Egg Shell 第二章 混沌のめざめ
1.


「ショウ、ショウ!」
 肩を揺さぶられる感覚で、意識が現実へ戻った。薄暗い部屋の中で、ぼんやりとランプの明かりを見つめる。ショウにアキの不在を告げた彼は、ほっとしたようにショウを放した。彼自身も、ひどく混乱しているらしい。いつも、情報管理エリアで仕事をしているときとは別人のような、心許ない雰囲気だ。
「大丈夫か? 大変だろうが、こういうときこそ、補佐である君がしっかりしなくてはいけないんだ。私もアキをまだ探してみるから、ショウも頼む」
 それだけを言うと、彼はまた慌てたように、全速力でアキの部屋から駆けていった。
「アキが、居ない」
 部屋に残された直筆の、アキのメッセージが脳裏を駆け巡る。
 居ない? 何故? どうして、私が管理者に。
 ぐるぐると、疑問だけが頭の中を支配する。理解できなかった。この状況すべてが、どこか違った世界の出来事を垣間見ているようで、ふわふわと現実感がない。どうして。
 いままでの、アキとの出来事が、次々と頭の中に浮かんでは消える。
 初めてであったときのこと。
 暖かい大きな手。
 いつもは冷たい顔が、ショウに対するときは、優しく微笑んでくれること。
 あこがれだった、古い雰囲気のアキの部屋。ほとんど記憶にない、家族を思い出すような優しいあかり。
 なにが起こったのか、どういう状況に置かれているのか、それすらもわからないまま、ショウはふらふらと、アキの部屋を出た。

 夢も現実も区別が付かないまま、ショウはアキの行方を捜してさまよった。一年、そばにいるうちに把握していた彼の行動、行きそうな場所。どこかに隠れているのでは、とか悪い冗談なのではという気持ちが、まだ消えない。でも、アキに限って、そんなことをするはずがない。いままでも、姿が見えないことはあったが絶対にわかる場所にいたし、無駄に混乱を起こすようなことは絶対にしなかった。
 でも、みつからない。
 どこにも、居ない。
「アキ」
 糸の切れた人形のように床にくずおれる。あまりに突然すぎる出来事に、涙も、出なかった。


 気を取り直して、情報管理エリアのメインルームに戻ると、そこは蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。無理もない、管理者不在という異常な事態なのだ。
 ファイルをひっくり返してなにかを調べている者。
 不安で泣き叫んでいる者。
 冷静を装ってはいるが、細かな震えが止まらない者。
 生気のない瞳でぼんやりと入り口に立っていたショウを、メンバーが見つけるた。メンバーは、救いを見つけたとでも言うような様子で、ショウに駆け寄った。続けて、わらわらと他のメンバーもショウの元へと寄ってくる。
「ショウ! アキは見つかったか? いったいどこにいるんだ? 私たちはどうしたらいいんだ?」
「ねえ、なにがあったの? これはどういうことなの?」
「ショウならアキのこと、よく知ってるでしょう? お願い、説明して」
 口々に自らの思っていることをショウにぶつけた。
 ショウは、変わらず光のない瞳で、答えない。
「ショウ! しっかりして!」
 誰かが声と共に、肩を揺さぶった。それでようやく、ショウは自分がどこにいるのか思い出した。ひとつ、息をついて心を落ち着ける。こうしていても仕方ない。
「私にも、わかりません。アキの部屋に、報告をするために向かったら、もうすでに、そこには居ませんでした。心当たりの場所も探しましたが、どこにも、見あたりません。ただ、」
 アキの部屋にあった、あの、ショウに管理者の座を譲るというメッセージ。それを公表したものかと口ごもる。いままで以上に混乱するということは、目に見えて明らかだ。姿が見えない上に、あのような知らせがあったというのなら、それはまるで、あらかじめ準備されていた事象のようではないか。
「ただ、現時点での、Egg Shell内での公表は避けましょう。現状を把握しないまま、無駄に混乱を起こすことは得策ではありません。この件に関しては、厳重な箝口令をしきます。どうか、お願いします。現状を把握できたら、まず皆さんにお話ししますから、少しだけ時間をください」
 それだけがとっさに口をついた。無意識に浮かんだ、それは多分、管理者補佐という職務に忠実な言葉だろう。
「それから、各部門責任者の皆さん。相談したいことがあるんです、この件に関して。アキの部屋まで、一緒に来てもらえますか?」
 ざわめくメインルームをそのままに、ショウはもういちど、アキの部屋へと向かった。ふらつくショウの後を、とまどい気味に幾人かが追う。


「ショウ、相談したいこととは?」
 薄暗いままのアキの部屋にたどり着くと、着いてきたひとりがショウに声をかけた。
 ショウは、振り向いてどう答えたものかと口ごもる。とっさにあんな風に言ってしまったが、特に具体的なものがあったわけではなかった。
「ショウ?」
 焦りと、そして気遣う調子を込めて、メンバーは声をかける。さっきから、ふとした拍子に考えの中に埋もれてしまう。それではいけないと軽く頭を振り、気を取り直したようにここに集まったメンバーを見つめた。
「これを、見てください」
 部屋の明かりをつけ、アキからのあのメッセージを見せる。いったいなんだろうと疑問に思いながら読み進める皆の顔が、次第にこわばっていった。
「これは……」
 皆一様に、信じられないという表情になる。いったい、どういう意図でこんなものを、あのアキが書くというのだろう。
「私がアキの部屋を訪ねたとき、この部屋には誰もいませんでした。そのかわり、その紙が、アキの机に」
 これが端末内に入力された文書だったり、単なるプリントアウト用紙だったらどんなに良かっただろう。誰かのたちの悪いいたずらという可能性だってあるのだ。けれど。そんな淡い期待をうち砕くかのようにそれは紛れもない、アキの直筆。身近にいる者なら見間違うはずのない特徴的な筆跡。
「これではまるで、予定されていたことのようじゃないか……」
 誰が呟いたのかはわからない。だが、ここにいるすべての者が、皆同じような気持ちだった。
「だから、なんです。どうしてアキが、こんなものを書いたのか。どうしていなくなってしまったのか。みんなわからなくて。これから、どうやっていけばいいのか、それを、相談したいんです」
 管理者直轄である情報管理エリアは、同時に、Egg Shellの中枢でもあった。だからこその頭脳もそろっている。
 ショウの言葉にとまどいを隠せず、皆顔を見合わせる。そのうちのひとりが、考えながら言葉を口にした。
「ショウはどう考えている? 管理者が決断を下せないときには補佐である君に決定権がある。君はどうだい? このメッセージのように、管理者の座に就くのか?」
 その言葉に、急に自分の肩に重荷がのしかかってきたような気がして、一瞬、ショウは気が遠くなる。そう、自分は補佐なのだ。こんな事態が来るなんて、夢にも思わなかったけれども、もしも来てしまったとき、アキの代わりにならなければならないのは自分なのだ。
 ずっとずっと、補佐とは言ってもアキの支えになる、それだけで十分なのだと、思っていた。
 そして、思わず「私なんて」と言ってしまいそうになり、慌てて口を押さえる。苦笑する。もう絶対に言うまいと決めていた言葉だから。
「私は、管理者はアキ以外いないと思います。私に力があるとかないとか、そういう問題ではなくて、Egg Shellをまとめるのは、アキ以外にいないと思っています。アキ以外の誰が代わりになってもEgg Shellはきっと成り立たない、それくらいに」
 十三年もの間、この卵を守り続けてきた親鳥に対する、雛のような気持ちに等しいのかもしれなかった。まだ、巣立てる状況ではない。飛び立つための羽根は、まだ生えそろっていないのだ。
「だから、私は、管理者の座を継ぐつもりはありません。少なくとも、いまのところは。それよりは、アキの行方を捜すほうが先です。アキがいなくても、それがわからないように、しばらくなら、しばらくの間なら、なんとかできます」
 ショウの言葉に、皆頷く。アキ以外では成り立たないと思うのは、皆同じだった。アキのいないEgg Shellなど、想像もつかない。
「そう、だな。まず、アキがどこに行ったか探さないと……。しばらくの間なら、私たちの判断で動くこともできるだろう。その間に、なんとしても探し出さないと」
「だが、アキしかわからないもの、たとえば各リーダーへの伝達や調整などはどうする? そこからわかってしまう可能性はないか? 判断で動くといっても、限りがある」
「しかし、どうしようもないだろう、現にアキはいまいないんだ。私たちがなんとかやっていくしかない」
 不安を漏らすメンバーもいる。その意見も、頷けるものがあった。果たして、それでどこまでやれるのだろう。
「その件に関しては、私がやります。そばで、アキの仕事を見ていて、把握しています。アキの設定したパスワードなどはわかりませんけれど、それを必要とされる仕事は、いまのところないと思いますから」

 暗い部屋に滑り込み、ショウは手探りで灯りをつけた。見慣れた自分の部屋だ。ショウは入るなり、音をたててベッドに倒れ込む。
 対応に追われてしまったせいで、部屋へ戻るのは久しぶりだった。仕事をしているときは疲労などまったく感じなかったのだが、こうやって緊張を解いてみるとどっと疲れと眠気が押し寄せてくる。
 このまま寝てしまうと、服がぐちゃぐちゃになってしまう。そう考えて、体を引きずるようにして立ち上がった。シャワーでも浴びようかと思い、はっきりしない意識をしばらくの間でも覚醒させようとする。シャワーを浴びているときに眠り込んでしまったら、洒落にならない。
「もう、散らかりすぎ……」
 立ち上がった拍子に、置きっぱなしにしたファイルの束が、机から音をたてて落ちた。ため息をついて、拾い集める。と、机の上に、見慣れないディスクを見つけた。少なくとも、自分がおいた物ではない。ディスクは、情報管理のメインルームにしか置かないことにしていたのだ。
「なにかしら」
 ディスクを手にとってみる。ケースに挟まっていた小さな紙が、それと同時にはらりと落ちた。床に落ちたそれを、拾う。なにかが書いてあった。
 ──ショウへ
 そんな文字が、まず目に飛び込んでくる。見覚えのあるアキの、文字。
「嘘、なんで、こんなところに」


 ショウへ

 これを君が手に取る頃には、すでに私は姿を消していることだろう。突然のことで驚かせてすまないが、Egg Shellをよろしく頼む。
 管理に必要なパスワード、手順、データはすべて、このディスクと私の端末に記載してある。困ったら見るといい。
 私以外に管理するものが居ないなどと言わないように。この卵は、すでに私の手を離れてもいい頃だ。私に遠慮などせず、君がこれから、導いていってくれ。
 君はきっと有能な管理者になる。見守っているよ。

 アキ


 ぱたりと、涙が落ちた。インクがにじんで、紙の上に広がる。それではじめて、ショウは自分が泣いているのだということに気がついた。いままで張り詰めていた気持ちが急にゆるんでしまって、抑えが利かない。
 アキがそばにいない。
 そんな現実がやっといま、身に迫って。
 声にならない声で、ショウは、泣いた。