Episode 2「秘密の花園」
静かな部屋に、かすかな端末の起動音が響いた。緑満ちる憩いの空間の隣、環境調整エリアの管理ルーム。きし……と、椅子の鳴る音が続く。
まだ、Egg Shellの住人のほとんどは微睡みの中に居るであろう、早朝とも言える時間に、ここを訪れるのはただひとり。
「おはよう」
端末に向かってひとりごちる。低く、柔らかい声が、備えられたマイクを通して隣の空間、広大な植物エリアに響いた。
植物エリアのリーダーであるハルは、誰よりも早く、自分の持ち場に出勤するのが日課だった。静寂満ちる空間に、植物たちの気配を感じる。その貴重な時間を彼は愛していたのだ。
他のメンバーがやってくるまで、まだ少しある。朝一番の紅茶を手に、ハルは前日の報告を、端末に入力しはじめた。
「あれ……?」
入力をする手が止まった。生育状況から予測された、食物の出荷量が、明らかに足りないのだ。このエリアはEgg Shell住人への食糧供給の大部分を受け持っている。ゆえに、出荷量は厳密に計算されたものであった。
これぐらいの量では、Egg Shellに何らかの被害を及ぼす量ではない。他の者なら、見逃してしまうくらいのささやかな違い。だが、誰よりもこのエリアを知っているハルにとってそれは、無視してしまうことの出来ないもの。
明らかに減っている作物。それは苺やオレンジ、その他諸々の「果物」に分類されるもの。
「何か僕が忘れていること、あったっけ……?」
ひとしきり考え込む。何か特別に果物が必要とされるようなイベントでもあったのだろうか、と。それを自分が忘れているのではないか。
どんなに首をひねっても、ハルにはその心当たりが全くなかった。
「ショウ、今日の午後から休暇願が出ているけれど……これは間違いではないのかい?」
多数の決裁書類と、端末の前で格闘していたショウの所へ、困った様子でアキが歩み寄った。時はすでに、昼の休憩まで後一時間。アキ自身も今日中に処理しなければならない仕事が山積みで、とても午後から休暇を取れるような状況ではない。ショウがこんな行動をとるとは思えなかった。
「あ……、ごめんなさいアキ。それは間違いじゃないです。今日、午後だけお休みをください。私の担当分はもう少しで終わりますから、いいですよね?」
明日締め切り分ももう少しですから。とこともなげに微笑むショウは、昔の自信の無さげな彼女とは違う。今では自分の代わりもそつなくこなし、頼りがいのある補佐だった。その彼女が半日とはいえ抜けるのは、かなり痛い。
「お願いしますっ!」
休み明けはいつもの倍お手伝いをしますと必死に頼み込むショウに、アキはようやく深い息をついた。また無理をして倒れられても困る。恨みの視線を向けられたり怒られたりするのは自分なのだ。
「……これ一回だけだよ」
苦笑しつつ答えを出すアキに、ショウの顔が明るくなった。
それから一時間の後。宣言通り、翌日分までの仕事を怒濤の勢いでこなしたショウは、明るい声と共に情報管理エリアを飛び出していった。
「ごめんなさい、遅れちゃった!」
ショウが部屋へと慌てて駆け込むと、待ちかねたように頭の左右両方でで髪を結んだ少女、メイが駆け寄った。ぴょこんと揺れる髪が、やはりウサギのように見える。
「ショウが最後! おっそーいっ」
両手をあわせてごめんと謝りつつ、部屋に集まった仲間と同じように、準備を始めた。
すでに準備万端らしく、この部屋の主、リアリィはにこにこと集まったみんなの様子を眺めている。彼女の元に集まったのは、普段親しくしている女の子達ばかり。華やかな雰囲気に、心からうきうきとしてしまうのも当然のこと。
「リアリィ。これは一体何?」
ただひとり、訳がわからないまま引っ張ってこられたらしいファムだけが、青筋を立てそうな勢いでリアリィに聞いた。午後から処理しなきゃいけない仕事があるんだけど、とぶつぶつ文句を漏らしている。
対するリアリィは、きわめてのほほんと笑みを返した。
「たまには、ね? 息抜きも必要よ。少しだけ一緒に羽を伸ばしましょう」
微笑みを崩さないまま、リアリィは呆れて言葉も出ないでいるファムに何かを手渡した。
「何、これ。……エプロン?」
自分には絶対似合わないだろうと思われる、ひらひらとしたレースのエプロンを広げ、慌ただしく部屋の中を駆けめぐる女の子達を見やり。ファムは所在なげに立ちすくむしかなかった。
「ファム! こっちこっち!」
大声がしたかと思うと、自分をここに無理矢理連れてきた張本人・メイが目の前に現れた。
「ぼーっと突っ立ってないで、やることいっぱいあるんだから! ほらほら」
十も年下の少女に手を引っ張られ、引きずられるようにしてきたテーブルの前には、どこから手に入れたやら、色とりどりの果物が並んでいた。その向こうには、メイの得意げな顔がある。
どうやら自分の担当エリアから持ってきたものであるらしい。
早く早くとせかすメイに従って、ファムは理由もわからないまま、大量の果物を指示通り、処理しはじめた。
「ショウ、暇か?」
当然居るだろうと部屋の主を確認しないまま、ヒロは声をかけた。だが、そこには、期待していた人物は居なかった。かわりに彼にとっては天敵とも言えるEgg Shell管理者、アキと情報管理エリアのメンバーらしい男性が数人、重苦しいため息をついてたたずむだけだった。
「あ……」
予想外の出来事に、ヒロも、アキも凍り付く。暇だったらお茶でも飲まないかと言うつもりで少しだけゆるんでいたヒロの顔がこわばった。
「ショウに何の用だい? 彼女は午後は休暇を取っていてね。ここには居ないんだ。彼女の居場所がわからなくて、私としても困っているんだが……」
「エリア内の女性が半分以上休暇を取ってるみたいで、仕事が進まなくて困ってるんですよ……」
口々に困惑を口にするアキ達を前に、さすがのヒロも憎まれ口を叩くことが出来ない。アキひとりであれば何とでも言えるのだが、こう見えて意外と、ヒロは小心者だったりするのだ。それに、そう言えばここに来る前、数少ない機械調整エリアの女性達が、そろって休暇願を出してはいなかったか。毎日時間の区別無く働いてもらっているからと、たいした理由も聞かずに許可してしまったのだけれど。
機械調整エリアでも同じだ、とヒロが告げると、アキは暫く考え込む表情になった。
「触らぬ神にたたりなし、かもしれないな……」
「いや、しかしですね、アキ。そうはいっても仕事が進まないとどうしようもないでしょう。そもそも、触らぬ神ってどういう事です」
複雑な表情で答えるアキに、拍子抜けした情報管理エリアの男性が理由を尋ねた。
「……女性は怒らせると怖いって事だよ」
だろう? アキに視線を向けられたヒロはようやく何かに思い当たり、ただこくこくと頷くしかできなかった。
鮮やかな宝石の色をした果物が、焼き上げられたケーキ台やタルトの上に並んでゆく。オーブンからは今も、香ばしいチョコレートの香りが漂ってきていた。
「こういう事……だったのね」
ようやく合点のいったファムが、心底疲れた様子で呟いた。こういうことは慣れていない。お菓子は食べるのみが一番いい。手はすでに、絆創膏だらけだ。
「秘密のお茶会なの。女の子だけのね」
最後にゼリーや粉砂糖で仕上げられたケーキを、リアリィがテーブルに並べてゆく。白いクロスの上に、鮮やかな色彩が咲いた。
女の子だけが持つ、華やかで甘い雰囲気があたりを支配する。最初は乗り気でなかったファムも、だんだんそれに影響されているのを感じていた。心の底から、わくわくとした気持ちが浮かんでくる。それはもうずいぶんと昔に、置いてきてしまったと思っていたこころ。
「あ! もう、お行儀悪いんだから」
「結構おいしいじゃない」
リアリィの咎める声を無視し、ファムが今仕上げたケーキに手を伸ばした。クリームをひとすくい、指に載せる。赤い唇に白いクリームが映えた。
「油売ってないで、そろそろお茶も準備が出来ますから!」
とおくで、ショウが声を上げる。ファムに負けず劣らず、手に絆創膏の山をこさえている彼女は、それでも楽しそうに笑っていた。
「はい、ハル。リアリィがお裾分けですって」
ことん、と音をたてて、白い皿が机の上に置かれた。目にも鮮やかな赤い苺のタルト。見上げると、得意げなメイの顔があった。
「それは、ありがとう」
ずっと思い悩んでいたことがようやく解決し、複雑な笑みを浮かべてハルが答える。……果たして咎めるべきか、見逃すべきか。
だが、そんなハルの思いを知ってか知らずか、メイはその華やかな笑顔を崩そうとしない。無邪気な彼女の様子に、ハルはすっかりと言うべき言葉を忘れ去っていた。
同じように、それぞれケーキを贈られた男性陣は、笑顔とケーキのおいしさに、すっかり懐柔されてしまったことは言うまでもない。
静かな部屋に、かすかな端末の起動音が響いた。緑満ちる憩いの空間の隣、環境調整エリアの管理ルーム。きし……と、椅子の鳴る音が続く。
まだ、Egg Shellの住人のほとんどは微睡みの中に居るであろう、早朝とも言える時間に、ここを訪れるのはただひとり。
「おはよう」
端末に向かってひとりごちる。低く、柔らかい声が、備えられたマイクを通して隣の空間、広大な植物エリアに響いた。
植物エリアのリーダーであるハルは、誰よりも早く、自分の持ち場に出勤するのが日課だった。静寂満ちる空間に、植物たちの気配を感じる。その貴重な時間を彼は愛していたのだ。
他のメンバーがやってくるまで、まだ少しある。朝一番の紅茶を手に、ハルは前日の報告を、端末に入力しはじめた。
「あれ……?」
入力をする手が止まった。生育状況から予測された、食物の出荷量が、明らかに足りないのだ。このエリアはEgg Shell住人への食糧供給の大部分を受け持っている。ゆえに、出荷量は厳密に計算されたものであった。
これぐらいの量では、Egg Shellに何らかの被害を及ぼす量ではない。他の者なら、見逃してしまうくらいのささやかな違い。だが、誰よりもこのエリアを知っているハルにとってそれは、無視してしまうことの出来ないもの。
明らかに減っている作物。それは苺やオレンジ、その他諸々の「果物」に分類されるもの。
「何か僕が忘れていること、あったっけ……?」
ひとしきり考え込む。何か特別に果物が必要とされるようなイベントでもあったのだろうか、と。それを自分が忘れているのではないか。
どんなに首をひねっても、ハルにはその心当たりが全くなかった。
「ショウ、今日の午後から休暇願が出ているけれど……これは間違いではないのかい?」
多数の決裁書類と、端末の前で格闘していたショウの所へ、困った様子でアキが歩み寄った。時はすでに、昼の休憩まで後一時間。アキ自身も今日中に処理しなければならない仕事が山積みで、とても午後から休暇を取れるような状況ではない。ショウがこんな行動をとるとは思えなかった。
「あ……、ごめんなさいアキ。それは間違いじゃないです。今日、午後だけお休みをください。私の担当分はもう少しで終わりますから、いいですよね?」
明日締め切り分ももう少しですから。とこともなげに微笑むショウは、昔の自信の無さげな彼女とは違う。今では自分の代わりもそつなくこなし、頼りがいのある補佐だった。その彼女が半日とはいえ抜けるのは、かなり痛い。
「お願いしますっ!」
休み明けはいつもの倍お手伝いをしますと必死に頼み込むショウに、アキはようやく深い息をついた。また無理をして倒れられても困る。恨みの視線を向けられたり怒られたりするのは自分なのだ。
「……これ一回だけだよ」
苦笑しつつ答えを出すアキに、ショウの顔が明るくなった。
それから一時間の後。宣言通り、翌日分までの仕事を怒濤の勢いでこなしたショウは、明るい声と共に情報管理エリアを飛び出していった。
「ごめんなさい、遅れちゃった!」
ショウが部屋へと慌てて駆け込むと、待ちかねたように頭の左右両方でで髪を結んだ少女、メイが駆け寄った。ぴょこんと揺れる髪が、やはりウサギのように見える。
「ショウが最後! おっそーいっ」
両手をあわせてごめんと謝りつつ、部屋に集まった仲間と同じように、準備を始めた。
すでに準備万端らしく、この部屋の主、リアリィはにこにこと集まったみんなの様子を眺めている。彼女の元に集まったのは、普段親しくしている女の子達ばかり。華やかな雰囲気に、心からうきうきとしてしまうのも当然のこと。
「リアリィ。これは一体何?」
ただひとり、訳がわからないまま引っ張ってこられたらしいファムだけが、青筋を立てそうな勢いでリアリィに聞いた。午後から処理しなきゃいけない仕事があるんだけど、とぶつぶつ文句を漏らしている。
対するリアリィは、きわめてのほほんと笑みを返した。
「たまには、ね? 息抜きも必要よ。少しだけ一緒に羽を伸ばしましょう」
微笑みを崩さないまま、リアリィは呆れて言葉も出ないでいるファムに何かを手渡した。
「何、これ。……エプロン?」
自分には絶対似合わないだろうと思われる、ひらひらとしたレースのエプロンを広げ、慌ただしく部屋の中を駆けめぐる女の子達を見やり。ファムは所在なげに立ちすくむしかなかった。
「ファム! こっちこっち!」
大声がしたかと思うと、自分をここに無理矢理連れてきた張本人・メイが目の前に現れた。
「ぼーっと突っ立ってないで、やることいっぱいあるんだから! ほらほら」
十も年下の少女に手を引っ張られ、引きずられるようにしてきたテーブルの前には、どこから手に入れたやら、色とりどりの果物が並んでいた。その向こうには、メイの得意げな顔がある。
どうやら自分の担当エリアから持ってきたものであるらしい。
早く早くとせかすメイに従って、ファムは理由もわからないまま、大量の果物を指示通り、処理しはじめた。
「ショウ、暇か?」
当然居るだろうと部屋の主を確認しないまま、ヒロは声をかけた。だが、そこには、期待していた人物は居なかった。かわりに彼にとっては天敵とも言えるEgg Shell管理者、アキと情報管理エリアのメンバーらしい男性が数人、重苦しいため息をついてたたずむだけだった。
「あ……」
予想外の出来事に、ヒロも、アキも凍り付く。暇だったらお茶でも飲まないかと言うつもりで少しだけゆるんでいたヒロの顔がこわばった。
「ショウに何の用だい? 彼女は午後は休暇を取っていてね。ここには居ないんだ。彼女の居場所がわからなくて、私としても困っているんだが……」
「エリア内の女性が半分以上休暇を取ってるみたいで、仕事が進まなくて困ってるんですよ……」
口々に困惑を口にするアキ達を前に、さすがのヒロも憎まれ口を叩くことが出来ない。アキひとりであれば何とでも言えるのだが、こう見えて意外と、ヒロは小心者だったりするのだ。それに、そう言えばここに来る前、数少ない機械調整エリアの女性達が、そろって休暇願を出してはいなかったか。毎日時間の区別無く働いてもらっているからと、たいした理由も聞かずに許可してしまったのだけれど。
機械調整エリアでも同じだ、とヒロが告げると、アキは暫く考え込む表情になった。
「触らぬ神にたたりなし、かもしれないな……」
「いや、しかしですね、アキ。そうはいっても仕事が進まないとどうしようもないでしょう。そもそも、触らぬ神ってどういう事です」
複雑な表情で答えるアキに、拍子抜けした情報管理エリアの男性が理由を尋ねた。
「……女性は怒らせると怖いって事だよ」
だろう? アキに視線を向けられたヒロはようやく何かに思い当たり、ただこくこくと頷くしかできなかった。
鮮やかな宝石の色をした果物が、焼き上げられたケーキ台やタルトの上に並んでゆく。オーブンからは今も、香ばしいチョコレートの香りが漂ってきていた。
「こういう事……だったのね」
ようやく合点のいったファムが、心底疲れた様子で呟いた。こういうことは慣れていない。お菓子は食べるのみが一番いい。手はすでに、絆創膏だらけだ。
「秘密のお茶会なの。女の子だけのね」
最後にゼリーや粉砂糖で仕上げられたケーキを、リアリィがテーブルに並べてゆく。白いクロスの上に、鮮やかな色彩が咲いた。
女の子だけが持つ、華やかで甘い雰囲気があたりを支配する。最初は乗り気でなかったファムも、だんだんそれに影響されているのを感じていた。心の底から、わくわくとした気持ちが浮かんでくる。それはもうずいぶんと昔に、置いてきてしまったと思っていたこころ。
「あ! もう、お行儀悪いんだから」
「結構おいしいじゃない」
リアリィの咎める声を無視し、ファムが今仕上げたケーキに手を伸ばした。クリームをひとすくい、指に載せる。赤い唇に白いクリームが映えた。
「油売ってないで、そろそろお茶も準備が出来ますから!」
とおくで、ショウが声を上げる。ファムに負けず劣らず、手に絆創膏の山をこさえている彼女は、それでも楽しそうに笑っていた。
「はい、ハル。リアリィがお裾分けですって」
ことん、と音をたてて、白い皿が机の上に置かれた。目にも鮮やかな赤い苺のタルト。見上げると、得意げなメイの顔があった。
「それは、ありがとう」
ずっと思い悩んでいたことがようやく解決し、複雑な笑みを浮かべてハルが答える。……果たして咎めるべきか、見逃すべきか。
だが、そんなハルの思いを知ってか知らずか、メイはその華やかな笑顔を崩そうとしない。無邪気な彼女の様子に、ハルはすっかりと言うべき言葉を忘れ去っていた。
同じように、それぞれケーキを贈られた男性陣は、笑顔とケーキのおいしさに、すっかり懐柔されてしまったことは言うまでもない。