6.


 不意に足がもつれ、盛大な音を立ててショウは転んでしまった。手に持っていたディスクや資料をすべて、床にばらまいてしまう。
「最悪……」
 泣きそうな気持ちになりながら拾い集める。心の中がもやもやとして気持ち悪かった。
 自分の周りのアキやヒロ、ハル、そしてメイでさえ、ここではとても必要とされている人間で、でも、ショウは違った。でも、みんな選ばれたとか選ばれてないとか関係ないかのように接してくれていた。そのおかげでショウは、自分を否定されているように感じることはなかった。だから大丈夫なんだと心のどこかで思っていた。ミリの言葉が胸に突き刺さる。なんて自分は甘かったんだろう。
 選ばれた人とそうでない人の間には、たとえようもないほどの深い溝があるということ。
 気づかない振りをしていたそれを、嫌でも見つめなければならなくなる。


「おせーぞ。どれだけ経ったと思ってる」
 ようやく気持ちを押し込めてヒロのところにたどり着くと、彼はそうやって文句の言葉をぶつけてきた。当然だ。あれからきっと大慌てで端末の中や資料ファイルの中を引っかき回し、休憩も返上して仕上げただろうものなのに、待てど暮らせどショウは現れなかったのだから。
 なにを置いても先に、と思ったのにと腹立たしい思いがヒロの顔にも表れている。
 
「ありがとう」
 手短に礼だけ言うとそのまま走り去ろうとしたショウを、ヒロはとっさに彼女の手首をつかみ、引き止めた。なんだかいつものショウとは違う気がしたのだ。
「やだ、放して」
「なに言ってんだ、そんな思い詰めた顔して。少し休んでけ。茶ぐらい出すから」
 ぶっきらぼうだけど、優しい言葉。
 いつもなら口げんかをしつつもつきあってしまうその言葉だけれど、今日だけは頷くことができなかった。
「余計な心配しなくていいのっ!」
 腕を思いきり振り切ってショウは走り出す。
 ひとり残されたヒロは空いた手をひらひらさせてショウの去った方向を見やる。かすかに舌打ちをし、肩をすくませる。
「せんぱーい、またエラーです! 早く来てくださーい!」
 スタッフルームから聞こえるルークの慌てた声に返事をし、小走りにスタッフルームへと消えていった。


 軽やかなチャイムの音が部屋に響く。
「ショウです、入ります」
 それに続いて緊張した少女の声がした。
「ああ。待っていたよ。どうぞ」
 部屋の主は足を組んで考え込んだ表情のまま、入室を承諾した。
 入ったはいいが、少女――ショウは固まったまま動けないでいる。なにしろ突然呼び出されたのだ。
「良く来てくれたね、まあ座って」
 部屋の主、アキが着席を促すが、ショウは落ち着かない。
「その、えっと、提出したレポートのことでしょうか、間違いがあったとか、足りないところがあったとか、それとも他の? ごめんなさい!」
 Egg Shellの十二年間の状況報告書、それは自分の気持ちと戦いながら仕上げた、アキから頼まれた仕事だった。
 いくら気分が乗らないからといってさぼるわけにもいかなかった。それに、、仕上げなければせっかく仕事を任せてくれたアキに申し訳ないと思い、滅入る気持ちをなんとか奮い立たせてなんとか仕上げたそれ。
 やっぱり仕事を受けなければ良かったと頭を下げる。
 頭を下げる彼女のそばで、椅子に座っていたアキは、一瞬ぽかんとして、それから堰を切ったように笑い出した。
「ショウ、ショウ、いったいなにを勘違いしているんだい? さあ、顔を上げて。レポートなら読ませてもらったよ、良い出来だった」
「え?」
 その言葉に、気の抜けた言葉を漏らすショウ。
「勘違いするのは君の悪い癖だね、ちゃんと話を聞くように。これから管理者の補佐をするときに、それでは困るからね」
 さらり、といわれたとんでもないことに、耳を疑い動きが固まる。
「アキ、いま、え……?」
「いま聞いたとおりだよ。レポートの出来も良かった。いままでの実績もある。人手が足りないこともあって、私の補佐を捜していてね。君を推したんだ」
 少しおどけたように片目をつぶってそう告げるアキ。
「ちょ……ちょっと待ってください! レポートだって各エリアから集めたデータをまとめただけですし、資料保管室の仕事なんて、そんな大層なものじゃありません! どうしていきなり管理者の補佐なんていう仕事に。ふさわしい人なら他にいます!」
 ショウにとって、アキから告げられたことは寝耳に水の出来事だった。優秀な人材なら他にたくさんいる。そう、選ばれた人たちなら。何故自分なのか、その理由がまったくわからない。
「からかわないでください、アキ。そんなこと冗談でも言わないでください!」
 こんなときに冗談なんて、アキらしくない。いつも彼の前では大人しいショウだったが、今日だけは我慢できなくて、それに、胸の奥にくすぶる選ばれた人とそうでない人の問題もあって、顔を真っ赤にして怒る。
「アキがこんなこと言うなんて、私、思いませんでした!」
 叫ぶと、きびすを返す。ショウの豹変に目をぱちくりとさせていたアキは、やっと我に返る。笑いをかみ殺しながら、引き止めた。
「ショウ、待ちなさい、冗談でこんなことを言う人間にはまだなっていないよ。本当のことだ。やはりその癖は直したほうが良いね、ショウ。まあ、私のもとで仕事をするうちに、おいおい直していけばいいか。明日から早速私のところに来てくれるね?」
「本当なんです、か?」
「もちろん」
 まだ信じられない気持ちで聞き返す彼女に、アキは笑って頷いた。
 しばらく考え込んだショウは、ようやく頷いた。このままでいても、きっとずっと暗い気持ちはついてきたままだろう。なら少しでも自分を変える努力をしたい。
「わかりました。一年、アキのお手伝いをさせてください。一年やって、私がふさわしくないと思ったら、辞めさせてください。それでいいですか?」
 一年と期限を決めたのは、ショウなりの覚悟。期限があることで、後がないと自分を追いつめる。
「わかった。はじめはそれでも仕方ないね。けれど、一年などとは言わせないよ。ずっと補佐をやってもらうつもりなのだからね、私は」


(ねえねえ、あの人? いま度補佐に抜擢されたっていう)
(そうらしいね。アキのたっての希望らしい。なんの特技があるんだろうね)
(僕の聞いた話では、特になにがあるというわけでもない、普通の人らしいけど)
(そういえば聞いたわ。彼女、進路を決めかねてここまで来て、結局アキの口添えでこのエリアに居座ることになったって)
 ざわざわ、ざわざわ。
 いつもは静かなはずのそこ、情報管理エリアは、いつになく多くの人の声で満ちていた。それもそのはず、なんの取り柄もない少女がこのシェルターの管理者補佐になったのだ。情報管理エリアでは、アキの補佐を捜しているという噂が前々からあったため、それは自分のことではないのかと、密かに期待していた者がたくさんいた。それなのに、実際に指名されたのは、いままでずっと資料保管室という閑職にいたショウという少女だった。だから、こんな反応も当然のことだった。
「紹介しよう。すでに知っている者もいると思うが、私の補佐をしてもらうことになったショウという。まだとまどうことも多いだろうから、みんな彼女を支えてやってくれ。他のエリアへの通達も近いうちにするつもりだからそのつもりでいてくれ」
「ショウです。まだ至らないこともあると思いますが、どうぞよろしくお願いします」
 勢いよく頭を下げるショウを、戸惑いがちのまばらな拍手が迎えた。


「ショウ! 頼んでおいた物はどうなった?」
「こっちも! 私が頼んでいたの、まだ届いてないわよ!」
 補佐とはいっても仕事慣れしていないショウはまだまだ下っ端で、アキの目があるときはそうでもないがそれ以外では、雑用ばかり頼まれていた。ただでさえ慣れないことばかりなのに、仕事は格段に増えて処理能力が追いついてこない。それに加えて、心の中に、まだくすぶっている劣等感が邪魔をする。
 いまのショウを支えているものは、アキが期待してくれている、アキが信じてくれた、という気持ちだけだった。


「アキ。補佐のショウのことなのですが。本当に彼女にやれるのでしょうか?」
 ショウが補佐となって半年後経ったある日。まだまだミスの続くショウに我慢ならなくなったメンバーのひとりが、アキにそう直訴しに来た。
「ショウがふさわしくないと?」
 アキは冷たい目で直訴しに来た人物を見つめる。射すくめられた彼は、それでもむっとした表情を隠さずに言った。
「彼女は到底、管理者補佐という仕事に見合う力を持っているとは思われません。もう半年もたつのに、ミスは続くし、仕事を覚えられない、自分の意見も言えない。これでは補佐という仕事は続けられないと私は……いえ、エリアの人間は思っています。いまはまだ補佐といっても情報エリア内の仕事しか主に担当していないようですが、もしシェルター全体の仕事を担当するようになったら……」
 恐ろしいことになります。彼の目はそう告げていた。
 静かに彼の言葉に耳を傾けていたアキだが、ひとつ息をつくとそれでも、という。
「彼女はあれで力を出し切ってしまったわけではないよ。まだまだ、周りに遠慮しているだけだ。彼女の力はここで終わるようなものではない。彼女は君たちが思っているよりも状況を把握しているよ。それを妨げているのは、むしろ君たちのほうではないのかな?」
 面と向かって他人を批判したことなどないアキが、嫌みともとれる言葉を言ったのはこれが初めてだった。それを聞き、ショウの成長を妨げているのではないかと暗に言われたように感じた彼は、はっと息を呑み、
「失礼いたしました」
 不満を残しつつそれでも視線に逆らえず、アキの部屋を去っていった。


 ショウは居住エリアへと続く長い廊下を考え事をしながら歩いていた。半年も経つのに、全然うまくいかない仕事に、やっぱりできない仕事だったのだ、とあきらめの気持ち半分、情けないという自己嫌悪の気持ちが半分。
 やればいいことはわかっている。状況もきちんと把握している、つもりだ。なのに、動けない。どうしても、他人の視線が気になって、思うようにいかない。
「なんでもうちょっと思い切れないんだろうなぁ」
 ため息が重い。いつアキに愛想を尽かされてもおかしくない状況なのに、彼は変わらずアキを信頼してくれている。君ならやれるという言葉は変わらない。それがいまは、心の支えと同時に重荷なのだ。

 考え込んでいると、急にぐらりと平衡を失い、ショウは床に倒れこんだ。
 ぶつかったせいなのか、痛む鼻先を撫でながら立ち上がったショウは頭を下げる。
「ごめんなさい! ちょっと上の空で、って、ヒロ!」
「いや、こっちも考え事を……ん? ショウか」
 互いに頭を下げたところで、声の主に思い当たり、思わず顔を上げる。
 エリア報告データを受け取ったとき、あんな別れ方をしてずっとそのままになっていたヒロだった。
 忙しくて、時間に追われて、結局半年も顔を合わせていない。
『久し振り』
 どちらからともなく、そんな言葉が漏れた。