2.


「ねえ、知ってる? もうすぐここから出られるかもしれないんだって」
 午後の休憩にと、優しい香りを放つティーカップをハルのデスクに置いて、メイはつい最近仕入れたばかりの噂を口にした。彼女は、他のエリアに出かけては色々と新しい話題を仕入れて、ハルに話して聞かせる。日頃、あまり出歩かないハルにとってはいい気分転換にもなった。
「それは、いつもの噂じゃないのかい? いったい何回目かな、それを聞くのは」
 ハルはカップのお茶を口に含んだあと、少し呆れて返す。この『もうすぐここから出られる』噂は、もう耳にたこができるくらい聞かされている。それほどに、Egg Shellでは絶えたためしのない話題である。それほどまでに、皆がここから出て外へ帰ることを待ち望んでいる証なのだろう。
 何度も言っているという自覚があるからだろうか、ハルの反応がはじめからわかっているとでもいうように、そして本題はこれからだ、とでも言いたげにメイは得意げに胸を張っていた。その様子があまりに幼くて、ついついハルはそれじゃまるで子どもだね、と吹き出してしまう。幸いお茶を飲み干したあとだったからいいものの、あまりといえばあまりな反応に、メイは口をとがらせた。
「もうっ! ひどいわ、人を見て笑い出すなんて!」
 メイのわかりやすい反応に、ハルはまた小刻みに肩をふるわせながら苦労して笑いをおさめようとした。
「今度はね、ちゃんと説得力のある理由もあるんだから。それにね、いまはどこに行ってもこの話題よ?」
 知らないの? とでも言いたげなメイの視線に、ようやく笑いを引っ込めたハルが、肩をすくめて話の先を促す。メイはまた得意げな表情になりかけ、ふと気が付いたように心持ち、顔を赤くする。これではハルの言うとおり、あまりに子どもっぽい。
 こ本当ひとつ咳払いをし、顔を引き締めると、今度はまじめな表情で口を開いた。
「情報管理エリアなんだけどね、いっつも厳しいのは変わりないんだけれど、最近それに輪をかけたようにセキュリティが厳しくなってるの。メインルームには他のエリアの人間はなにがあっても立ち入り禁止だし、情報管理エリアメンバーの口も、いつも以上に堅いのよ」
 そこでいったん言葉を切ると、ショウもなのよね、最近。友達がいがないんだから、と呟いた。ハルはそんなメイに、仕方がないだろうと苦笑してみせ、視線でまた先を促した。
「でね、毎日メインルームを張ってる人によるとね」
「ちょっと待って、なんだいそれは?」
 メイの言葉に、ハルは頭を抱える。まさかそこまでする人間がいるとは思わなかったのだ。まるで、外の世界のゴシップ記者のようだと、呆れがちに思うと、メイは娯楽がないんだもの、仕方ないじゃない、と反論した。
「管理者のアキがね、Egg Shell内にいないみたいなのよ。これってつまり、外に出られるための準備ってことにならない? 多分、調整かなにかで一足先に、アキだけ外に出てるとか。ね、考えられないこと、ないでしょう?」
 メイの話を単なる息抜き程度のものと割り切って聞いていたハルだが、『アキがEgg Shell内にいない』という言葉に、表情を一変させる。
「アキがいないって、本当かい? 誰も彼の姿を見ていないのか?」
 その問いかけに、メイは一瞬瞳を巡らせたあと、頷いた。
「うん、そう。ここ数週間、かな。ひとりもアキの姿を見てないみたい。相変わらず、お知らせとかはアキの名前で出てるけれど、結局、情報管理エリアから発信されてるんだから、他のメンバーがかわりに出してるっていう可能性もあるのよね。そのせいでね、出られるかもしれないって噂と同時に、今回はもうひとつ、アキ死亡説まで出てるの」
 これはいくらなんでもないと思うんだけど、と付け加えて、メイは笑った。
 メイの話にますます表情を険しくさせるハル。まるで時が止まったかのように、身動きひとつせずに考え込む彼の姿に気づき、メイはいぶかしむようにその様子を眺めた。子どもっぽく見えるのを承知で、口をとがらせる。
「ハル? ねえ、ハルったら!」
 メイの大声にも気づかぬ様子で物思いにふけるハルの姿に、呆れたメイはため息をつく。こうなったらしばらく、ハルは誰の言葉にも反応しなくなるのだ。ティーポットに残った残りのお茶をハルのカップにつぐと、メイは肩をすくめて立ち去った。


 一方、物思いの海に沈むハルの脳裏には、さまざまな考えが浮かんでは消える。幾度も人の口にのぼっては消えている『出られる』という噂。今回に限って、情報管理エリアにひそむ影。管理者の不在という噂。
 なにかが、狂いはじめているようだった。
 まさか、と自分の頭に浮かんだ考えを振り払う。
 まさか、あれが本当のことであるはずがない。


 そう、それは、一月前のこと。
 各エリアリーダーと管理者の連絡専用回線に、定期連絡に紛れてとあるメッセージが舞い込んだ。
《Egg Shell解放計画始動。汝の力がいる》
 そして、その文字のそばには、D.W.との署名があった。
 にどと見たくない、見るはずがないと思っていた、その名前。
 定期連絡は、管理者アキから各リーダーへの一方通行でしかない。故に、その送信回線を使うのはアキのみなのである。それに、D.W.という文字。アキと、その文字の接点が、どうしても見あたらない。
 D.W. ――Dr.ウインド。世界を恐怖に落とし込み、ただそれだけのために生きていたようなあの男。
 何故アキと、それからあの男が関係しているのだろう。
 そして何故、自分のもとにこのメッセージが来るのだろう。


 それ以降、いくら待っても次のメッセージは来なかった。
 だから、心の中でくすぶってはいても、行動を起こす気にはなれなかったのだ。自分でも整理のつけられていないことで、気後れしたのかもしれない。
 けれど。
「あれ、ハル、どうしたの? どこに行くの?」
 立ち上がる。白衣のしわを伸ばし、エリア外に出る支度をした。声をかけるメイに、なんでもないと返事をして、ドアのほうへと向かう。
 ふと、なにかにひかれるように振り向く。見慣れた、もう家ともいえるような、自分のエリア。突然の行動に、とまどっているメンバー、そしてメイ。その光景が、急に現実味のないものに変わっていく気がした。儚い、いまにも消えてしまいそうな、壊れやすいもの。
 なくすわけにはいかない。
 ただそれだけを、感じた。
「少し、外に出てくる。今日はもう、特に用事がないなら部屋に戻ってもいいよ。特にこれから仕事を持ってきたりはしないからね」
 ざわつく室内をあとにハルは廊下へと姿を消した。
「ハル、ねえっ! いきなり変よ!」
 不安げに呼びかけるメイの声も聞こえぬまま。


 管理エリアエレベーターへと続く長い廊下を歩いてゆくと、和やかに通り過ぎる人々に混じって、ずっとこちらを見ているものがいるのに気が付いた。射るような、強い視線を感じる。
 長い黒髪を結ばずに肩に流し、鋭い瞳をじっとハルに向けている女性。
 ため息をひとつ付くと、ハルは彼女のほうへと歩み寄った。
「さっきから僕を見ているのは、君?」
 確認のために、分かり切った質問をする。こうも意識に引っかかる見方をするというのは、こちらから話しかけて欲しいためだろう。そう判断したからだ。
 問いかけられた女性は鋭い視線をすっとおさめる。くす、と口の端を曲げて、笑った。
「そろそろ、動く頃だと思ったわ。来て」
 ハルを導くように先に立ち歩き出す女性。ハルは彼女の手首を掴んで引きとめた。なにも説明されずに行動を決めるほど、馬鹿ではない。
「君は、確かメディカル・センターの」
 女性の顔をよく見て、記憶の引き出しを探す。メイが良く、暇なときには相手してもらっているの、と話していたことを思い出した。会議でも見た覚えがある。
「そう、ファムよ。こうして話すのは初めてかしら。メイから良く、話は聞いているけど」
 ファムはまた人を射すくめるような鋭い視線を向け、ハルを怯ませた。
「定期連絡のことでしょう? 知りたいなら付いてきて。そうでなくても、付いてきてもらうつもりなのだけれど」
 ねえ、あの人のこと、知りたいでしょう? ファムはそういって、微笑んだ。
 足を踏み出してしまったら戻れない、それが分かり切っていても。深い影に逆らえず、ハルはファムの後を追う。脳裏を、追い出せない暗い記憶がよぎった。


『Dr.ウインド? 面白いじゃないか。だったら私は、言葉通り世界を変える風になってやろう』
 かつて、笑いながらそう言ったあの男の姿が、幻影の中からよみがえる。どんなに捨て去ろうとしても、ついてまわる、あの、影。