17.


 鈍く重くひびく痛みで、ショウの意識はようやく現実に引き戻された。あたりのざわめきと混乱が、徐々に彼女の耳に入ってくる。
 いったいなにがどうなってしまったのか。意識がなくなる直前に感じたものは、なんだったのだろう。覚えているのは、とてつもない騒音と、平衡感覚が崩されるような激しい揺れ。
 直前に知らせてくれたヒロは、『卵が崩壊する』といっていた。それはいったいどういうことなのだろう。すべてがよくわからなかった。
 ひどく不快な感覚に悩まされながら、ショウはようやくまぶたをあけた。夢現半ばのその視界に、ひどく奇妙な光景が映る。
 薄暗い室内。回復したはずのあかりはところどころ途切れていて、ぱちぱちと最後のともしびのように瞬いている。Egg Shellを襲った混乱のせいで騒然としていたこの部屋は、それに輪をかけたようにすさまじい状況になっている。幼児が暴れまわったかのような惨状になっていた。
 ――いや、幼児などではありえない。壁に亀裂は入っていたし、重いはずの机もディスプレイも関係なしに、床に転がっている。とてつもなく大きな力でなければ、こんな芸当はできないはずだった。
 地震が起こった?
 ショウがまずはじめに思ったのはそれだった。しかし、その考えはすぐに消えていく。このような地下施設だからこそ、まず第一にその影響のことについては考えられているはずだ。だからEgg Shellは、有史以来強い地震が起こりにくいといわれる場所に置かれてもいるし、大きなゆれが万が一来たとしても、それに耐えられる設計になっている。
 では、なにが起こったのか。目の前に広がる光景が信じられずに、ショウは呆然と見ていることしかできなかった。

 再び、ショウを頭痛が襲った。ふと我に返ってみると、頭に包帯が巻かれている。どうやら、なにかの拍子に頭を打ってしまったらしい。身を起こすと、体にかけられていた誰かの上着が滑り落ちた。
 ついで、あたりの喧騒がようやくショウの耳に戻ってきた。わずかなざわめきだと、ショウが感じていたのはおそらく、意識の半分がまだ眠った状態だったのだろう。起き上がったショウを、すさまじい混乱が取り巻いていく。
 壊れた机にもたれかかるのは、よく見知ったスタッフのひとり。血相を変えてあちこちを駆け回るのも、誰かを泣きながら抱き寄せるのも、すべてがショウの大切な仲間たちだ。
 誰もが、この突然の出来事に混乱し、翻弄されている。怪我をしていないものは、ほとんどいなかった。誰もが、重いか軽いかは別としてそれぞれの身に傷を負っている。
「これは、どういうこと……」
 かすれた声がようやく、ショウの口から漏れた。本当に、いったいなにがこの卵を襲ったのだろう。
 重い頭を手でかばい、ショウは苦労しつつも立ち上がった。ショウの中の『管理者』としての責任が、このままここで休んでいるわけにはいかないのだと言っている。守ると誓った。この卵を、そして住人たちを。だから、こんなところでのんびりしているわけにはいかない。
「ショウ、気がついたんですね!」
 立ち上がったショウに、誰かが声をかけた。それは、やはり彼女にとってよく耳になじんだ声だ。
「ユリア。ええ。なんとか。ユリアは? 私をかばってくれたのは、ユリアでしょう。なんともないの?」
 振り返れば、そこにはショウと同じように頭に包帯を巻いたユリアの姿があった。顔のあちこちが汚れてはいるけれど、見た目では彼女はなんとか無事なようで、ショウは胸をなでおろす。
「はい。ショウこそ、長い間気を失ったままで心配しました。もう少し休んでいなくては。私たちがなんとかやっていますから」
 ユリアはそう言うと、ショウの体を押し戻した。床に落ちた上着をはたき、ショウにかける。どうやら、これはユリアのものらしい。世話を焼こうとするユリアを、ショウはやんわり押しとどめた。いまは、ゆっくり休んでいることなどできるわけがない。
「ユリア、いったいどうなったの? いまの状況は?」
 『なんとか』できる状況ではないことくらい、この有様を見れば明らかだった。
「教えて。もしかして……『解放』されてしまったの?」
 真剣な面持ちで尋ねるショウを、ユリアはとうとう休ませることはできなかった。下唇を噛み、ユリアはうつむく。そして、ガーシュを呼んできますと告げ、軽く足を引きずって去っていった。

「ショウ……本当に、休んでいなくて良いのですか? 頭を打ったのでしょう」
 現れたガーシュは、利き腕を肩から吊っていた。どうやら、あのときの衝撃でなにかに潰されたものらしい。しばらくは不便な生活ですねと苦笑したガーシュは、すぐに表情を引き締めてショウを気遣う。笑って大丈夫だと頷くショウに、では報告しますと調子を改めた。
「まだ、詳細は調査中です。が、Egg Shell中心部、つまりはこの避難計画の秘中の秘とされた場所を中心にして、構造の分解が起こった模様です。砕いて言えば、この卵を卵たらしめていたそれぞれの構成物質が、一瞬だけそのつながりを途切れさせた、ということでしょうか。それによって、重さに耐えられなくなったEgg Shellは、内部崩壊を起こしました」
 冗談としてはあまりに質の悪すぎるものだった。嘘でしょうと思わず尋ね返したショウへ、ガーシュは重苦しい顔で首を振る。
「冗談では、ありません。中心部にぽっかりと穴が空いたようになってしまったことで、各エリアや居住区、それらを支えていたつながり、つまり私たちをいままで守ってくれた卵の殻が、その役目を果たしてくれなくなってしまいました。たった一瞬でも、崩壊を呼び起こすには充分です。積み木のように、たったひとつの構造が壊れただけで、すべてが崩れ去る」
 だから、なのか。あのとき、すべてが崩れ落ちていくような感覚が走った。耳を覆いたくなるような不協和音は、すべてのつながりが断ち切られる、この卵の苦痛の叫びだったのだ。
 外からの力には、卵は強かった。けれど、こんなふうにして中から崩されてしまっては、それを防ぐすべは無きに等しかった。内部からの叛乱とは別の意味で、卵は中から壊れてゆく。

「それで、被害、は」
 震える声で、ショウは言葉を紡いだ。どれだけの損害をこうむったのか、現状を見れば明らかだった。電力消失の混乱とは比較にならない。いまもなお、瓦礫は卵のあちこちにある。その中には、守るべき住人たちの命が閉じ込められている。
「具体的な数は、この混乱の中ではまだはっきりしません。ですが、おそらくは多くの命が、あの衝撃とともに失われているでしょう。下部エリアはほぼ絶望的です。最深部の動力エリアに関しては、構造の特性もあって干渉できないせいか、それほどの被害は及んでいないようですが」
 悲鳴にも似た音が、ショウの喉から漏れる。
 リアリィとメイの救出にヒロを赴かせた際、彼は下部エリアに残っていた者たちにできるだけ上に逃げるよう道を示していたという。それがなければ、きっともっと多くの住人たちが、押しつぶされていただろう。
「居住区エリアも、中心部が崩壊したことによる被害を多大にこうむっています。居住ブロックごとに崩壊に巻き込まれて、いくつかはいまだに音信不通です。各ブロックの連絡役になっているメンバーを、通信機で呼び出してはいますが――」
 ガーシュは言葉を続けられず、ただ無言で首を振った。
 ショウの中で、音を立てて血が引いていく。ふらりと体が傾ぐのを、やっとの思いでこらえた。無意識の世界へ旅立つのは楽だ。けれど自分はいま、それをいちばんやってはいけない立場だった。
 倒れこみそうになる体を、ショウは必死で支えた。そして、自分に与えられた両の足で、崩れそうになる足もとをしっかりと踏みしめる。
「わかりました。ありがとうガーシュ。では、私も指揮に復帰します。休んでなんかいられません。ガーシュ、救出作業に全力で取り掛かるようあなたの部下に伝えて。ユリア、あなたの部下には現状把握と情報収集をお願いします。なにか少しでも変わったことがあったら、すぐに私のところへ伝わるようにしてください。ほかのメンバーにも同様にお願いします。それから、もし万が一これ以上の危険が襲うようなら、まず第一に自分の身を守ること。こちらからの指示を仰ぐ前に、それぞれの意志で動いて、みんなを守ってくださいと伝えて」
 いまできる最善を尽くして、少しでも被害を抑える。そうして、崩壊しかけてしまった卵があと少しだけ持ちこたえてくれることを祈るしかない。なんの準備もないままに外に放り出されることだけは避けなくてはいけない。それに、中心部が崩壊してしまったのなら、『切り札』は使えないかもしれない。星の海へと旅立てるのは、そこが無事であってこそできることだからだ。
「伝達が終わったら、ふたりとも私のところへ戻ってきてください。現状把握から導き出される対策を、いっしょに考えて欲しいんです」
 信頼をこめたまなざしでふたりを見つめると、彼らは頷き返してショウの指示を実行しに向かった。

 ユリアとガーシュの姿が消えると同時に、脱力感がショウを襲った。すんでのところで留まり、壊れかけた机に寄りかかる。泣き出しそうになるのを、彼女は必死の思いでこらえて前を向いた。目には、瀕死といってもいい卵の現状が飛び込んでくる。
 逸らしてはいけない、まっすぐに見つめなくてはいけない、それがひどく辛いものであることを、ショウは実感していた。
 ――守れなかった。
 その後悔だけが、ショウのかなしみの原因だった。
 どれだけ多くの命が失われただろう。いま、まさに消えゆく命だってあちこちにある。せっかくこの卵に逃れて助かったはずなのに、こんなにもあっけなく消えていってしまうものなのか。
 ほんの些細なことだった。きっと、もう少し注意を払っておかなくてはいけなかったのだ。電力が再びどこかへ流れていること、あまりに静かな、アキたちの動き。ヒロは、おそらくなにかを感じていたのだろう。だからこそ、たったひとりで中心部に向かい、自分に警告を発してくれた。
 そういえば、ヒロはいまどうしているだろう。無事、なのだろうか。ショウは無性に、ヒロの声が聞きたくなった。励ましているのか怒っているのか、さっぱりわからないあの声を聞けば、泣き出しそうな自分の心も少しは持ちこたえられそうだった。
 身も世もなく泣き出してしまいそうなほどに、ショウは打ちのめされていた。
 それでも、いまは泣いてはいけない。泣くことは、いまの彼女にとっては逃げだった。泣くよりも辛い思いを抱いている人が、ここにはたくさんいる。その心が、彼女をかろうじてまっすぐ立たせている。
 泣いてもなにも変わらない。誰も助けてくれるわけでも、うまくゆくわけでもなかった。
 ならば、自分のできる範囲で、守れるだけの人をきちんと守ることが、彼女にできるすべてのことだ。ショウの思いを受け止めてくれたすべての人を、導く責務がいまの彼女にはある。
 守れなかった責めは、あとでいくらでも受ける。いまは、ただ立ち向かうことだけしか、ショウに許されたものはなかった。


「……え? いま、なんて?」
 再び混乱のさなかへ突き落とされた情報管理エリアのメインルーム。ガーシュとともに救助計画を練っていたショウは、とまどいぎみのユリアの声に思わず尋ね返した。
 ユリアの報告は、それほど信じられないものだった。なにかの聞き間違いなのではと、ショウもともに聞いていたガーシュも、驚きの表情を浮かべている。
 おそらくは、ユリアもその反応を覚悟していたのだろう、間違いではありません、と言葉を重ねた。そうして再び、震える声で真実を告げる。
「アキが……。アキが、発見されました。教育統括者もです。Egg Shell外周付近、下部エリアと繋がる非常通路の近くで、ふたりが発見されました」
 はじめにユリアのもとにその報告が入ったとき、彼女自身もなにかの間違いではないかと思った。とまどいがちに報告した部下も、自分の見たものがとんでもないものだとわかっているのだろう、慌て顔で駆けつけたのだ。けれど……実際に彼らの姿を目にすれば、そんな思いもどこかへ消えていった。
 それは正真正銘ショウの前任者だった。誰より尊敬したはずの、アキその人の姿だった。
 彼は、力を失った金色の女性の体を抱え、呆然と暗闇の中に立ちつくしていた。かつての輝きは、そこにはなかった。

「嘘……。アキが、本当に?」
 いますぐに、駆けつけたい衝動がショウを駆けめぐった。あんなに探し求めたあの人が見つかった。その姿に、一目でも会いたいと思うのは、情報管理エリアのメンバーなら抱いて当然の感情だった。まして、誰よりあこがれて、思いを寄せた人なのだ。
 いますぐ案内して、という言葉を、ショウはのみこんだ。いまはまだ、それよりも重要なことがたくさんある。助けを求める声を、無視することはできない。
 唇をかみしめて、ショウは自分の思いを閉じこめた。
「……無事、なんですね?」
「え? はい、アキにはとりあえず大きな傷はないようです」
 ユリアもガーシュも、その言葉に目を見開いた。どこに、とか案内して、と言われるとばかり思っていたのだ。けれど、その言葉は彼女の唇から、出てきそうにはない。
「無事、ならいいんです。いまは……会えません。まだ、やらなくてはいけないことはたくさんあります。アキに会うのは、それからです。怒るのも、文句を言うのも、全部全部あとです。でもありがとう、知らせてくれて」
 すべての思いをのみこんで、ショウは微笑を浮かべる。
 ユリアとガーシュは、その中にせめぎ合うふたつの心を感じていた。本当は、会いたくて会いたくてたまらないのだ。ユリアもガーシュももちろんのこと、それはショウも変わらないはずなのだ。
「ショウ。なにが起こったか、その事情を知るのは必要ですよ。おそらくはアキなら、すべての事情を知っているでしょう。それでも、いいのですか」
 確認をとるように、ガーシュがショウを見つめる。
「……あまり、迷わせないでください。いまは、私にも自信がないんです。なにを言ってしまうのか、わからないから……。アキが見つかった、ということは、もうこれ以上ひどいことは起こらないということですね。遅かれ早かれ、きっとファムたちも見つかるでしょう。だったら、いまは、みんなを助けることに集中します」
 最後の迷いを断ち切るように、ショウは瞳を閉じたまま言った。しかし、ふと目を上げた瞬間のユリアの表情に言葉を失う。まだ、彼女はなにかを言いたげに、けれどその言葉をためらっている。
「……どう、したんですか」
 問い直したショウは、ややあって紡がれたユリアの報告に、今度こそ凍りついた。
「アキとリアリィ以外の関係者――ファム、ハル、そしてヒロは、当時あの中央部付近にまだいたのだと思われます。生存は、絶望的、です」