4.


「待って下さいってば! 彼方博士、俺は!」
 大声を上げて研究室に入ったとたん、視界に入ったのはどこかへ電話をしている彼方の姿だった。慌てて口を噤む。だが彼方は、そんなヴィルトの姿にも気づかない様子だった。顔は強張り、宙の一点を鋭く見つめて動かない。いつもの柔らかい雰囲気を纏った彼とは、まったく違った。ひどく真剣な顔。ヴィルトも滅多に見たことはない。
「なんだって、Dr.ウインド!? ……くそっ、なんて事だ」
 珍しく声を荒げる彼方のただならぬ雰囲気をヴィルトも感じた。そして耳に入った『Dr.ウインド』の名に顔色を変える。
 Dr.ウインド。科学者たちの間ではその本名を呼ぶことさえ忌まわしいとされる人物のコードネーム。世界中の紛争の火に油を注ぐような真似をした――そしていまも絶え間なく新しい兵器開発をしているという――狂気の科学者だ。
 その所在は知れず、どこかに身を潜めて世界の滅びを望んでいるという。
「ああ、分かった。済まない……頼む」
 ため息混じりに受話器を置いた彼方は、顔を強張らせたままのヴィルトに気づいた。ヴィルトと同じように、自分の顔もずいぶんと険しくなっているのだろう。意識して気分を入れ替え、歩み寄る。ヴィルトはそのままの顔で問いかけた。
「彼方博士。Dr.ウインドって」
「情報が入った。大きな都市を丸ごと消滅させてしまうほどの威力を持つ兵器が、主要大国に送りつけられたらしい。いまはまだ使われる気配はないが……」
「なんですって!? それじゃあ!」
「最悪の事態、なのだろうな。もしかしたら、Egg Shellは間に合わないかもしれない」
 平静を装いながらも、その実、彼方は抑えきれないほどの悔しさを内に抱えているようだった。一言ずつ、自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。ヴィルトも、許されるなら叫びだしてしまいたかった。人に未来はないのか。存在することさえ許されないのか、と。
「そんな。間に合わない……」
 足下が崩れるような感覚。いままでやってきたのはなんのためだったのだろう。間に合わなければ意味がない。せめて僅かでも希望があるなら、と、この計画をたてたのに。
「ヴィルト、大急ぎで計画の見直しを。一刻も早く完成させなければ。一度なにか起これば、か細い糸の張り巡らされたこの世界が一気に崩壊してしまう。私たちのしてきたことが無駄になってしまう。頼む」
 間に合わないかもしれない。無駄になってしまうかもしれない。けれど、まだ先は分からないから、最後の最後まで諦めないで欲しい。強い光を宿した彼方の瞳がヴィルトを見据えた。
「……はい!」
 うたれたように背筋を伸ばし、駆けだしてゆくヴィルト。その後ろ姿がドアに消えてゆくと、彼方はなにも言わず拳を強く机に打ち付けた。積まれていた資料が、がさりと音を立てて崩れる。


「いったいなにを考えているんだ。そんなに楽しいのか、世界を滅ぼすのが……!」
 吐き出すように、ひとりになった彼方は憎しみの言葉を吐いた。
 どこの勢力に属するわけでもない。ただ力を求め、それをあらわすのみ。理解できなかった。なにをするつもりなのだろう。本当にこの星を破壊しつくしてしまうつもりなのだろうか。彼方には、ただ怒りの念しか浮かばない。
 顔を上げると、先ほど知らせをもたらした電話が目に入った。こうやって怒りばかりをつのらせているわけにはいかなかった。
「ファーレン財団ですか? ええ。彼方です。例の条件、呑みましょう。ですから……。はい。ありがとうございます。はい、ご令嬢は責任を持って。細かい資料はもうお送りいたしましたね。よろしくお願いします。では」
 これで資金の面は解決した。あとはこちらが精一杯努力をして、一刻も早く実行に移すだけだ。迷っている暇は、もうない。
 少し前に中断された計画書を仕上げるために、机へ体を向ける。書きかけの文章を少し消して、新しい文を書いた。


『人類存続のための巨大避難施設建設計画』

 立案: 夕代 彼方/ヴィルト・デア・アスリーグ/ミトル・ネイトア

 今日、我々の住むこの地球はきわめて危険な状況に置かれている。劣悪な環境に加え、近年激しくなった全世界的な紛争・それに伴い開発される強力な兵器の数々が我々の生命を脅かしている。
 我々は、ここに未来に希望を繋げるための計画を発動する。
 いま現在、地球上で最高水準の技術を用い、巨大地下避難施設を建設する。そこに入る資格を持つものは、穢れなき子どものみ。未来を担う子どもだけが、安全な場所で守られる。
 そこに、現在のすべての情報・技術・知識を封印し、もって現在から将来への架け橋とする。
 もし、最悪の事態が起こったとしても、かつてのこの世界が再現できるように、できうる限りの努力をすることを誓う。
 なお、この計画を『Egg Shell』計画と呼ぶ。すべてを卵の中に帰し、穢れなきまま眠らせて、新しい世界へのはじまりを導く存在となるべきもの。我々の希望が込められている。この計画が成功することを、切に願う。


「夕代彼方、か。どんな人だったんだろう。私たちをここに入れた人。確か、アキのお父さんなんだよね」
 ディスプレイに表示された文字の群。これが始まりなのだ。ショウには分からない。この計画書が世に出るまでに、いったいどんなことがあったのか。どんな人の、どんな想いが込められているのか。ただ、一枚の計画書があるだけ。夕代彼方やそのほかの立案者がどんな人となりであったかも、分からない。けれど、この短い文章に現れている想いは、なぜか分かる気がした。
「きっと、一生懸命だったんだよね。なにかを起こさずにはいられなかった人。会えるかな、もしかしたら。ここから出たとき、きっと迎えてくれるのは、この人たちなんだよね」
 もしも危機が去ったなら、この卵の殻が割れて外に出られるようになったなら。
 ほとんど記憶に残っていない両親にも会えるのだろうか。
「そうなったら、抱きしめてくれるのかな? お父さんとお母さん。そうなったら、きっと、嬉しいよね」
 突然浮かんだ考えに、顔がほころんだ。思いきり甘えたい。ほんの少しの記憶しかない両親。もう、周りが呆れるほど甘えてやると決心して、ふと我に返る。仕事は全然進んでいない。頼まれた仕事の、まだほんのはじめの所で止まってしまっている。ショウは、慌てていままでの想像をうち消した。
「いっけない! もう、全然進んでないじゃないの」
 頭をぶんぶん振って、顔を両手ではじいた。と。

「なぁにやってんだ? お前。いきなり大声出して」
 慌てて声のしたほうを振り向くと、入り口に寄りかかり、腕を組んでこちらを見ているヒロがいた。口の端を、面白そうにゆがめている。
「ヒロ!? いったいいつからそこにいたのよ!」
 がたんと椅子を蹴立てて立ち上がると、ショウはヒロに走り寄った。じっとヒロを見つめると、いきなりヒロはくすくすと笑いだす。
「お前って、ほんっと面白い……ああいや、そんなに睨むなよ」
 腹を抱えて、笑い転げるとしか表現できない様子のヒロに、ますますショウの目がきつくなる。
「ヒロ。いったいなによ。仕事してるときに押し掛けてばっかり! 今度は? また妙なことだったら、私、ただじゃおかないからね!」
「ショウ、また大声出すなよ。だから用事があるんだって。ほら、そんなむくれてると顔がそのまま固定されるぞ」
 ヒロが指をさすと、ショウは微かに頬を染め、取りあえず不機嫌な表情を引っ込めた。ヒロの笑いが下火になったと感じると、聞きなおす。
「ヒロ。いったいなんなの? 用事ってどんなことよ」
「あ? ああ、そうそう。リアリィが暇だからお茶会しないかだとさ。ハルやメイもいるんだが、来るか? 来ないなら来ないでいいんだぞ。そうすればリアリィお手製のケーキは俺のもんだからな」
「あーっ、行く行く! リアリィのケーキ、おいしいもの。取らないでよね。ヒロの胃袋ったら底なしなんだから」
「ちぇ。でもお前仕事は放ってていいのか? なあ、悪いこと言わないから仕事しろよ。お前の分までケーキ食ってやるから」
「そうはいかないわよ。仕事しなきゃいけないのはあなたも同じでしょ。毎日どこかでトラブル起きてるくせに」
 どうにかして自分の取り分を多くしようと企むヒロの言葉に、視線で訴える。
 たかがケーキ。しかし、このEgg Shellではされどケーキ、なのだ。緻密な計画の上に成り立っているEgg Shellでは、嗜好品であるところの菓子の類はそう頻繁に食べられるものではない。規制されているわけではないがシェルター内の不文律としてそうなっている。しかし、あるところにはあるもので、その場所のひとつがリアリィという女性のところなのだ。くわえて彼女の作る菓子は漏れなく絶品ときている。
「行くなら行くぞ。早く来ないと取っちまうからな」
「あ、待ちなさい!」
 大声をあげたショウは、一足先にときびすを返すヒロの後を追って駆け出した。


「まあ、ショウ、来てくれたのね、嬉しいわ。ヒロ、呼んできてくれてありがとう。さ、お座りなさい。お茶を入れるわね」
 ヒロを追いかけてゆくと、植物エリアに着いた。どうやら、今回は緑に囲まれてのお茶、ということらしい。紅茶の柔らかな香りが研究室の緑のにおいと混じり、心安らぐ雰囲気を作り出していた。植物は研究の関係上、エリア外にはほとんどないので、こういうことがないと余りお目にかかれない。子どもたちが花の種を蒔くということだから、これからは少しは触れる機会も増えるだろうが。
「リアリィ、今回も美味しそうなケーキね!」
「そう? ありがとう」
 微笑みながらリアリィは、芳香を放つ紅茶を注ぎわける。植物エリアに植えられている茶の木からしか生産できないので、純粋な紅茶も実のところ結構な貴重品だ。生の葉から作ったものは、そう多くない。それができるのは、ハルやメイと知り合いであることのひとつの特典とも言えた。
「お茶もちょうどいいわね。ふふ、じゃあケーキを分けましょうね」
 優雅な動作で、綺麗にデコレーションされたケーキを切り分けた。それぞれの皿にケーキがゆきわたる。


「あ、そうだ。こんなところで仕事の話をするのも変なんだけど、ちょっと協力して欲しいことがあるの。みんなの担当するエリアの、Egg Shell計画開始時からいままでのデータが必要になってね。情報管理エリアがEgg Shell計画の資料をまとめるんだけど、私が植物エリアと機械エリア、そして教育の担当になったの。だから、近いうちに協力をお願いしにいくことになると思うんだけれど……いいかな」
 話もだいぶ進んだ頃、思い出したようにショウが告げた。みんな和やかに話していたその場の雰囲気が、一気に変わる。目つきがその職に与る者のそれに変わっていた。
「データ、か。仕事の話は勘弁してくれ、って言ったってあの管理者殿の関連だろう? わかったよ。取りあえずこれ食べ終わったらこっちに来てくれ。いる物があったら取っていっていいから。おい、ルーク。ルーク?」
 空になった皿をトレイに載せて、リアリィに渡したヒロは、隣にいた人物に声をかけた。彼はヒロの部下で、呼ばれもしないのにちゃっかりとヒロにくっついてきたルークという名の少年だった。
 ルークはいまどういう状況なのか気づいていないのだろう、ぼうっと妙な方向を向いていた。ヒロに肩を叩かれ、慌てて現実に戻る。にっこり笑った。
「へ? ああ、先輩。なんですか? 美味しいですねえ、リアリィさんのケーキ。宇宙に出たとしても、持っていけるんでしょうか」
 間の抜けた答えに、ヒロが思いっきり呆れた顔をした。メイがくすくすと笑いを漏らし、他のみんなもつられてしまう。
「お前って奴は。人の話を聞け、人の話を。それにお前、なに考えてたんだ。ほら、戻るぞ。仕事だ仕事」
「仕事って。俺まだケーキ全部食べてません」
 名残惜しそうな表情で、ルークは皿を抱えて放さない。
「持っていけ。リアリィごちそうさま。ショウにメイ、ハル。じゃあな」
 いまだ訳が分かっていないらしく不満そうな表情のルーク。ヒロはそんな彼を引っ張って消えていった。


「ごめんね。せっかくの休憩だったのに。ハル、ヒロ。そっちもいいかな?」
「うん、いいよ。だいたい、いつもからまとめているから、彼のところほど時間は要らないと思うよ」
 ヒロとルークの様子をおかしそうに見つめていたハルが、視線を戻すと告げた。メイがそれを見て、お茶のおかわりをハルのカップに注ぐ。ありがとうとハルが告げると、お互いににっこりと微笑んで見つめ合った。やっていられない、とばかりにショウが視線をはずす。
「そうそう。リアリィもいいかな?」
「ええ。私のほうもいいわよ。ヒロたちは少し時間がかかりそうだし、ここの資料を受け取ったら次に私の所に行きましょう。あまり早く行っても、ヒロの所はまだ資料は揃っていないと思うわ」
 あんな様子だったのですからね、とリアリィが優雅に笑った。