3.


「ふう。やりがいはあるけど、やっぱり難しいな」
 大きなため息をついて、ショウは椅子にもたれて背伸びをした。ショウの座るいつもの机の上には、資料が山と積まれている。
 アキに頼まれたことを実行する前に、もういちど自分たちの置かれている状況を確認しようと意気込んだはいい。しかし、Egg Shell成立の歴史に取りかかった時点でさえ集めた資料は膨大すぎて、ショウは怯んでしまった。
「ああ! だめだめ。ちゃんとやるって決めたんだから。アキが信じて任せてくれたんだからここで諦めちゃだめ」
 考えを追い出すように頭を振って気分を入れ替えると、再び資料の山とディスプレイに体を向けた。


 《物事を調べるのならその歴史から》というのが、アキに教えられたショウの仕事に対するあり方だ。資料関係の仕事に関わらず、いまではショウ自身の行動原理ともなっている。「いま」の裏に見え隠れする過去が、思わぬ助けになってくれる。それになにより、ショウは物事の過去を知ることにとても魅力を感じていた。そうでなければ、いくら尊敬するアキに仕事を頼まれたからといって、端から見ると無駄としか思えないような行動をしたりはしない。ただ調査資料を提出するだけだったろう。そのほうがずいぶんと楽なのは明らかだ。
 自分の知らない時間、知らない場所。自分たちの外の世界で起こった出来事が、いまの自分たちにどういう影響を与えているのか。調べるうちにわくわくしてくる。
 ショウ自身は、膨大な量の資料を見たり、ディスプレイに注目し続けるのは正直、かなり辛い作業なのだが、それでも好奇心を抑えられないあたり、やはりこういう仕事に向いているのかもしれない。
 保管してあった資料やデータの一番古い物からあたってみることにする。初めに現れたのはEgg Shell計画の始動当初、当時の研究者が協力して作成したらしい立案書だった。


『人類存続のための巨大避難施設建設計画』

 立案:夕代 彼方/ヴィルト・デア・アスリーグ/ミトル・ネイトア

 今日、我々の住むこの地球はきわめて危険な状況に置かれている。劣悪な環境に加え、近年激しくなった全世界的な紛争・それに伴い開発される強力な兵器の数々が我々の生命を脅かしている。
 この絶望的な状況から脱するため、我々はここに、最後の希望を作り出そうと考えた。それは、|


「博士。夕代博士」  キーボードから手を離し、疲れた目をほぐす。自分を呼んだ声に振り向いたが、疲れた目は霞んで、ぼんやりとしか顔が見えない。
「なんだ? なにか問題が」
 博士が大きく伸びをすると、先ほどまでの張りつめた雰囲気が柔らかくなり、声をかけた人物はほっと安心する。仕事を中断させたことで機嫌を損ねてしまったのではないかと思ったのだ。夕代博士を呼んだ人物――黒髪を後ろでまとめた若い女性は言葉を続けた。
「ファーレン財団から『また』電話です。条件を呑まなければ資金提供はできかねる、と。どうしましょう? 計画を進めるには資金提供はどうしても……ですが、条件が『自分の娘を生き延びさせること』だなんて」
 子どもに生き延びて欲しいと願うのは親が普通に願うことだった。だからなんら間違ってはいない。親となったいま、彼女にはそれが痛いほどわかる。
「私たちも他人のことは言えないさ。ファーレンには私から連絡しておく。そういえばヴィルトは?」
 大きな事を成すには、やはりどうしてもそれなりの金がいる。金で命を助けられたことをその娘が知ったらどうなるか、想像に難くなかったが、だからといって条件を呑まずにこのまま計画を中止させるわけにはいかない。自分たちも、理由はどうあれ我が子を避難させるつもりでいるのだ。多くの人がこれを非難するだろう。高い理想を掲げていても、結局は自分たちのことを第一に考えているではないか、と。とやかく言えるだけの権利は、彼らにはない。
「ヴィルトは、紘の所です。あの人ったら紘のそばから離れないんですよ。機械に興味を持ち始めたって、嬉しそうに」
 口ではこういっているが、彼女の声からは夫と子どもに対する限りない愛情が見て取れた。
「はは、紘も可愛い盛りだからね。あいつも子どもには勝てなかったか。前は人間らしい感情なんて持っていないような冷たい奴で有名だったからね。紘に感謝しなくてはな。この計画に参加してくれたのも、きっと子どもが可愛いものだと思ってくれたからだろうしね。私がヴィルトの所へ行くよ」
「あ、なにか用事なのですか? でしたら私が」
「いいよ。いや……葛葉、君も?」
 おそらく彼女も夫と子どものところに行くつもりだったのだろう、嬉しそうに頷く。
「ええ、ではご一緒します」


「じゃあこれは?」
「これはこうだ。凄いな、紘。まだ小さいのにこんな事ができるなんて」
「だって、とうさんがおしえてくれたから。ほめられたの、うれしかったし」
「紘は凄い、本当にえらいぞ」
 親子の会話が切れ切れに聞こえてくる。葛葉は、いつもこんな調子なんです、と顔を赤らめた。
「あなた。夕代博士が呼んでるわよ。もう、こんなに散らかして」
 ドアを開け、機材が散らばった研究室にいる夫に声をかける。ヴィルトはそんな妻の様子に首を傾げた。なぜそんな行動をするのか理解できないという風に、実にのんびりと立ち上がり、紘の頭を撫でる。紘が産まれる前は、ヴィルトはせっかちで有名で、まわりの研究者から煙たがられていたというのに。いまの彼には、そんな様子は微塵も感じられない。変われば変わるものだと葛葉は苦笑した。
「葛葉。ほら、紘の奴」
「あ、かあさんっ! あのね、ぼく」
「紘? どうしたの?」
 嬉しそうに息子の成長について語ろうとした夫を無視し、葛葉は駆け寄ってきた紘に目線をあわせる。先ほど、夫の様子を非難した人物と同じかと首を傾げたくなるほどに葛葉の表情が緩んだ。母と嬉しそうに会話をはじめてしまった紘を見て、行き場のなくなった手をひらひらさせたヴィルトは、入り口に立ったままの人物に気づいた。恥ずかしそうに笑って近くに寄る。
「夕代博士。なにかご用ですか?」
「ヴィルト、もういいのかい? ずいぶん楽しそうだったが」
「は? ああ、いえ、いいんです。紘はやっぱり母親のほうがいいみたいだ。あんなに遊んだのに」
 最後の言葉は独り言なのだろう。よほど自分を無視されたことが気にくわなかったらしい。これが大人かと思えるほどに拗ねた表情をした。


「博士、『切り札』ですが」
 ヴィルトが思い出したように口に出した。
「ああ、ヴィルト。私はそれが聞きたかったんだ。どうなっている?」
 『切り札』とはEgg Shell計画の最終段階のコードネームである。本当に一部の者しかこの存在を知らない。ヴィルトが中心になって進めているのだが、まだ不確定要素が多すぎる。本当に『切り札』になるのかどうかわからないのだ。

「非公式に連絡をとったんですが、《向こう》の環境は問題ないようです。受け入れも可能だということでした。あちらも、政府に放置されたまま、顧みられることのなかったところですからね、乗ってくれましたよ。いまとなってはもう、あちらも自力での帰還は難しいようですから。後は、開発中の物が、封印までに仕上がるかどうかですね。Egg Shell内で壊れることはまずないはずです。構造そのものが壊れでもしたら話は別ですが、それ以外の故障があったとしても紘がいますよ。あいつは本当に凄い奴だから。いまのうちにあいつに動かし方をそれとなく教えておくことにします」
「ではうまくいくのだな?」
「もちろん。俺を過小評価しないで下さいな。こう見えても俺は――」
「宇宙工学においては並ぶ者がいない、のだろう? いつものお前の口癖だ」
 容易に想像のつくヴィルトの言葉を彼方が続けた。たまらないという風に、体を曲げて笑う彼方を見てヴィルトは傷ついた目をする。子どものように膨れた顔をした。
「ひどいな、博士。俺そんなに言いますか?」
「あ、ああ。それでは頼んだよ、ヴィルト。紘と遊ぶのもいいが仕事を忘れるなよ」
 いまだくすくす笑いをおさめられず、ふらふらしながら、彼方は研究室から出ていった。それをむっとした表情で見つめていたヴィルトは、
「博士、待ってください! せめて誤解を! 俺は!」
 と彼方が去っていった方向へ駆けていった。


「とうさん、どうしたの?」
「もう、本当にヴィルトったら。しょうがないひと。子どもみたい」
 困ったような嬉しそうな顔をした葛葉は、駆けていく夫の姿を見つめながらひとりごちた。けれど子どものような幼さが、ヴィルトの魅力でもあるのだ。
 結局のところ、いまでも大好きな母は父のことがいちばんなのだった。質問を無視された形になった紘は、少し頬を膨らませると問いを繰り返す。
「ねえねえ、とうさんどうしたの?」
「え? ええ、お父さんはね、夕代博士にからかわれて拗ねてるのよ。お父さんみたいな子どもっぽい大人になったら、きっと紘の好きな人は大変ね。苦労するわ。紘、いい? お父さんみたいになっちゃだめよ?」
「えー? とうさんみたいになっちゃだめなの? とうさんすごいんだよ。こーんなにおおきなロケットとばしたことあるって!」
 子どもらしい無邪気な表情で「こーんなに」と手を広げる。きらきらと輝く目が本当に心から父親を尊敬している事を物語っていた。
「ふふ、紘。ねえ、せめて夕代博士みたいにってことにしない? お父さんは凄いけど、女の子にもてないわよ?」
 紘の瞳をのぞき込んで、おどけて葛葉が告げた。母にじっと見つめられて、紘は考えをめぐらせる。
「んー。おんなのこにもてないのはやだなぁ。でも、とうさんも本当はもてるんでしょ? だってかあさんきれいだもの。やっぱりとうさんみたいになりたいな、ぼく。ゆうしろはかせみたいになってもいいけど、とうさんがいちばんだよ!」
「ま、紘ったら、もう。でもありがとう。お母さん嬉しいわ。お父さんが一番かどうかは別ですけどね」
 和やかな親子の会話が続く。幸せな雰囲気が研究室を包んでいた。