰囲気だけは、せめて味わいたかった。望んでも決してかなうことのなかった、しあわせな時間を味わってみたかった。
 彼がくるまでもう少し。
 あたしはチャイムの音を待ち望んでいる。まるで、初めて恋を知った少女のように、胸を高鳴らせて、待っている。

 きっと――あたしは彼が、好きなのだ。
 それを口にする時は、永遠に来ないのだろうけれど。