18.


 自覚もないのに、急に視線が下がった。一瞬ののち、片腕で腹の辺りを支えられ、ショウは自分が立っていられなくなったことをようやく知った。
「ショウ!」
 悲鳴のような声で名を呼んだユリアがこちらに駆け寄る。倒れかかった自分を、不自由な片手でとっさに抱きかかえてくれたガーシュとともに、ショウを支えてくれた。
「大、丈夫です。ごめんなさい、ちょっとびっくりしただけですから。だから」
 ショウはこのEgg Shellの管理者だ。こんな弱い姿を、混乱のさなかにある皆の前で晒すわけにはいかない。ショウが倒れれば、挫けてしまえば、頼りにしてくれた皆が迷ってしまう。それだけはできなかった。
「なにを言っているんです。いまのあなたを見て「大丈夫」と言える人間はここにはいませんよ。何度も言いますが、ご自分の立場というものを理解してください。ユリア、ショウを管理者の執務室の奥へ。仮眠室があったはずだ。少し気持ちを休めてもらおう」
 厳しい調子でガーシュはそう言って、その後、同じように厳しい瞳をしたユリアに何事かを耳打ちした。おそらく、ショウと同じ判断をしたのだろう、多くの人の目から離しておくようにとでも言っているのかもしれない。
「わかったわ、ガーシュ。さあショウ、行きましょう」
「待って、」
 言いかけて、その先を止められそうになったので、ショウは精一杯の強いまなざしでふたりを見つめた。
「ちゃんと休みます。だから、あとはガーシュ、あなたに。私が戻るまで、お願いします」
 ショウ自身が、ガーシュにのちのことを託す、という、たとえ形だけの委託であろうとも、きちんとしておきたかった。混乱のさなか、どんな事象がどんな噂を生むかしれない。それだけは、自分が混乱の原因となることだけは、どうしても避けたかった。
「あなたという人は。……わかりました。お預かりしましょう」
 こんなときまで、どこまで職務に忠実なのだ、と、泣きそうな程に痛い表情をして、ガーシュは胸の前に手をかざして承伏の証とした。


 扉一枚隔てただけだというのに、そこは驚くほどの静かさだった。さすがに機密エリアという扱いにあるのだろう、こんな状況にあっても、この場所に一般の住人たちは入ってこない。
「場所の余裕がなくなってしまったら、ここも遠慮なく使ってもらってくださいね。怪我人の救助にも場所は足りないでしょう」
「それよりもいまはショウ、あなたの身体を休めることが第一です。さあ、座って」
 いまは、Egg Shellの今後のことを考えていないと、立つことすら辛い状況だった。けれど、ユリアはそれに気づかないのか、それともそういう振りだけなのか、ショウの言葉を取り合わない。
 半ば押しつけられるようにして、仮眠台の上に腰を下ろすと、自分でも驚くくらいに身体が疲れ切っていた。崩壊の衝撃で怪我をしたらしい顔も、しくしくと痛んで神経を苛んでいる。
 ぐったりと身体を沈み込ませると、ショウに続いて仮眠台に上に腰を下ろしたユリアが、肩をぎゅっと抱いて倒れそうになる身体を支えてくれた。
「私の他は誰もいません。泣いても、いいんですよ。誰にも言いませんから。いま、この場所でだけは、「昔のあなた」でいていいんです」
「だめです。他に泣く人は一杯います。私だけがこんな」
「他人のためにも、自分自身のためにも、涙を流すのは大切なことですよ、ショウ」
「でも」
 いまはそんな気分にはとてもなれない。一気に押し寄せた様々な事柄で、思考は一歩も前に進もうとはしてくれなかった。とめどなく、奔流のように思考の大波が押し寄せて、頭がどうにかなってしまいそうだった。
「――昔の、話をしましょうか。遠い記憶の彼方のことで、顔さえもう覚えてはいませんが、私の母のことを。別れ際に言ってくれたことだけは、いまでもしっかりと覚えています。涙を流すのはとても大事なことなのだと」
 ユリアが、個人的なことを話すのは、ショウの覚えている限りこれが初めてだった。懐かしく、けれど寂しそうに、大人びた顔をしたユリアが一瞬少女のように見えて、ショウは目を瞬いた。
「強がって、哀しみを心に閉じこめることは簡単です。誰にだってできます。でもね、そうやっていると、人の哀しみがわからなくなるんですよ。だから母は、人の哀しみを分け合えるように、涙を流せる人でありなさいと教えてくれました」
 見ての通りこんな私ですから、実現できているかどうかはわかりませんけれどね、と、冷静を絵に描いたように思われているユリアは苦笑気味にそう零した。
「ねえ、ショウ。あなたはいま、名実ともにこの卵の管理者です。強くあらねばならないのは確かですが、だからといって、後ろを振り向きもしないほど強くなっては、いつか人の気持ちがわからなくなります。私は、いいえ、あなたの周囲の皆は、あなたにそうなってほしくないんです」
 まるで子どもをあやすように、軽くリズムを付けて身体を揺らしながら、ユリアはショウの腕や肩をゆっくり撫でた。それが、記憶の彼方の母のぬくもりと重なるようで、ショウは思わずぎゅっと目を閉じた。
 多くの人の命が消えた。
 そして、おそらくは――。
「ヒロが、いなくなるなんて思ってもみなかった」
 今のところ、彼の身は「生死不明」だ。けれど、多くの人を喪ったいま、彼が無事だとはとても思えない。現実的すぎる思考はそんな結果を導き出して、ショウはたまらなくなった。
 たったひとりのことに、こんなにも心揺れてしまう自分を初めて知った。なんて人の心というものは弱いのだろう。多くを喪ったことはもちろん身を切られるように悲しいが、帰ってくると思っていた人が帰ってこないかもしれないという事実に、なぜ自分はこんなにも怯えているのだろう。

 ヒロとは幼馴染み、という立場ではない。出会いは、ショウが情報エリアに配属されてからのことだから、まだ五年も経っていないはずだ。
 思えば喧嘩ばかりしていたような気がする。けれど、卵が混乱に巻き込まれてからのここしばらくは、彼の存在がどれだけショウの力になっただろう。
 ふと、思い出が口をついた。
「あのね、ユリア。私ね、ヒロと最初に出会ったとき、思いっきりヒロのほっぺたをひっぱたいたの」
「え?」
 泣き笑いの表情でショウが打ち明けると、ユリアは案の定、目を瞬いて驚いたあと、思い切り呆れた顔をした。
「あなたがたときたら。きちんと謝りましたか?」
「……ううん。謝ってない。ずっとずっと、謝りたかったけど、今更っていう気持ちと、恥ずかしいって気持ちで、結局いままで謝れなかったの。他にもたくさん、たくさん……っ」
 唐突に、いままでのことが奔流のようにショウの中にあふれ、抑えきれなかった感情がとうとう涙となってこぼれ落ちてしまった。
「ショウ……」
「ありがとうって言いたいし、やっぱり一杯ごめんなさいを言いたいの。でも、帰ってこなきゃ言えないよ……。ユリア、私」
 思いのままに紡いだ言葉は、あまり脈略を得なくなってきた。ショウがこんな風に感情をさらけだしたのは、どれくらいぶりだろう。
 補佐になったしばらくののち、まだ自分の道が定めきれていなかった頃。アキがいなくなって、それをヒロが目聡くも気づいてくれたとき。もはやEgg Shellの外は絶望的な状態であると知り、哀しみで前が見えなくなったあのとき。
 思い出せる昔の出来事は、皆ヒロの姿とともにあった。それがなおさら、いまのショウには苦しい。
「いや。嫌よ。どうして、どうしてこんな……!」
 漏れ出した叫びは、とうとう大粒の涙となった。
 ただ無言で撫で、抱きしめてくれるユリアのぬくもりが、いまのショウにとってたったひとつ縋れるものだった。


「しばらく、ゆっくりと休んでください。落ち着いたらお迎えに上がります。だから、それまでは」
 ようやくショウの涙が落ち着くと、ユリアはショウを気遣うようにそう言って、もういちど彼女をぎゅっと抱きしめたあと、立ち上がった。
 頼るべき管理者がこんなにも目を泣きはらしていれば、まわりの皆はきっと動揺する。それを考えて、立ち直る時間を与えてくれた優しさが、ショウには嬉しかった。
 思う存分気持ちを吐き出せば、とりあえずは立ち上がる力が持てる。そうでなければ、喪った命にも、彼女を信じてくれている人のためにも、申し訳が立たない。
「ありがとう、ユリア。……ごめんなさい」
「ごめんなさい、は余計ですよ。それに、希望を捨ててはいけません。あのヒロのことですもの。あなたのこの涙が、流し損である可能性だって充分あります」
「そう、ね。そうかもしれない」
 せめてショウを勇気づけようとおどけた調子に紡がれたユリア言葉は、けれど、浮かんだ表情が台無しにしていた。ショウもそれに気づかないふりをして笑おうとしたけれど、半ば失敗して泣き笑いの表情になる。
「お迎えに上がったときは、立てますね」
「……はい」
 どんなにどん底に突き落とされようとも、生きている限り立たねばならない。それが、託された未来を先へ繋げる義務を背負うかわりにEgg Shellに生きる、「子どもたち」の宿命だ。
 管理者になった経緯はショウの責任ではないが、ショウが彼女の責任でEgg Shellを背負うことに決めたのだ、逃げるわけにはいかない。

 無言のまま退出するユリアの背中を見送って、ショウは抱えた膝に顔を押しつけた。
 再び立ち上がる強さのために。そして、もう二度と帰らないかもしれない、いままで支えてくれた力のために。
 傷だらけの顔に、流れた涙がひどく沁みた。