9.


 呆然とハルの消えたほうを見つめつづけるメイの手が、ためらいがちに引かれた。我に返った彼女があわてて振り向くと、そこには、どう対処していいものやら、戸惑い気味のヒロの姿があった。
「お前ら、周り見えてねえだろ」
 ふたりの『約束』をまざまざと見せつけられたヒロの顔は、心なしか淡い赤に染まっている。その、年相応のヒロの姿に、メイは一瞬あっけにとられたような顔をしたあと、こらえきれないとばかりに吹き出した。
 ハルとのくちづけを見られた恥ずかしさもあってか、必要以上に笑い転げるメイの姿に、ヒロはひどく情けない表情になる。すねたような顔がふいに背けられる。
「ヒロったら、妙なところでお子さまなのよね。そんなことじゃ、いつまでたってもショウは気づかないわよ?」
「うるさい」
 くすくすと笑いつづけるメイの視線を感じながら、ヒロは耳まで赤くなっているだろうことを自覚し、自分の中の気持ちと戦っていた。
 ハルと同じように、自分もショウに想いを告げたい。いつからだろう、彼女に対する想いは、ひとりの女性に対するものへと変わっていた。ただの口げんか相手ではなくなっていた。
 彼女が責任ある立場になってからは、特にその想いが強くなっていた。ともすれば押しつぶされそうになっているショウを、なんとかして自分が支えなければ、と思っている。
 彼らふたりの微妙な関係は、彼ら以外の皆の知るところではあったが、当の本人たちはまだ一歩も踏み出せていない状態なのである。ショウなど、自らの気持ちに気づいているかどうかも怪しいところだ。
 ヒロはヒロで、後一歩が踏み出せないでいた。なぜだか、ひとつの時間が終わるような気がして怖かったのだ。それに第一、いまはそんな場合ではない。
 ぐるぐると思考の螺旋階段を下り始めて、ヒロはしまいには頭を抱え込みかけた。そのヒロの服の裾が、ようやく笑いを抑えたメイの手に引かれる。邪険に振り払おうとしても、彼女の手はしっかりと裾を握ったままだ。
「なんだよ」
 すねた顔で振り向くと、先ほどのからかいを秘めた表情はなく、優しい、しかし真剣なメイの瞳があった。
「ありがとう、ヒロ。助けにきてもらったお礼は、一応言っておかないとね。できれば、飛びかかる前によく考えてもらいたかったけれど」
 あのとき、リアリィと自分とを守るために、体を張ってくれたヒロがとても頼もしく見えた。彼にならショウを任せておける、などということを思ったりもしたのだ。
 いくら危険だからとはいえ、大切なハルの首を絞めたのは少しだけ許せなかったけれど、あのときの状況を考えれば無理もないことだった。
 メイの言葉がかなり意外だったのだろう、ヒロは目を丸くする。あまりにあからさまなその反応を見て、メイはヒロを睨みつけた。
「私、あんたよりは精神的に大人なのよ」
「キスしたくらいでその気になるな、馬鹿」
「そのキスすらできないあんたになんか言われたくないわ」
 得意気になるメイは、ヒロの言葉に少しもひるまず言葉を返す。明らかに不利なヒロは反論する言葉をなくし、いきなりメイの手首をつかんで歩き出した。
「ちょっと、ヒロってばいきなり実力行使なんて卑怯よ」
 そのまま引っ張られる形になったメイが抗議の声を上げる。
「のんびりしている暇はないんだ。さっさと上に戻るぞ」
 片手に懐中電灯、小脇に道具を抱えて暗闇の方向へとふたりは突き進む。
 相変わらず振り返らないヒロの後ろ姿を見て、暗闇ながら彼の耳が赤く染まっているのにメイは気づいた。
 相変わらず純情なんだから、とメイはこれから先のことを思いやり、ため息をついた。


 再び長い階段を使い、ヒロはメイを居住区へと導いた。明かりがついたとはいえ、混乱は収まったわけではない。ピークは過ぎていたがざわめきはやむことはない。
 人混みの中を、苦労しつつふたりは進んだ。メイはどこへ行くかも知らされぬまま、ヒロに引きずられている。
 ようやく見覚えのある風景を目にして、一息ついたヒロはつかんだままのメイの手首をようやく放した。
「もう、ちょっとは女の子の扱いってものを考えなさいよね、ヒロ!」
 つかまれた手をさすりつつ、メイが愚痴る。そしてようやく、ここがどこなのかに気づいて目を丸くした。
 ひっきりなしに通信機の呼び出し音が鳴り、指示する声が飛び交っている。
 あちこちから真剣な人が駆け込んでくるそこは、Egg Shellの中心、管理エリアだった。


 電力停止以降、メイは居住区の状況を知らないままだった。ようやく居住区に戻り、なにかとんでもない状況になっているということはわかったものの、この管理エリアの様子を見るとその認識も甘いものかもしれないという気持ちが起こる。
 ひどく場違いなところに来てしまった気がして、不安げな瞳をヒロに向けた。
 しかし、ヒロはそんなメイの視線には気づいていない。なにかを探すように視線をさまよわせている。
「ショウ!」
 なにをしているのかと訝しみ、居心地の悪さにメイがヒロの服を掴んだとたん、ヒロはそう大声を出し、駆け足で部屋の先へとかけだした。掴んだ服が、メイの手から勢いよく離れる。
「ヒロ! もう、いきなりなによ!」
 周りの人間の視線を集めつつ、メイはヒロの後を追った。


「ヒロ、勝手に人をこんなとこにつれてきて、放っておくなんて勘弁してよね……。あれ、……ショウ?」
 上がる息を整えつつ、視線をあげた先にはしばらく見ない友人の姿があった。最後にあったのはいつだろう。自分のことを心配してくれていた彼女にもなにも言わず、自分はずいぶんと長い間部屋に閉じこもりきりだった。
 どちらかといえば頼りないイメージしかなかったはずの友人は、周りの、ショウよりよほど指導力がありそうなメンバーたちに囲まれて、それでもひるむことなく話し合いに加わっている。メンバーたちも、そんな彼女をとても頼りにしているようだった。
 おそらくとても大事な話をしているのだろう、そこだけはぴんと張りつめた雰囲気が漂っている。
 しかし、あろう事かメイの前にいたヒロは、そんな話し合いの場に割って入ったのだ。
 はじめ、迷惑そうに対応していたショウだったが、ヒロが何事かを彼女の耳にささやくとその顔色がさっと変わる。ショウは周りのメンバーになにかを言い、慌てたようにメイの方向へと駆け寄ってきた。

「メイ、大丈夫だったのね、よかった……」
 無事な友人の姿にほっとしたように、ショウが言った。リアリィから、エレベーターに閉じこめられたという知らせをもらったとき、メイも一緒だと聞いてとても不安だったのだ。
 精神的に不安定なメイが、無事でいられるとは思えなかった。
 しかし、いまショウの目の前にいるメイは、疲労の色は濃いけれども、絶望の色は見えない。
「ごめんね、ショウ。それとありがとう。ヒロをよこしてくれたのはショウなんでしょう? おかげで助かったもの」
「うん、それでちょっとヒロとけんかしちゃったんだけれどね。それよりも、その……ハルと接触したって本当?」
 ショウは、躊躇しつつも問いを投げかけた。
 Egg Shell内の混乱は、これ以上ひどくなることはないと思われた。しかし肝心の、解放計画がどう動いているかということがほとんどつかめないでいるのだ。少しでも情報があったほうがありがたい。
 メイの心情を考えると、こんなことを彼女に聞くのは酷すぎるという気持ちもあったが、Egg Shell全住民の未来がかかっている。
 我ながら、ひどい人間になったかもしれない、とショウは心の中でため息をついた。
「……エレベーターで下りたところに、ハルが来てくれたの。どうやってか知らないけど、閉じた扉を無理矢理開けて、助けてくれたの。それから、自分のことを話してくれて、やらなきゃいけないことがあるんだ、ってもういちど戻っていっちゃった。リアリィも一緒。……ねえ、これから、どうなるのかなぁ」
 努めて平静を装いつつ声を出すものの、それは成功したとはいえなかった。必死に笑おうとする顔が徐々にゆがんでいく。声が震えて、涙声に変わっていく。
 あの、一瞬だけのくちづけがよみがえる。優しいハルの声が耳元でささやいている。
 すべてがはかなく、にどととかえらないもののような気がして、メイは不安に襲われた。あの約束が、なぜだか急に色あせていく。
 気が緩んだ瞬間、熱い涙が白い頬を滑り落ちていった。
「メイ? メイ、ごめんね、もういいわ、話さなくていいから、ね。泣かないで、お願い……。みんな助けるから。ハルもリアリィもみんなみんな助けるから、ね?」
 泣き出してしまったメイを、ショウは途方に暮れたように見つめる。震える肩を優しく抱いて背中をたたいた。