Episode 3 Because I love you.

3.メイ


 くしゃん、と盛大に響いたくしゃみのせいで、私の集中力はあっけなくとぎれた。噂されるとくしゃみがっていうの、どこの文化圏だったかしら。
 ため息が思わず漏れた。今日はせっかく頑張るつもりだったけれど、もうだめ。座っていられない。
 研究室を見渡す。メンバー達はみんな、少し前までの私と同じように、試験管やらシャーレやらが並んだクリーンベンチの前で格闘していた。現状維持が精一杯のEgg Shellで、新しい技術を高めるための研究の時間はとっても貴重だ。だから自然と、みんな必死になる。まあ、でなきゃ、「選ばれたもの」としての面目がたたないんだろうけど。
 軽くのびをした私は、こっそりと部屋を抜け出した。

 スタッフルームに行くと、とりあえず気分は落ち着いた。
 無機質な印象ばかりが目立つ研究室は、肩がこって仕方がない。あんな所、仕事でなきゃ一秒たりともいたくない。
 しんと静まりかえったスタッフルームの片隅で、リアリィお手製のクッキーをつまみながらお茶を飲む。壁の一方がガラスで覆われているせいで、座っているところからは植物たちが育つエリアが見下ろせる。その多くは、やっぱりシェルターだから仕方ないんだけれど、機械に囲まれていた。その周りで作業をしているひとが見えて、ちょっぴり申し訳ない気持ちになる。
 少しだけ遠くに視線を移すと、少ないながら機械に囲まれずにのびのびと育つ草木の姿もあって、その緑の色は疲れた心にはとっても嬉しい。
 やっぱり、ありのままの姿でいた方が、植物らしいものね。殺風景すぎる初期のEgg Shellに比べたら、ずいぶんまし。

 そこまで考えて、心の中にもやもやとした気持ちが生まれた。ここに連れてこられたときの、あの光景を思い出したからだった。
 いのちの色の感じられない、まるで冷たい死の世界のような、昔のこの場所。

 私に両親はいない。もちろん、生物学的な両親はいるんだろう。でなきゃ私は存在してないもの。でも、「親」と呼べるひとはいなかった。
 数少ない、汚染されていない陸の孤島のような場所で、自然との共存を目指す実験のために、私は生まれたと聞かされた。生まれてずっと、それを聞かされてきたから、別におかしいとも何とも思わなかった。
 その地に建てられた大きな家で、私は育児用のAIと、そして多くの緑に囲まれて暮らしていた。
 ――いわゆる、実験対象ってやつだ。
 実際、そんなことが外の世界で合法的に行われていたのかどうかは、今はもう知るべくもない。みんなに話したって、信じてもらえるなんて思ってないから、これは内緒の事柄だ。
 私の出自を知ってるとしたら、Egg Shellの管理者ぐらいなものだと思ってる。

 そんな生まれだったけれど、ここに連れてこられるまで、あの場所で過ごした日々はとっても楽しかった。
 いつも身近に植物がいたし、何となく彼らの気持ちもわかって、気持ちが通じ合えているようだった。AIはちゃんと、(本とかでしか知らないけれど)本当の親のように私を世話してくれて、寂しくなんてなかった。たくさんのことを好きなように、AIから教えてもらえた。
 AIだってこと知らされなかったら、私は本当の親だと思いこんでたに違いない。
 時たま姿を見せる白衣の集団の方が、私はよっぽど恐ろしかった。
 ひとは周りにいなかったから、足りなかったのは「友達と遊ぶ」っていう社会性を身につけることだけ。
 それはそれで大問題だったけれど、その時の私は、そんなこと考えてもいなかった。
 私はちゃんと、しあわせだったのだ。

 それが突然壊れたのは、私がここに連れてこられたから。
 だいたい、幼児つかまえて特別の能力があるもへったくれもあったもんじゃないって思う。十五歳以下で特別収容されたのは私とヒロだけのようなものだ。
 ヒロは開発者の関係者だから仕方ないにしても、私は実験対象だってことが影響を与えたんだろうか。冗談も休み休みにしてほしい。


 ああ、思い返しても腹が立つ。なんてこと思い出しちゃったんだろう。せっかくの自主休憩が台無しだ。
 でも、時折こうやって、思い出したように怒りがよみがえる。よっぽど嫌な記憶だから、私の無意識が忘れることを許してくれないんだろうか。
 連れてこられた当時は、Egg Shell計画をそれはもう恨んだものだった。生まれ育った場所とここでは、あまりに違いすぎて、生きてゆけるかどうかすらもわからなくて不安で仕方がなかった。
 きっと、ハルがリーダーじゃなかったら、私はおかしくなってただろう。

 そう、ハル。
 ハルがいたから、私はここで、何とか暮らしていけた。

 ここに連れてこられて、泣いてばっかりだった私に、ハルは真っ先に手をさしのべてくれた。大丈夫だよ、って抱き上げてくれて、笑いかけてくれた。それが、生まれ育った場所の優しい緑を思い出させた。
 優しく優しく、穏やかに包み込むような緑と同じ雰囲気を、ハルはまとっていた。
 そうして私は初めて、ひとのぬくもりを知ることができた。
 インプリンティング、みたいなものかもしれない。一番はじめに見たものを親と思いこむっていう、あれだ。でも最近、ハルを見るたびに、それは違うって私のこころのどこかが声をあげている。

 ハルを見るたびに、胸が苦しくなる。何にも知らないハルが笑いかけてくれるたびに、泣きたくなるほど切ない気持ちになる。
 何にも知らないハルは、私以外にも同じように笑いかける。それを見るたびに私は、いたたまれない気持ちになる。私だけのハルじゃないってわかっていても、こころは納得してくれない。
 これでも、少し前までは何とも思わなかったはずなのだ。一番優しい、頼れるお兄さんのような存在だった、はずなのだ。

 私をここに連れてきた人達を、恨まなかったことはない。何もなかったら私はずっと、あの地上の楽園で暮らせていた。
 でも。今は少しだけ、感謝してもいる。ハルに、出会えるきっかけをくれたのだから。

 運命はくるくる変わる。ほんの少しのことで、思いもよらない方へ動いていく。何が良かったのか、それとも悪かったのか、誰にもわからない。ハルとの出会いが私を変えたように、きっといろんな出来事が、いろんなひとの未来を変えていくんだろう。
 私と出会って、ハルの運命は変わったのだろうか。ハルの運命は、どこにつながっているんだろうか。
 これから先、私とハルのいのちの糸は、どんな交わりをみせるんだろう。
 それはまだ、誰も知らない未来の出来事だ。
 でもただひとつ言えることは、どんなときでも、私はハルを見つめているだろうということ。どんなときでも、きっと目をそらさないだろうということ。もし許されるなら、しっかりと手を繋いでいるだろうということ。

 今はまだ、誰にも秘密の恋心。
 伝えられる日は、来るんだろうか。


 ――ああ、もう、これ以上考えるのはやめ。おかしな方向に行っちゃうじゃない。
 これ以上ぐるぐる考えていても、結局結論は出ないままなのは分かり切ってるんだもの。
 ぶんぶんと勢いよく頭を振って、堂々巡りの考えを頭から追い出した。

 時計を見る、となんだかとっても時間が経っていた。
 背中を冷たい汗が滑り落ちる。いくら何でもこれは、ちょっとまずい。きっと私が研究室を抜け出したってことは、とうの昔にばれているだろう。

 もしかしたら始末書ものかしら。
 嫌な考えに思い至り、私はあわててスタッフルームを飛び出した。