Episode 3 Because I love you.
1.ヒロ
「あらまあ、またなのね。性懲りもなく。氷はそこにあるから、勝手に冷やして帰りなさい。あたしは忙しいんだから、手を煩わせないでね」
あいつに派手に叩かれて、痛む頬をさすりながらメディカルセンターに行くと、あきれ顔のファムに出くわした。相変わらず素直じゃないのね、と好き放題言われて、俺はますます不機嫌な顔になる。
氷をはれた頬に当てると、ため息ひとつ、俺はメディカルセンターの処置室に座り込んだ。
素直じゃない。わかってはいる。でも、あいつになんて言ったらいいかわからないんだ。
それで、ついついからかい口調になってしまう。それを真に受けて、あいつは本気で怒ってみせる。
だからって他の男どもが掛けるような声でも掛けてみろ。笑われるに決まってる。だったらどうすりゃいいんだ。
あいつを初めて見たのは、確かEgg Shellが封印されてしばらくしてからの頃だった。そう、ようやく自分の気持ちにけりをつけて、与えられた仕事をとにかく片づけていこう、と思えるようになったときだと思う。
「いいかげんにしなさいよ!」
いきなり、大声が聞こえた。
それぞれが思い思いに自由な時間を過ごす、Egg Shellの休憩所。そこで、大騒ぎをしている誰かがいた。俺はちょうど、エリアの仕事が一段落して仮眠を取りに部屋に戻るときで、疲れている頭にその幼い声がやたらと響いて、元々悪かった機嫌がますます悪くなっていくのがわかった。
覗き込むと、そこには俺と同じくらいの子どもがふたり、一触即発の状態でにらみ合っている。声を出したのは、背の小さい、黒髪の少女の方だった。柔らかな、ともすれば気弱な印象を与えるひとみなのに、その険しい表情のせいで、恐ろしく勝ち気な印象を少女に与えている。負けじとにらみ返しているのは、少女より頭二つ分ほども高い茶色の髪の少年だった。
ふたりの周りでは、遠巻きにその様子を見守るものたちの人だかりができている。
それは子どもの世界ならば日常茶飯事の、他愛のないけんかの光景だった。
「いくら何でも、ちょっとひどいわ! ここはみんなの場所で、あんただけの場所じゃない! 出ていけなんてえらそうなこと、どうしていえるのよ!」
けんかの原因はよくわからないけれど、どうやら遊ぶ場所に関連しているようだった。よくよく見ると、少女の陰に隠れるように、他の少女達が手に手に玩具を持って、「頑張ってショウ」などとつぶやきつつ、泣き出しそうな瞳をしている。
そのころの俺は、今考えてみるととてもかわいげのない子どもだったんだと思う。そんな、子どもの世界では当たり前の風景を、幼稚だと思いこみ、軽蔑の視線を送ることしかしなかった。
それはきっと、満足に他のこともできないのに、ちょっと機械のことに詳しいからといってまつりあげられて、年上の人間とばかりつきあっていたせいなのかもしれない。
とにかく、そういうわけで俺は、その端から見ればほほえましい光景をくだらないと決めつけ、何にもできないのに生意気なことを言う、と少女を見下す視線を送っていた。
俺はひとつため息をつくと、疲れた体を休めるために部屋に戻った。Egg Shellは広い。あの少女達ともきっと、もう関わることなどないんだと当然のようにそう思って、けれど、声をあげたあの少女がどうしても気になって、それだけはずっと、心の中に残り続けた。
それから、数年後。
設備増強のためのどうしても必要な資料が見つからずに、困り果てて駆け込んだ資料保管室にいたのだ。あの少女――つまり、ショウが。
「初めてですね、こちらにいらっしゃるのは。ええと……機械調整エリアリーダー・ヒロさん」
何でこんなところにいるんだと、思わず穴があくほど彼女を見つめた。数年分、きちんと成長してはいたけれど、その特徴ある黒髪と茶色の瞳の組み合わせは、変わっていなかった。
「私の顔に何かついてますか? どこかで会いましたっけ」
俺の様子がおかしいことに気づいて、ショウが声をかける。一度だけ聞いた、あの幼い声とは違い、今の彼女の声は年に不釣り合いなほどの大人びた声だった。生意気そうな口調でもない。
場所が場所だし、仕事でこの保管室にいるのなら、それ相応の受け答えをしなくてはならない。いつまでも子どものような口調である方がおかしいはずなのに、俺にとってのショウとは、あの第一印象の姿のまま、それ以外はなかった。
そもそも、彼女がこんなところにいるなんて、想像もしていなかった。あの元気の良さだ。きっと教育エリアだの何だの、喧しいエリアに行くんじゃないかと密かに予想していたのに。来るものなんてほとんどいないだろう、こんな辺境にいるなんて。
「だから、私に何かご用なんですか? 私が何かしたんでしょうか」
なおもショウを凝視し続ける俺に、彼女は取り澄ました顔の中にほんの少しだけ、不機嫌さをにじませて、再び問いを発した。
とはいえ、思った通りの言葉なんて、口にできるわけはない。なんと答えたもんかと悩んでいると、一瞬、めまいが俺を襲った。続いて、頬に灼熱に似た痛み。
やけに乾いた音が、耳に遅れて届いた。
「痛ってぇ……ったい何するんだよおまえは!」
全く、今思い出しても腹が立つ。初めて言葉を交わしたはずのあいつに、何ではたかれなきゃいけないんだ。頭に血が上った俺は、先ほどとはうってかわって、不快さを隠そうともせずにらみつけるショウに、言葉を投げつけた。
「いくらリーダーだからって、失礼じゃないですか! ひとをじっと、変なものでも見るように!」
「そういうおまえこそ、初対面の相手にビンタなんてどっちが失礼なんだよ! よくそれで、こんな静かな仕事が勤まるよな!」
思えば、俺とあいつとの関係は、これが始まりだった。あんな出会い方じゃなけりゃ、俺たちの関係ももっと違う方向に進んでいたのかもしれない。
そう、もうちょっとだけ、俺の望んでいる方向に。
かといってきっと、違う出会い方をしていたなら、きっとあいつのことなんて何とも思っていなかっただろう。
初対面で大げんかをやらかしたせいで(そして、あのいけ好かない管理者殿に大目玉を食らったせいで)、それ以降、俺達はことあるごとに顔をつきあわせては、同じような低レベルの争いを繰り返した。けんかするほど仲がいい、とか誰かが言っていたけれど、それはある意味正しいのかもしれない。
少なくとも俺は、いつしかあいつに会うことが、苦痛ではなくなっていた。むしろ、顔を見ないと落ち着かなかった。ぽんぽんと小気味よく発せられる言葉がすごく新鮮で、くるくるとよく変わる表情も、見ていて飽きない。
気づかないうちに俺は、あいつのことが好きになっていたんだ。
どうしたらいいんだろうな。きっと、今のままじゃ俺は、あいつにたったひとことさえ告げることができないだろう。それにあいつは、ずっとただひとりだけを追っている。
わからないわけない。あのすかした管理者殿の前であいつは、別人かと思うほどの変わりようだ。気づかないわけはない。
きっといつか確実に、俺達のこの関係も変わる日が来るんだろう。
どんな方向へ行くのかはわからない。
けれど、やっぱり確実に、俺はあいつから目をそらしたりはしないだろう。
だって、俺の気持ちだけはそのときになったって、きっと変わっちゃいないだろうから。
しばらく悩んでいると、ようやく痛みが治まってきた。そろそろ、戻ってもいい頃だろう。帰ったらまた何か言われるんじゃないかと思うと、少しだけ気が重い。
しばらくは、あいつと顔を合わせるのもやっぱり気まずい。
「そんなんじゃ、いつまで経っても変わんないわよ、情けない。もう少し、自分の気持ちに素直になったらいいじゃない。……まあ、せいぜい頑張りなさい」
相変わらず、励ましてるんだかけなしてるんだかわからないファムの声が、俺の背に響いてきた。
1.ヒロ
「あらまあ、またなのね。性懲りもなく。氷はそこにあるから、勝手に冷やして帰りなさい。あたしは忙しいんだから、手を煩わせないでね」
あいつに派手に叩かれて、痛む頬をさすりながらメディカルセンターに行くと、あきれ顔のファムに出くわした。相変わらず素直じゃないのね、と好き放題言われて、俺はますます不機嫌な顔になる。
氷をはれた頬に当てると、ため息ひとつ、俺はメディカルセンターの処置室に座り込んだ。
素直じゃない。わかってはいる。でも、あいつになんて言ったらいいかわからないんだ。
それで、ついついからかい口調になってしまう。それを真に受けて、あいつは本気で怒ってみせる。
だからって他の男どもが掛けるような声でも掛けてみろ。笑われるに決まってる。だったらどうすりゃいいんだ。
あいつを初めて見たのは、確かEgg Shellが封印されてしばらくしてからの頃だった。そう、ようやく自分の気持ちにけりをつけて、与えられた仕事をとにかく片づけていこう、と思えるようになったときだと思う。
「いいかげんにしなさいよ!」
いきなり、大声が聞こえた。
それぞれが思い思いに自由な時間を過ごす、Egg Shellの休憩所。そこで、大騒ぎをしている誰かがいた。俺はちょうど、エリアの仕事が一段落して仮眠を取りに部屋に戻るときで、疲れている頭にその幼い声がやたらと響いて、元々悪かった機嫌がますます悪くなっていくのがわかった。
覗き込むと、そこには俺と同じくらいの子どもがふたり、一触即発の状態でにらみ合っている。声を出したのは、背の小さい、黒髪の少女の方だった。柔らかな、ともすれば気弱な印象を与えるひとみなのに、その険しい表情のせいで、恐ろしく勝ち気な印象を少女に与えている。負けじとにらみ返しているのは、少女より頭二つ分ほども高い茶色の髪の少年だった。
ふたりの周りでは、遠巻きにその様子を見守るものたちの人だかりができている。
それは子どもの世界ならば日常茶飯事の、他愛のないけんかの光景だった。
「いくら何でも、ちょっとひどいわ! ここはみんなの場所で、あんただけの場所じゃない! 出ていけなんてえらそうなこと、どうしていえるのよ!」
けんかの原因はよくわからないけれど、どうやら遊ぶ場所に関連しているようだった。よくよく見ると、少女の陰に隠れるように、他の少女達が手に手に玩具を持って、「頑張ってショウ」などとつぶやきつつ、泣き出しそうな瞳をしている。
そのころの俺は、今考えてみるととてもかわいげのない子どもだったんだと思う。そんな、子どもの世界では当たり前の風景を、幼稚だと思いこみ、軽蔑の視線を送ることしかしなかった。
それはきっと、満足に他のこともできないのに、ちょっと機械のことに詳しいからといってまつりあげられて、年上の人間とばかりつきあっていたせいなのかもしれない。
とにかく、そういうわけで俺は、その端から見ればほほえましい光景をくだらないと決めつけ、何にもできないのに生意気なことを言う、と少女を見下す視線を送っていた。
俺はひとつため息をつくと、疲れた体を休めるために部屋に戻った。Egg Shellは広い。あの少女達ともきっと、もう関わることなどないんだと当然のようにそう思って、けれど、声をあげたあの少女がどうしても気になって、それだけはずっと、心の中に残り続けた。
それから、数年後。
設備増強のためのどうしても必要な資料が見つからずに、困り果てて駆け込んだ資料保管室にいたのだ。あの少女――つまり、ショウが。
「初めてですね、こちらにいらっしゃるのは。ええと……機械調整エリアリーダー・ヒロさん」
何でこんなところにいるんだと、思わず穴があくほど彼女を見つめた。数年分、きちんと成長してはいたけれど、その特徴ある黒髪と茶色の瞳の組み合わせは、変わっていなかった。
「私の顔に何かついてますか? どこかで会いましたっけ」
俺の様子がおかしいことに気づいて、ショウが声をかける。一度だけ聞いた、あの幼い声とは違い、今の彼女の声は年に不釣り合いなほどの大人びた声だった。生意気そうな口調でもない。
場所が場所だし、仕事でこの保管室にいるのなら、それ相応の受け答えをしなくてはならない。いつまでも子どものような口調である方がおかしいはずなのに、俺にとってのショウとは、あの第一印象の姿のまま、それ以外はなかった。
そもそも、彼女がこんなところにいるなんて、想像もしていなかった。あの元気の良さだ。きっと教育エリアだの何だの、喧しいエリアに行くんじゃないかと密かに予想していたのに。来るものなんてほとんどいないだろう、こんな辺境にいるなんて。
「だから、私に何かご用なんですか? 私が何かしたんでしょうか」
なおもショウを凝視し続ける俺に、彼女は取り澄ました顔の中にほんの少しだけ、不機嫌さをにじませて、再び問いを発した。
とはいえ、思った通りの言葉なんて、口にできるわけはない。なんと答えたもんかと悩んでいると、一瞬、めまいが俺を襲った。続いて、頬に灼熱に似た痛み。
やけに乾いた音が、耳に遅れて届いた。
「痛ってぇ……ったい何するんだよおまえは!」
全く、今思い出しても腹が立つ。初めて言葉を交わしたはずのあいつに、何ではたかれなきゃいけないんだ。頭に血が上った俺は、先ほどとはうってかわって、不快さを隠そうともせずにらみつけるショウに、言葉を投げつけた。
「いくらリーダーだからって、失礼じゃないですか! ひとをじっと、変なものでも見るように!」
「そういうおまえこそ、初対面の相手にビンタなんてどっちが失礼なんだよ! よくそれで、こんな静かな仕事が勤まるよな!」
思えば、俺とあいつとの関係は、これが始まりだった。あんな出会い方じゃなけりゃ、俺たちの関係ももっと違う方向に進んでいたのかもしれない。
そう、もうちょっとだけ、俺の望んでいる方向に。
かといってきっと、違う出会い方をしていたなら、きっとあいつのことなんて何とも思っていなかっただろう。
初対面で大げんかをやらかしたせいで(そして、あのいけ好かない管理者殿に大目玉を食らったせいで)、それ以降、俺達はことあるごとに顔をつきあわせては、同じような低レベルの争いを繰り返した。けんかするほど仲がいい、とか誰かが言っていたけれど、それはある意味正しいのかもしれない。
少なくとも俺は、いつしかあいつに会うことが、苦痛ではなくなっていた。むしろ、顔を見ないと落ち着かなかった。ぽんぽんと小気味よく発せられる言葉がすごく新鮮で、くるくるとよく変わる表情も、見ていて飽きない。
気づかないうちに俺は、あいつのことが好きになっていたんだ。
どうしたらいいんだろうな。きっと、今のままじゃ俺は、あいつにたったひとことさえ告げることができないだろう。それにあいつは、ずっとただひとりだけを追っている。
わからないわけない。あのすかした管理者殿の前であいつは、別人かと思うほどの変わりようだ。気づかないわけはない。
きっといつか確実に、俺達のこの関係も変わる日が来るんだろう。
どんな方向へ行くのかはわからない。
けれど、やっぱり確実に、俺はあいつから目をそらしたりはしないだろう。
だって、俺の気持ちだけはそのときになったって、きっと変わっちゃいないだろうから。
しばらく悩んでいると、ようやく痛みが治まってきた。そろそろ、戻ってもいい頃だろう。帰ったらまた何か言われるんじゃないかと思うと、少しだけ気が重い。
しばらくは、あいつと顔を合わせるのもやっぱり気まずい。
「そんなんじゃ、いつまで経っても変わんないわよ、情けない。もう少し、自分の気持ちに素直になったらいいじゃない。……まあ、せいぜい頑張りなさい」
相変わらず、励ましてるんだかけなしてるんだかわからないファムの声が、俺の背に響いてきた。