7.


「最近、どうだ?」
 久しぶり、と挨拶をしたはいいものの、あんなケンカ紛いの別れ方をしただけに少し気まずくて、ヒロはあたり障りのないことから聞いていく。それに、ショウの管理者補佐就任という知らせを聞いたとき、彼はとてつもなく驚いたのだ。だから、いまの彼女の状態が、ひどく気にかかる。いつも(ヒロに対する反応は別として)自分を表に出すことのないのが彼女の常だったから、彼女には到底無理な仕事だと、ヒロは思っていたのだ。時折耳にするショウに関する噂があまりよいものではなく、それも心配なことだった。
「なんとか、ね」
 対するショウはいまはそんな会話にのんきに心を委ねる暇は無かった。うまく行かない自分自身にいらいらして、どうにもならない。それに、ケンカ相手であるところのヒロにそんな自分の内面をさらすなど、ショウには恥ずかしくて到底できなかったい。どうもすっきりしない気分で、めまいも感じる。いまは誰にも会わずに、ただ眠りたかった。

 あきらかに作り笑顔で答えるショウに、それがなんとかねって顔かよ、とヒロは心の中で毒づく。現に、彼女の表情は思いつめた者のそれで、ずいぶんと精神的疲労がたまっていることが、はっきりと見てとれる。彼女が、強がってばかりでなかなか心のうちをさらけ出さないということを、ヒロは長い付き合いの中で悟っていた。だからこそ、なにか声をかけたやりたいのだが、長年の習いは恐ろしいもので、彼女に対して素直になれない自分がいる。
 口をついて出るのは、からかいやぶっきらぼうな言葉だけ。ついつい、そんな反応ばかりかえしてしまう。
「素直じゃねーんだから、まったく。それがなんとかやってますって顔か? 死にそーな笑いなんか浮かべやがって。もう少しマシな反応はないのかよ、マシな」
 ショウの前髪を乱暴にかきあげて、ヒロは軽く頭を小突く。
「もう、なにやってんのよ、ヒロの馬鹿! 大丈夫だっていったら大丈夫なの。変に勘ぐったりしないで! 私は、アキのそばで仕事できて、これ以上はないってくらい充実してるんだから」
 確かに、ショウにとってアキのそばというのはこの上ない環境であった。だが、精神的に無理を強いられた場所であるのは間違いない。各エリアの連携、現状把握。いままでとは比べものにならないくらいほど扱う仕事が増えている。正直いってとても辛い。でも、そんな気持ちをヒロに見破られた気がして、つい、また強がってしまう。
「アキも、他の皆さんも、とってもすごい人たちだし、だから、私には分不相応なくらいの待遇で」
 アキ以外の人も確かにすばらしい。なにしろEgg Sellの優柔な頭脳を集めたところなのだ。心なしか距離を感じても、それは仕方がないし、当然のことかもしれないと心の中で思ってもいた。ショウ自身、そのような存在に対して、無意識に壁を作っていたのかもしれない。そう、あの日、自分たちと才能のある者たちの間の深い溝に気づいてしまってから、特に。


「いい加減、やめろよ、それ」
 ショウの言葉に、ヒロはいらいらした口調で答えを返す。いつものショウの口癖。十分良くやれているはずなのに、萎縮してしまって自分の価値に気づいていない。自分に接するときやメイやハルに接するときは、遠慮無く、ときには鋭い意見をぽんぽんと出して驚かせるのに。
「え?」
「俺たちと、お前と、いったいどこが違うっていうんだよ。いい加減に、自分を価値のないものだって言うのはよせ」
 言葉を探しながら。それでも、心に浮かんだ思いを止めることはできず、ヒロは感情を表に出し始める。
「いいか? 十二年前に決められた尺度なんて、所詮そのときのものでしかないんだ。人は変わる。どんどん成長する。コンピューターが選んだだの、人が選んだだの関係ないほどにな。いつまでも十二年前の気持ちでいるなんて、正直、馬鹿げてる」
「やだ、ヒロ、言ってる言葉の意味がわからない」
 いきなり、彼はなにを言い始めたのだろう、そんな気持ちで、ショウは聞き返す。ヒロが軽く舌打ちをしたのが聞こえた。
「ショウ、俺だって、他の奴らだって人間だ。選ばれたかどうかなんて関係ない。普通の、な。なのになんだ? 誰も彼も、スタートラインが違うと、ずっと違うなんて思いこみやがって」
 それでも、ショウは。彼がなにを言おうとしているのか、その真意を量りかねていた。
「関係ないわけないよ。だって、才能のある人たちはみんな、はじめから自分の居場所を持ってる。それに、私たちが敵うわけ、ないじゃない。だからやっぱり、違うの。ふたつの間は、越えられない。だから、羨まし……」
「そうじゃない!」
 ばん! 
 ショウが言葉を続けようとしたのを遮って、ヒロは壁を拳で叩いた。音が辺りに響く。それと同時に放たれた言葉も、いつもの真剣味の足りない彼の声ではない。
「ヒロ?」
「ショウ、お前にはわかるか? こだわることが生み出す不幸ってやつが。選ばれたから、優秀だからと表でもてはやされ、その裏ではやれて当然だからとプレッシャーをかけられて。俺よりよっぽどできるやつだって、俺は選ばれてる、そいつは違うって理由だけで、勝てずに諦めたり、恨み言を言われたり。そんなののどこに希望がある? 居場所がある? こんな小さな卵の中で、そんな些細な違いで争って、いったいどうするっていうんだよ! 選ばれたの選ばれないのって、そんなに重要なことか?」
 そこまで一気にまくし立てると、大きく息をつく。興奮したせいか、呼吸が荒い。
「争いから逃れるために、一緒になって生き延びるために、みんな大切ななにかと引き離されて、泣く思いまでして。それでここに集められたっていうのに。外の争いとは無縁のはずのこの場所で、なんで同じような争いが起きるんだ? これじゃまるで、外の縮図じゃないか……!」
 ヒロの激しい怒りの心、それに触れ、ショウは思わず逃げ出したいくらいの恐怖と混乱に襲われた。いつも不真面目に見え、ショウをからかっていた彼はどこに行ったのだろう。こんな考えを持っているなんて、いまのいままで夢にも思わなかった。はじめて見る彼のまじめな顔、鋭い視線に射すくめられる気がして、怖い。

 でも、彼がなにを言わんとしているのか、それが少しずつ、わかりはじめてきた。小刻みに震える自分をなんとかだまして、精一杯の反論を試みた。
「やっぱり、私、選ばれたっていう事実はとっても強いと思うの。それに勝てっこないって思う。だって、ずっとそれが普通のところで生きてきたんだもの。だから、ヒロの気持ちが良くわかるなんていえないんだけれど。でも、お互いにきっと壁、作っちゃってたんだね。壊そうと思えば、越えようと思えば簡単なのに、怖くってできない、そんな」
 ショウのように、選ばれた人に対して身構えてしまったり、うち解けられないから『自分は特別なんだ』と思わずにはいられない、情報管理エリアのメンバーだったり。
「本当に、些細なこと、なのかもしれないね」
 ショウの周りにいる友人たち。居心地が良かったのは、きっとみんな、そんなことを気にしていないからだ。壁なんて、そもそも無いものだと思っているからなのだ。
 少し沈んだ、かすかに涙混じりのショウの声に気がつき、ヒロは慌てる。
「すまん。少し、言い過ぎた。だけど、大切なことだと思うんだ。これから、新しい世界を作ってかなきゃならないはずの俺らが、こんなところで争ったり仲違いしてちゃ、意味がない。こんな小さな世界でこれなら、外に出たら目も当てられない状況になると思わないか? だから、そんなこと気にすんな。お前はお前で、良くやれてんだから」
 先ほどまでの激しさを、できるだけ抑えて話すヒロ。ショウはやっとの事で彼を見上げると、ゆっくり頷いた。
「うん、そうだね、本当に、そうだよね。ありがとう、ヒロ」
 まだ悩みは消えない、けれど、いままでのような暗い気持ちは、もう捨ててしまおう。
 視線を交わし、ヒロはにっ、と笑う。いつものいたずら小僧のような顔が、ショウに安心を与えてくれた。
「よし、だったらいい機会だ、ちょっとつきあえ」
 そう言ったかと思うと、ショウの手首を掴んでくるりときびすを返す。居住エリアのほうへと歩き始めた。引っ張られる格好になったショウは、慌ててヒロに問いただす。
「ちょっと、いきなりなによ、どこ行くの? 私、自分の部屋に戻りたいんだけど」
 ヒロはショウを引っ張ったまま、ショウの部屋とも、彼自身の部屋とも違う方向へと進んでゆく。
「うちのスタッフルーム。確かまだ、リアリィのクッキーが取ってあったはずだ。それとも、行きたくないか? 行きたくないってんならありがたくクッキーは頂戴するが」
 振り向かずに声を投げるヒロ。きっといたずらっぽい笑みを浮かべているに違いない、とショウは思う。
「行くわっ。私、もう半年もリアリィのお菓子を食べてないんだもの」
 リアリィのお菓子と聞いて、行く気になったらしいショウが、掴まれた手首はそのままに、ヒロに並ぶ。
「独り占めはさせないわ」
 横目で見やりながらそう言うショウに、ヒロは思わず吹き出した。
「なによっ」
「やっぱりお前はそうしてるのが一番だよ」
 ぽんぽんと頭を軽く叩きながら、まだ笑いをおさめないヒロに、ショウはくってかかる。
「なんですって、そんな、子ども扱い……しない、でよ」
 安心したからだろうか、突然ゆらりと視線が傾いだ。忘れかけていためまいが襲ってくる。
「ごめ……なんか、おかし……」
 襲ってくるめまいと不快感に、自らを支えることができず、ショウは平衡を失う。異変に気づいたヒロが、彼女を倒れ込む寸前で抱きかかえる。
「ショウ? おい、しっかりしろ、おい」
 肩を揺さぶられながら、ショウは、意識が急速に闇に落ちてゆくのを感じた。


 目を開けると、ぼんやりと白い光が目にはいる。意識が覚醒していくにつれて、自分がどこにいるのかがはっきりとわかってきた。
 立ち並ぶ医療機器に薬のにおい。居住エリアにあるメディカルセンターだ。
 ベッドの上から辺りを見回すと、心配げなヒロの顔が見えた。目覚めたショウに気づいて、ほっとしたように笑う。目覚めたことを知らせるためのコールを押すと、ショウにとっては聞き覚えのある声で、「いま行くわ」と聞こえた。


「疲労よ、疲労」
 カルテを小脇に抱えた褐色の肌の女医は、部屋に入るなりそう言った。長い黒髪をはねのけて、ショウの脈をはかる。カルテにチェックを入れると異常なし、と呟いた。
「やっぱり根詰めてたな、お前。いきなり倒れるから何事かと」
 ベッドの上に座り、足を組んでヒロは言う。そんな彼を一瞥して、女医はおかしそうに笑った。
「ショウ、あんたにも見せたかったわ、こいつのあわてふためく顔。もう、おっかしいったら」
「あっ、こら、ファム! そんなことばらすな!」
 女医――ファムの言葉に、耳まで赤くするヒロを見やりつつ、この、昔から良くしてくれる彼女に、ありがとうと感謝を述べた。唯一の女医で、よく相談を持ちかけたりもしたものだ。
「あんたも結構繊細だったのね」
 と、相変わらずのはっきりした物言いも懐かしい。


「ショウが倒れたと聞いたんだが!」
 開け放たれたままの部屋の向こうから、ずいぶんせわしい足音が聞こえたかと思うと、誰かが駆け込んでくる。
 ――はじめて見る、血相を変えたアキの顔。
「アキ!」
 まさかこんな場所に現れると思っていなかったショウは、驚いて身を起こす。
「あ、ああ、ショウ、そのまま寝ておいてくれ。気分はどうだ? なにかの病気か? どこか悪かったのか?」
 取り乱した様子で、手が上へ下へと落ち着かない。冷めた目でそれを見つめていたヒロがてめーのせいだと小声で毒づく。聞きとがめたショウが非難の色を帯びた視線をヒロに向けると一転、拗ねたような表情になる。
 ファムはため息ひとつついてアキを見た。
「確かにヒロの言うことももっともだわ。あんた、この子に無理ばっかりさせていたんじゃないわよね? 原因は疲労よ、ひ、ろ、う」
 挑むような視線に、おされ気味になるアキ。
「ファム、別にアキが無理を言ったとか、そういう訳じゃないの。私が体調管理を怠っただけなんだから」
 慌ててショウはファムの言葉からアキを弁護する。
「私も、ショウには無理をさせていないつもりだったのだが……。だがショウ、本当に辛いのだったらきちんと言いなさい。私も、注意してみていてやれなかったのかもしれない。済まない」
 そうやって頭を下げるアキ。ショウは赤くなり、しどろもどろになり慌てる。
「いえっ、あの、私、いままで気になることがあって、仕事についてすごく悩んでたんです。それでうまく体調管理もできなくて。でも、そんなこと悩んでたって仕方がないって思うようになったんです。色々心配おかけしたと思います。でももう、大丈夫です。私、がんばります」
 いままで、こんなに自信に満ちた彼女の笑顔を見たことがあっただろうか。明るい彼女の声に、アキもようやく安堵の表情を浮かべた。
「そうか。やはりショウ、君に仕事を任せて良かったよ。がんばってくれ」
「はい!」
 心の底から嬉しそうなショウを見て、面白くなさそうにヒロがそっぽを向く。
「がんばんな、少年」
 からかい半分に、ヒロにだけ聞こえる大きさでファムが言った。


「アキはこう見えて、人遣いは荒いし激しいところもあるからね。なにかあったらあたしに言うのよ」
 しばらく休み、歩けるようになったショウ。本人が少しでも早く仕事に戻りたがったため、渋々ファムは退室を承諾した。意味深な流し目をアキにやり、ショウの肩を抱くようにして言い聞かせる。アキにも、女の子は繊細なんだからねと釘を刺すのを忘れない。
 反論しようと口を開きかけたアキは、ショウの早く行こうという声に促され言葉を呑み込む。
「また後で話をしよう。私が君のところへ行くから」
 誰にも気づかれないようにファムの耳元でささやいた。先に行ってしまったショウとヒロを追いかけ、姿を消す。
「さて、そろそろ、なのかもしれないわねえ……」
 ファムの呟きも、誰に聞かれるともなく、空気に解けて、消えた。


 数日ぶりに姿を見せたショウに、情報管理エリアのメインルームは珍しいざわつきに満ちていた。メンバーの視線を受け、ショウは一瞬怯む。それでも震える足を勇気づけて、正面を見据えた。なるようにしかならないのなら、前向きにやるしかない。後悔しないように。ひとつ、心の中で頷くと、歩みを進める。頼まれた資料は、アキに自室に押し込められていたときにすでに仕上がっている。
 歩くショウに、はっきりと注視するものは少なかったが、皆、どうしても気になるらしく、ちらちらと視線を送る。その中を、ショウがわたり、ディスクを置いていった。
「遅くなりましたけれど、頼まれていたものです。私なりの改善意見をつけておきました。よろしければどうぞ」
 ショウの言葉も、以前のような自信の無さげなものではない。
 あっけにとられたメンバーは、なにも言わずにディスクを受け取ってしまう。
 少し後、ディスクを受け取ったメンバーの中から感嘆の声が漏れた。すっきりと整理されたデータ、そして鋭い視点で述べられた、改善意見。どれも、あの少々心許ない少女のものだとはどうしても思えない。
「ショウ、これは、本当に君ひとりで?」
 ひとりがショウの席へ赴き、尋ねてみる。
 ショウはそれに、にっこりと笑顔で答えた。
 その日、情報管理エリアははじまって以来のにぎやかさに包まれる。その中心にいるのは、まだ少しだけ、とまどいの見えるショウ。管理者――アキがそれを、入り口で見つめ、満足そうに頷いた。


 そして、一年。

 ショウは、アキの部屋へ向けて、しっかりとした足で進んでいる。これから、アキに、ずっと補佐をやらせてくださいと言いに行くつもりだった。前向きになってから、自分も周りも変わっていくようでなんだかくすぐったい。アキが苦笑しつつ、メンバーの興奮を冷ませていかなければならなかった日。あの日から、あんなに近づきがたかった他のメンバーとも気軽に意見が交わせるようになっていった。少しずつ、こうして進んでいけば良いんだ。そんな風に思えるほど。

 軽やかにチャイムを鳴らす。
「ショウです、入ります」
 いつも通り、そう告げた。この時間なら、アキは必ず自室にいて仕事をしている。一年そばにいて、アキのスケジュールはほとんど頭の中に入っていた。そのはず、だった。
 けれど。
「あれ、答えがない……。もしかして、留守?」
 それとも、小休止で眠っているのだろうか。そんな風に思って、もういちど答えがなければ出直そうとチャイムに手を伸ばす。
 ポーン。ポーーンッ。
 二回続けて。それでも、期待していたアキの声は聞こえてこない。
 そして仕事中はいつも鍵をかけているはずのドアが、静かに、音もなく開いた。
「アキ?」
 悪いとは思いつつも、開いたドアから部屋にはいる。灯りのついていないアキの部屋は、ひどく寂しく見えた。誰もいない、寂しい部屋。ただ、ディスプレイの光だけが部屋を照らしている。
「やっぱり、留守……」
 出直そうと立ち去りかけたとき、ディスプレイの光に照らされて、一枚の紙が見えた。そばに万年筆がある。古めかしいけれどと自嘲気味に笑いながら、それでも使っていたアキの愛用の品だ。
 アキの机の、古風なランプの明かりをつけ、ショウはその紙を手に取った。

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 本日をもって私、管理者アキはその座を退き
 補佐であるショウにその座を譲るものとする。

 これは決定事項として、誰の反論も受け付けない。
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 呆然とするショウ。その耳に、慌てたように駆けてくる足音が入った。アキの部屋に誰かが入ってくる。
「アキ!?」
 驚いて振り向くショウの目に入ったのは情報管理エリアのメンバーだった。彼は、ここにも居ないか、と焦るように言葉を漏らす。
「ショウ! いいところに。実は、アキの姿が見えないんだ。Egg Shellの、どこにも居ないんだ。頼む、Egg Shell全域にこのことが伝わるまでに、アキを探し出してくれ!」
 すべての音が、ショウの周りから消えていく。