15.


「ここに、いてほしい人……?」
 ざわめきが広がる。ショウの言葉は、それほどに彼らにとっては意外なものだったのだ。
『認められ、選ばれたもの』ではない彼らのほとんどは、いちどもそんな言葉をかけられたことがなかった。
 だから、いつでも不安で仕方なかった。必要とされないことが自分の中に暗い気持ちを植え付けていく。
 必要とされていないのに、なぜ自分たちはここにいるのか。
 その疑問は年を追うごとに強くなっていく。
「少なくとも私は……そして、皆さんの大切な人たちは、皆さんに『ここにいてほしい』と願っています。それを、忘れないでください。皆さんは、必要とされてここにいるんです。昔も、いまも、これからも」
 迷う住人たちを導くように、ショウの言葉は再び卵を駆け巡った。

「だからこそ私は、皆さんにお願いします。心に、わだかまりはあるかもしれません。どうしても、認められない人もいるでしょう。……でも、いまだけでいいんです。力を、貸してください。きっと、再生への道は遠いです。十年単位で、いいえ、もしかしたら百年単位で時間が必要かもしれません。その時間を、少しでも短くするために、私は皆さんがほしい。生きたいと願う気持ち、大切なものを守りたいというその気持ちを、私に貸してください」
 再生への道はたやすいものではない。自分ひとりでは、絶対にできないことだ。
 けれど、Egg Shellのみんなの力があれば、そんな困難を越えていける気がする。

 ざわめきは、まだ続いている。確かに、少女の言うことは理想だった。
 理想……だからこそ、手を取りたい気持ちもあるし、疑いのまなざしを向けたくなる気持ちにもなる。
 争うことは、疑うことは、妬むことは、それぞれ人に与えられた荷物のひとつだ。捨てることは簡単ではない。はたして、それを捨てることが本当に可能なのだろうか。
 それに、また。
 帰りたかった故郷がないことが、住民たちの心に暗い影を落としてもいた。
 『新しい故郷』と、少女は言った。
 でもそれは、『帰りたかった故郷』では決してない。

「理想を語る、と笑われるかもしれません。理論のすり替えだと、きっと怒っている方もいるでしょうね。……でも、誰かがそれを言わなければならないのなら、私が言います」
 ショウは、本当に自分はなにをしているのだろう、とふと思った。
 『住民のうちのひとり』だった自分は、どこに行ったのだろう。こんなふうに、住民みんなの前で演説もどきの行為に出るなんて、果たして二年前の私には想像できただろうか、と。
 二年前、まだ、情報管理エリアの辺境にいた自分は、管理者補佐になることすら想像のつかないものだった。Egg Shellになんらかの形で終わりがもたらされるのを、じっと待つだけでよかったはずなのだ。両親との再会を、ひたすら楽しみにして。それなのに。
 決定的な言葉を言うのが、まさか自分になるだなんて、思いもしなかった。
「もういちど、言います。私たちが『帰りたかった故郷』は、もう、ありません。私たちは、新たな道を歩き出さなければいけません」
 繰り返すには辛い言葉を、あえてショウは紡いだ。
 隠したままでは、なにも進まない。ならば――。

 嘆きにも似たため息が、再び溢れ出した。こうもきっぱり宣告されてしまうと、僅かな望みをそこに見出すこともできない。
 大切な記憶を刻み付けられないうちにここへ来たもの。
 あるいは、充分すぎるほどの思い出を抱えてここに来たもの。
 そのどちらもが、もう永遠に手に入らなくなってしまった時間を、涙とともにかみ締めていた。
「新しい道――私たちには、私たちの親から託された、大事な仕事がまだひとつ、残っています。それをせずに、諦めることはできません。私だって、両親に会いたいです。でもいまは、自分の仕事から逃げ出してまで、会いに行こうとは思っていません。だって、そんなことをしたら、きっとふたりとも私を歓迎してくれないでしょうから」
 すべてを捨てて逃げ出したいと、ショウ自身思わなかったことはない。もしも自分が管理者代理などという地位につかなかったなら、この広場の中にいたかもしれないのだ。
 外へ出たい、と。必要とされる場所に行きたい、と。
 でも、ショウは気づいてしまった。必要とされる場所は用意されているのではなく、自分自身で作るのだという、そんなあたりまえのことに。
「縋っていた思い出を、いきなり断ち切られるのは辛いです。まして、『帰りたかった』場所の記憶が、色濃く心に残っている人は特に。立ち直るのには時間がかかります。だから、ゆっくりでいいんです。前へ、進んでください」
 いま、この卵の中を駆け巡る哀しみが、ショウには痛いほど感じられた。それは、少し前の自分の姿でもあったから。
 はじめて真実を知ったとき、これはなにかの嘘だと思った。
 怒りと、哀しみと、悔しさと――それらすべてがない交ぜになった感情が自分の中を駆け巡る。その感情の出口などなかった。
 受け入れるまで永遠に、心の中に残りつづけるのだ。
 何度も何度も痛みは襲う。どうしようもない辛さは、我が身を滅ぼしたくなるほどに苦しい。
「前を向けるようになったら、思い出してください。私たちがなぜ、ここにいるのかを。私たちの親が、なにを望んでいたのかを。本当に大切な願いを……」
 卵ができたその当時、子どもたちは幼すぎて、その願いがそこにはじめからあることに、気づいていなかった。
 隠された、最後の、そして、本当に託したかった願いを。
 ショウの視線が、広場の中央の記念碑のほうへとうつる。泣きたくなるほどの優しい気持ちが、そのとき、ショウの中に溢れ出した。
「『いつか未来が孵る日まで』――それが、私たちが最後に受け取った言葉です。彼らは私たちに、とても大切なものを託してくれました。これからも、未来をつなげていって欲しい、と」
 記念碑の中に収められた切り札とともに、願いはずっとそこで眠っていた。
 言葉に託したその気持ちをなんと言い表すのか、ショウは知らない。けれど、それは確実にショウの中に――そして住民たちの中に根付いて、全ての源となっていく。
 それはすなわち、明日へと続く希望。
 つなげていく、途切れない道。


「本当に大切なことは、これから先ずっと、受け取った思いと願いを継いでいくことです。はるか昔から続くその流れを、未来へつなげていくことです」
 ざわめきの中に、すすり泣く声が混ざった。
 それは絶望に打ちひしがれたものの哀しみの涙でもあり、希望に気づいたものの感極まった涙でもあった。
 そのどれもが確実に、前を向き始めているようにショウには思える。
 消えかけていた希望の炎は、そのときようやくほんの少しだけ、はじめて光を増した。
 心の中に積もった全ての哀しみを、涙が洗い流してくれている。不意をついた雨雲だって、時が過ぎれば次第に流れていく。
 ――その先には、どこまでも青空が広がっている。
「ここで立ち止まらずに歩いていきましょう。振り返ってばかりでは、私たちがここにきた意味がありません。立ち止まってすべてを捨てることは、託されたもの全てを無駄にしてしまうこと。それは、私たちがいちばんやってはいけないことだから」
 手を差し伸べる少女の幻影がそのとき、Egg Shellを駆け巡った。それはたったひとりで全てを受け止める少女の、精一杯の気持ちだった。

 幾度目かわからない、ざわめきの波がEgg Shellに広がっていく。
 けれどそれは、いままでのどんな種類のざわめきとも違う。
 空気が確かに変わりはじめていることを、ショウは感じていた。

 静かにもういちど辺りを見渡し、ショウはくるりと踵を返した。
 いまは誰の身にも、休息が必要だった。いますぐに決断を迫ることはできない。
 去っていくそのショウの後姿を、広場の住人たちは食い入るように見つめていた。それぞれの手に握られていた反抗の証は、もはや力なく地に落ちていた。
 広場の入り口付近に待機していた情報管理のメンバーたちが、こちらへ歩み来るショウへ視線で合図を送る。それぞれ明かりや食料やメディカル・ボックスなど、救助に必要なものを携えているのに気づき、ショウは信頼と感謝を込めて頷いた。
『情報管理エリアより、救助物資です! 全員分あります。落ち着いて、指示に従ってください! すぐに照明も復活します。皆さん、大丈夫です。落ち着いてください』
 拡声器を通してそんな声が広場を満たしていくのを、去りゆくショウは背中でうけとめた。
 すべては、少しずつ前へ進んでいる。


 時間にすれば、それほどかかっていなかったのだろうが、情報管理エリアの中枢部にショウがたどり着いたとき、もうずいぶんとこの部屋を空けていたような、そんな不思議な感覚に、ショウはとらわれた。
 Egg Shell全域へ向けて話をすることで、数日分の気力を使い果たしたのかもしれないし、広場からここへ戻る道すがら、多くの人に取り囲まれたせいかもしれない。
 怖れていた悪意は、ショウに向けられることはなかった。
 立ち直れていない人が多かったせいもあるけれど、それがすべてではない。
 ショウの声に希望を見出した住民が、彼女が来るのを待ち受けていたのだ。
 過剰な好意を受け取ることになれていないショウは、その待遇に戸惑ったものだが、ぎこちない笑みだったもののありがたく受け入れた。
 ともあれ、久しぶりでもあり懐かしくもあるこの部屋に戻ってきて、ショウはやっと一息つける、と少しだけ疲れた笑みで、ドアをくぐった。
「ただいま、皆さん。なんとか、できましたよ、私。皆さんのおかげです」
 数瞬ののち、顔をあげたショウは我が目を疑った。目の前には、おそらく業務でここを離れているもの以外、全ての情報管理のメンバーが集まっている。
 その誰もが、これまでにないほどの明るい表情で、笑みを浮かべていた。
「お帰りなさい、ショウ。……お帰りなさい」
 我慢しきれずそう言ったのは、長い髪をなびかせて飛びついたユリアだった。
 彼女が動いたのをきっかけに、まるでなだれのように人の波が押し寄せる。あっという間にショウは、メンバーたちにもみくちゃにされてしまった。
「ちょっ……み、皆さん、どうしたんですか? やだ、ユリア、泣かないでください。もう、本当にどうしたんですか!」
 常ならぬ喜びが、メンバーたちの心を満たしていた。
 誰より頼りないはずの、明らかに力は劣るはずのこの少女が、自分たちの誰よりも、いまは頼もしい。その誇らしさが、メンバーみんなの喜びにつながっていく。
 その気持ちが伝染したのか、ショウもいつしか笑顔になっていった。

 未来は明るい。
 つなげていく明日ははるかに遠くまで続いている。
 誰もがそのとき、疑いようもない未来を信じていた。