3.


 長いエレベーターに乗り込むと、ファムはコントロールパネルを操作しはじめた。ハルがどこへ行くのかと問いかけても、答えを返すことはない。
 このまま、居住・管理エリアへ向かうかと思われたエレベーターは、ファムの操作の為か、途中で動きを止めた。最後にひとつ、強くキィをはじくと、扉が重い音をたてて開いていく。
 その向こうに広がるのは、ケーブル類の集まった機械群ではなく、広い空間。立ち並ぶ端末、大きな壁面ディスプレイ。まるで管制塔か司令室のようだ。
 ハルの反応を楽しむかのように見ていたファムは、『誰か来たのか』という誰何の声に気づくとハルを奥のほうへといざなった。
「いらっしゃい。あなたの求める答えをあげるわ」


「誰って、あたしに決まっているでしょう。ここはあなたとあたしくらいしか場所を知らないんですもの」
 声をかけつつ奥の部屋へと歩いてゆく。ドアが開くと、そこはなんとも古めかしい調度品で満ちていた。誰かが古い樫の机の奥で、端末を操作している。聞き覚えのある声に、ハルは自分の耳を疑った。
「つれてきたわ、やっとね」
 ファムの声に顔を上げたのは、管理者アキ。
 彼女の横に立っている人物を認めると、アキはふ、と瞳にランプの明かりをきらめかせ、冷たく微笑んだ。
 無言のまま見つめ返すハルに、なおいっそうきつい視線を一瞬、向けたあと、アキは立ち上がった。部屋をぐるりと見渡し、ハルのほうへと歩み寄る。
「ここはEgg Shell開発当初からのシークレットルーム。本当の意味でのEgg Shellの中枢だ。あらゆる機材がそろっているし、通信手段も脱出手段もある。来るべき日のためにね」
 話が核心に触れないことに、ハルは一瞬声を荒げそうになる。いったいなんのためにここへつれてこられたのだ。
「意味のない言葉は必要ありません。以前僕に送ってきたメッセージ、《Egg Shell解放計画》の意味について教えていただきましょうか」
 さらになにか言葉を連ねようとしたアキの言葉を遮って、ハルはいままで、誰に対しても使ったことのないような、冷たい怒りを含んだ声でそう言った。

 ハルとアキの視線が再び重なる。先に目を逸らしたのはアキのほうだった。口の端を歪め、苦笑ともため息ともとれる声を漏らす。
「君がそれにこだわる理由はもしかして、最後の署名のせいか? 図星のようだね。君についてはファムから聞いたよ。まさか、ね」
 幾分含むところのあるその言葉は、ハルの頭に血を上らせるのには十分だった。
「僕はとうに、関わりを捨てたんです。なにもかも!」
 普段の彼らしくない大声で、アキへ怒鳴る。忘れ去りたい過去がまるでシャボンの泡のように次々に浮かび上がって割れる、よみがえる。
「本当にそうかしら? 捨てたのならそんなに取り乱したりはしないものよ。それに、簡単にこんな所まで付いてきたりしないわね」
 くすくす笑いを隠さないファムが、靴音をたてて歩み寄り、ハルの顎をつい、とあげた。ただならぬ雰囲気に恐怖を覚え、身を固くする。切られそうなほど、視線が痛い。
「わかっているはずよ。『あの人』の思い、願い。それを実現させるために、あたしはここにいるの」
 鋭い瞳で、なおもハルを見つめるファム。何事にも揺るぐことのない強い光がハルを射る。彼女の『あの人』と発音するときの、少女のような甘さを残した声とは裏腹のそれに、薄ら寒さを覚える。視線から逃げるようにハルは、アキへと意識を移した。

「もし本当に、この計画に『彼』が関わっているというのなら、何故アキ、あなたがここにいるんです? 多くの人間が、あなたの父上が誰よりも憎んだ人物です。それを知らないわけではないでしょう。ましてや、あなたはEgg Shellの管理者なんです。住人みんなを危機にさらすつもりですか? 『彼』の計画に乗るとはそういうことです。『彼』はヒトという種族自体をを憎んでいます。自分さえも。ヒトを消し去るのが望みなんです」
 当時すでに、夕代博士の後継者として目されていたアキである。知らないはずはなかった。『彼』の所行、なにもかも。
「ハル。絶望は人を変えるんだよ」
 そう言うなり、アキはばさりとプリントアウト用紙をハルのほうへと投げ出す。年代物の雰囲気を残した机に広がった紙は、そのままハルのほうへとすべっていった。紙の上に散らばる文字がかすかに読める。
 ――通信記録。
 警戒を解かないままのハルが、その一枚に目を通した。文字を目で追う内に、表情が厳しくなる。息を呑む音が、静かな部屋に響いた。
「もうすでに誰も、誰も、外の人間は居ない。多分、十一年も前にね」
 追い打ちをかけるように、アキが真実を告げた。

「それは、どういう……」
 答えは、言われなくてもわかっていた。とうとう、破局が訪れたのだ。『彼』は思いを遂げたのだ。いつかくるとわかっていたはずのそれだったが、信じたくない気持ちでいっぱいだった。
「わかるかい? 十一年もの間、帰るべき場所がなくなったことを隠し続けてきた気持ちが。いつか帰るためにEgg Shellは存在しているはずなのに、その場所は、もうどこにもないんだよ」
 Egg Shellを統括する最高責任者であり、誰よりも頼れる人物であるはずのアキの瞳に浮かぶものは、置いていかれた子どもの絶望の色。
「帰ることができないのなら、大切な人たちがもういないのなら、壊してしまったほうが楽だと思わないかい?」
 あまりに子どもじみた、狂気の色。
 そのあまりの深さに、ハルは言葉を失った。

「そして、あたしと出会った。『あの人』の意思を継ぐあたしに。それからのアキの行動はすべてカモフラージュよ。大事の前のね。ショウを補佐に任命したのも、そして、必死に隠しているみたいだけど、ショウを次期管理者に指名して彼が表舞台から姿を消したのも」
 アキの言葉の後を、ファムがひきつぐ。微笑みとともにハルに視線をおくった。
「苦労したわ、あたしの力だけでは計画を続行させることなんて無理に等しかったもの。やっと探し出したはずの協力者に裏切られてから、大変だったのよ」
 それから、アキのそばに寄り、腕を滑り込ませ言葉をつなぐ。
「でも、Egg Shell管理者が協力してくれることになったのだもの、成功は間違いない。これでやっと叶うのよ、永遠の夢が」
 永遠の夢。『彼』が願った恐ろしい夢。
 ヒトを、この惑星から消去する。ヒト以外の楽園にこの地球を戻す。
「だからね、ほかでもない『あの人』との繋がりを持つあなたにも協力してほしいの。それが『あの人』の希望でもあったのだもの」
 ファムから紡がれる言葉はそのまま、『彼』の言葉に重なって、ハルの傷を刺激する。乗り越えられぬままの高い壁となって、彼の道をふさいでいた。
 ハルの周りから音が消えてゆく。代わりに増幅してゆくのは激しい怒り。

「そんな馬鹿げた思想に、誰が協力なんかするものか! すべてを無くしてしまうだって? そんなことをしてなんになる。失われたものはもうかえらない、なら進むほうが先決じゃないのか? 逃げてばかりではなにも変わらない。だからEgg Shellという機会を僕たちは与えられたのに、やり直すための時間を手に入れたのに」
 穏やかな表情はかけらも無く、触れたら切れてしまいそうな雰囲気を身にまとわせるハル。忘れかけていた、本当の自分。管理者に対するという建前上、使っていた丁寧な語尾も消えていた。
「アキ。本当にそれがあなたの望みなのか? あなたの父上の夢、すべての人の願い、それをすべて、無に帰してまでやるべきことなのか?」
 アキは気弱い瞳のまま、けれどしっかりと頷いた。すべて、無くしてしまえば、もう自由になれる。なににも束縛されることはない。父には叱られるかもしれないが、もう疲れてしまったのだ。

 ガシャン! 
 アキが頷くとともに、部屋のランプが割れた。はらりとプリントアウト用紙が宙を舞う。
 ランプをなぎ払ったハルの手は、ガラスに傷つけられ赤く濡れていた。
「あなた方がそのつもりなら、僕はそのことをEgg Shell内に公表する。あなた方の計画を、止めてみせる。絶対に。『彼』の思い通りになんて、絶対にさせない」
 滴る血をそのままに、くるりときびすを返す。そのハルの背後に、ファムの声が掛かった。からかいを含んだ調子が耳につく。
「アキはいまでもEgg Shellの管理者よ、精神的にね。果たして、あなたの一言でどれだけの人が心を動かされるのかしら。それに……あなた、自分から正体をばらすつもり? そもそもの原因を作ったはずの『あの人』の関係者だって、自分から。あなたの周りの人は、どう思うのかしらね?」
 エレベーター付近まで来ていたハルが、その言葉に歩みを止める。振り向いた彼の顔には、苦悩の表情が浮かんでいた。
「卑怯な……」
「あなたしかわからないものがあるの。いまでも『あの人』はあなたを一番愛してる。ちょっとした嫉妬よ」


「お帰りなさいハル! どこに行ってたの?」
 すでに明かりが落とされているかと思っていた自分の担当エリア、居るべき場所。そこにはまだ、あたたかい光がついていて、疲れ切ったハルの心をほっとさせた。
 ハルの気配に気づいたメイが、明るく出迎える。いつも変わらない笑顔が、泣き出しそうな気持ちに拍車をかける。
「急に出かけたりするからみんな困ってたわよ? もう急に出てったりしないでね。……ハル?」
 お茶の準備だと棚からポットを出し始めたメイは、ハルの様子がいつもと違うのに気づく。なにかを言いたそうに、でも迷いが口を塞いでいるようで、言えない様子。雨の中で濡れている、捨てられた子犬のようだとメイは思った。
 首をかしげたメイに、突然、ハルの体が重なる。きついくらいに抱きしめられて、思考が停まった。続いて訪れる驚きと、恥ずかしさ。みるみるうちにメイの頬が紅く染まっていく。もしかして、これは愛の告白なのかしらと淡い期待が胸のうちに生まれた。

「やだ、どうしたのハル? ねえ、いきなりなによ、こんなところで」
 しかしハルは無言のまま、小さく肩を震わせている。まるでなにかに耐えているかのような彼の姿は、メイが期待していたような、甘いものとは程遠い。
 迷子のようなその姿に、メイはため息をついてハルの肩をやさしくたたいた。なにがどうしたのかはわからないが、落ち着いてもらわないことにはどうしようもない。期待に膨らんだ胸が、少し痛んだ。
「ハル、ねえ、お茶を飲みましょう? 少し落ち着くと思うの。そこに座って。……どうしたのその手! 怪我してるじゃない。どうしてそれを早く言わないの! 救急箱、どこにあったかしら……」
 ハルの白衣の袖が赤く血に汚れているのを見つけたメイは、あわててあたりを引っ掻き回し始める。
 その様子にやっと、ハルはその硬い表情を和らげた。
 ――帰ってきた。
 かすかな息と共に、憂いを吐き出す。果たして自分は、なにをすべきなのだろうかと。


 激しさを増す風の流れを、止めるべきなのか、加速させるべきなのか。
「あ、あったわ! ……もう、こんな傷どこで作ってきたのよ。結構深いわ」
 救急箱を抱えて戻ってきたメイがハルの傷の手当てをはじめる。消毒薬の痛みが身に染みた。
 顔をしかめて痛みに耐えながらハルは、過去と未来に思いを馳せた。