8.


 ハルの柔らかな表情が真剣なものへと変わった。ひとつ、深く息を吸い込んでメイを見つめる。
 メイもまた、ハルが大切な話をしようとしているのを感じ、身を固くした。まっすぐなハルの視線を前にして、自然に息が詰まる。逃げ出したい、でも逃げてはだめだ、という相反する気持ちが彼女の中に生まれる。
 怖い。
 かすかに震える華奢なメイの片手を、形の良いハルの手が包んだ。
「メイ、聞いて欲しいことがある。君に、ずっとずっと話せないでいた僕の過去のことだ。聞いて……くれるよね」
 同じ質問を繰り返す。ハルも、いまだに恐怖を心の中に抱えていた。ゆえに、自然と語尾が弱くなる。しかし、ここでためらっては、ここまで来たという行動の意味が無くなってしまう。彼女の姿を見たときに、心を決めたはずなのだ。
 振り払われるかもしれない、覚悟を決めて挑む。震えないよう必死に抑えていたハルの手が、ふいに暖かい温もりに包まれた。自由なほうのメイの手が、ハルの手をしっかりと支えている。
 恐怖で、いつの間に下がっていたハルの視線が上げられる。そこには、メイの柔らかな顔があった。
 視線が合うと、彼女はゆっくりと確かめるように頷く。
「聞かせて。まだ、怖いけれど、でも、私もそのためにここまで来たんだもの。私、あなたのことをもっともっと知りたい」
 迷いの残る瞳。けれど、少女はきっぱりとそういった。


「僕は、本当ならここにいるべき人間じゃないんだ。ここに来て、危機から救われることも、君に出会うチャンスも、与えられるはずのない人間なんだよ」
 唐突なその言葉は、メイを困惑させるには十分だった。彼は、この計画が公にされる以前から収容されることが決まっていたほどの優秀な人材だと聞いている。それなのに、何故いるべきではないなどといえるのだろう。
 まさか、彼がなにか罪を犯した人間だとでもいうのだろうか。
「ずっと、誰にも知られないように隠し続けてきた。知られたら、きっと僕の命はないからね」
「どういうこと?」
 核心に触れようとしないハルに、メイの問いが重なった。訳がわからない。
「僕の父の名前は風見零。こう言った方がいいか、……Dr.ウインドなんだ」
 ため息とともに、決定的な言葉が吐き出される。ずっと胸に秘めていた、知られてはならない真実だ。すべてを致命的な崩壊へと導いた風と、決して切ることのできない繋がりが自分にはある。
 息を呑む声が聞こえた。恐る恐る顔を向けた先には、目を見開いたメイの顔があった。
「Dr.ウインドって……あの? そんな、ハルが」
 いくら世界情勢に疎いメイとはいえ、その名は聞いたことがある。Egg Shellの中では、もはや禁忌ともなっているそれは、すべての破滅をつくりだしたといわれている人物の名だ。
 ハルのためらいが、ようやくわかった気がした。確かに、こんなことを軽々と言えるわけはない。息子だという事実だけで、ハルはEgg Shellの住民からひどい扱いを受けてもおかしくはない。
 重い真実に、メイの体が小刻みに震える。
 少女の様子を見て、ハルはひどい後悔に襲われた。恐れていたこと、メイに自分が拒否されてしまうことを、ずっと避けていたのに。時間はもはや取り戻せない。いちど解放されてしまった言葉は、にどと無かったことにはできないのだ。
 握りしめていた手が、力を失う。再び振り払われるのが怖くて、ハルが自ら力を抜いたのだ。
 しかしその手は、下へと落ちることはなかった。
 震えながら、それでもメイは、ハルの手を包み込んでいたのだ。深く息を吸い込んで、彼女は何かを決意した調子に頷いた。
「……話してくれて、ありがとう。怖かったよね、辛かったよね。ずっとずっと、そんな秘密を抱えていたなんて。誰にも、話せなかったんだよね。まだ、信じられないよ。ちょっぴり怖い。でも、でもね。私、あなたがそうやって打ち明けてくれたことに応えたいの」
 見捨てられた子どものようなハルの瞳が、おずおずとメイに向けられる。
 そんなハルの視線を、少女は精一杯の微笑みで受け止めた。
 ハルが精一杯、勇気を振り絞ってくれたのだ。それに自分も応えなければ、ここへ来た意味がない。
「ありがとう、メイ……」
 柔らかい温もりに包まれた手を引き寄せて、ハルは安堵の吐息を漏らした。


「僕が産まれた頃は、父も普通の人間だった。少し潔癖すぎるところはあったけれど、それでも普通だった。研究者としてそれなりの成功を収めていて、生活にも余裕があって。父と母、そして僕は、本当に普通の家族だったんだ」
 促されるまま、ハルは自らの過去を語る。メイは静かに、彼の言葉を聞いていた。少しだけとおくを見つめるかのようなハルの瞳は、遙か過去、なつかしい幸せな時間をその先に映している。
「父と母は仲が良くてね、息子の僕から見てもまるで恋人同士のようだった。いろんなところに連れて行ってもらったよ。一番思い出深かったのが、父の故郷に連れて行ってもらったときかな。そう、まるでずっと昔の地球の自然を見ているようで、緑がいっぱいでね。ずっと、幸せな時間が続くと思っていたよ、それを見ながらね」
 ひとつ息をついてメイのほうを見る。少女は首を傾げてその視線に応えた。
「でも、その通りにはならなかった。父は変わってしまった。哀しいことに、故郷に連れて行ってもらったときからね。母や僕に向ける視線ですら、昔とは違っていったんだ。まるで命のないものに向けるような、心の入らない視線になった。いまでも、僕には理由がわからない。いちど聞いてみたけれど、たった一言だけ、あんなものは自然じゃない、故郷でもないと答えてくれただけだった。それすらもまるで吐き捨てるような様子で」
 ハルの瞳の色に、わずかに痛さが混じる。泣き出しそうなその表情を見て、メイはハルを勇気づけるように、手に込めた力を強くする。
「父は、家に帰らなくなった。待っても待っても、母と僕のところに帰ってくることはなかった。次に父の名前を見たときには、すでにDr.ウインドといわれていたよ」
 すでに風見という名前は呪われたもので、彼らはその名を捨てざるを得なかった。ずっと風の名を隠したまま、のこされた母子は密かに生き続けた。
 そしてまた、父が姿を消したときから、母も変わったとハルは言う。父の面影を色濃く残した息子の顔も、緑に興味を持ち、研究の道を歩み始めた息子の姿勢もすべて、去ってしまった男の影を思い出させるには十分だったからだ。
「……父の故郷に行ったとき、母が本当に嬉しそうな顔をしていたから、僕は植物を研究する立場になった。父が誇りを持って研究をしていたのを知っていたし、緑が再び世界にあふれるようになれば、母もきっと喜んでくれると思っていた。逆効果にしか、ならなかったけれど。母も、僕が研究の世界で名を知られるとともに姿を見せなくなったよ。どこに行ったのか……にどとと見ることはなかった」
 幸せの象徴だった家族は、訳もわからぬうちに終焉を迎えた。
 幼くして世界に知られるほどになったハルは、本当の名前を隠し続けたまま、寄るべきものもなくさまよい続ける。
「荒野の中、必死に生きる人々の中で僕も朽ちていこうと思った。そんなときだよ、当時僕が使っていた偽名宛てではなく『本当の名前』宛にEgg Shellの招待状が届いたのは。悪い夢でも見ているんじゃないかと思った。僕の正体のことは、誰にも知られないようにしていたはずなのにね」
 彼が招待状を受け取ったことは、瞬く間に荒野に広がった。年若いくせに、その知識から誰よりも頼りにされていたハルがここを離れることは、大きな衝撃だったのだ。
「はじめは、Egg Shellになんてとてもじゃないけれど行く資格はないと思った。だって、僕はそもそもの原因をつくった男の息子なんだからね。それなのに、『風見春』にEgg Shellに来いという。理解できなかった。だからはじめは、招待状を無視したんだ。そうしたら、ね、計画者直々にまた要請が来たんだよ。『その名を重荷と感じるならば、なおさら来い』とね」
「……それってどういう意味?」
 首を傾げたメイが言葉を発した。
「僕もわからなかった。あえて危険を冒すような真似を、計画者自らするとは思えなかったからね。だから、尋ねてみたんだ。どうして僕を必要とするのかって。Dr.ウインドに連なる自分が、命を救われる理由がどこにあるって」
 いまでも、そのときのことは印象深い記憶としてハルの中に残っている。計画者は、ハルの問いに対して柔らかく微笑んだのだ。
『私は君の命を助けたのではないよ。守るべきは未来の地球だ。そのためには君の力がいる、それだけだよ。その名が罪の証と認めるなら、君自身がその名誉を回復すればいい』
 目を背けずに立ち向かえば、いずれ光が見えると男は言った。
「そして僕はここにいる。命を閉じこめた、眠れる卵の中に。未来に緑を蘇らせるために、再び鮮やかな陽の光がそれらを照らす日のために。誰にも知られないように、僕は罪を心の中に隠し続けてきた」
「それが……ファムたちに知られちゃって、ハルは脅迫されていたの? だからこんな、Egg Shellを壊そうっていう計画に参加しちゃったの?」
 そうでもない限り、ハルが破滅に手を貸すとは思えなかった。いまでも、心の中にぬぐい去れないほどの不安と戦っているだろう優しい青年が、すべてを破壊してしまおうという父の狂気の助けをするとは思えない。
 すがるような目つきをしたメイの顔が、ハルに向けられる。彼がすすんで父の狂気をなぞるなどと信じたくはなかったのだ。
 そんなメイの視線を、ハルは柔らかく受け止めた。頭をぽんぽんと軽く叩き、そのまま彼女を引き寄せる。少女の感触を確かめるように抱きしめた。長い彼女の黒髪に口付けるような形になる。
「うん、はじめはね、メイたちにこの正体を知られるくらいなら、っていう気持ちが強かった。怖かったんだ。ただ、それだけが理由じゃなかったけれど」
「ハル?」
「僕にはやるべきことがあるとわかったんだ。父の思惑を越えて、Egg Shell計画を成功に導くために。だから、すすんで彼らの計画に乗るフリをした」
 父の狂気のあとをなぞり、それを越えて緑を蘇らせる。幾度呑み込まれそうになっただろう。何度放り出しそうになっただろう。それももう、あともう少しで終わる。
「じゃあ、ハルは本気でEgg Shellを破壊しようとは思っていないのね」
 ようやく求めていた答えを得られて、少女は安心したように息をついた。
「だったら、ハルはもう私たちと一緒に行けるんでしょう? もう、ファムたちの計画に乗せられなくて済むんでしょう。明かりは消えたけれど、混乱はあるけれど、もう大丈夫だわ。あとは普通の生活に戻るだけだもの」
 いつも通りの生活が再び訪れる。それはメイにとって疑うべくもない未来の形だった。
 しかし、メイが期待していたような、ハルの答えは得られなかった。
 笑って頷いてくれるだろうとばかり思っていた青年は、黙って首を横に振ったのだ。
「どうして?」
 思わず上げた大声に、とおくにいたヒロやリアリィも振り返った。
 なにか起こったか、と血相を変えてふたりは駆け寄る。
「ハル! メイになにをした? メイ、なにがあった」
「ヒロ、そう慌ててはだめよ。ねえ、メイどうしたの? メイ?」
 視線を合わせたリアリィが、優しくメイに問いかける。続けて、なにが起こったの、と問いかけるような視線をハルに向けた。
「メイ、僕は君と一緒には行けない。僕にはまだ、やるべきことが残っているんだ。最後の最後に、僕の仕事がある。やり遂げられなければ、僕たちはこのまま滅ぶしかないんだ」
 ひとつひとつ言い聞かせるようにハルは言葉を紡いでゆく。
「ヒロ、リアリィ、メイを居住区に連れて行ってくれないか。僕はこれからまた、あの場所へと戻る。どうしてもやらなければならないことがあるんだ。虫のいいことを言っているのは承知している。けれど、どうしても必要なんだ。僕は君たちと一緒には行けない。Egg Shellを守りたいからこそ、すべての未来を守りたいからこその行動なんだ。わかってくれないか」
 どうか頷いてくれ、と願いを込めてリアリィとヒロに頭を下げた。恐る恐る頭を上げて、ふたりの様子をうかがう。
「納得できねえな」
「私もあなたと一緒に行くわ」
 答えは同時に互いの口から発せられた。苛々として言葉を投げつけるヒロと、決意を瞳にみなぎらせて前を見つめるリアリィ。
「リアリィ!」
 正気じゃない、と止めるヒロとハルの声が重なる。しかし、リアリィは首を縦に振ろうとはしない。
「ハル、あなたにやるべきことがあるように、私にもやるべきことがあるの。誰にも止められない、私の仕事があるの。そのために、なにがなんでもアキとファムに会いに行くのよ」
 驚いたように自分を見つめるヒロに向き直る。
「ヒロ、あなたがメイを上まで連れて行ってあげて。私たちは必ず、戻ってくるから。行かせて、お願い」
 引き止める暇をヒロに与えず、リアリィはハルのもとへ駆け寄った。
「リアリィ……いいのかい?」
 とまどい気味に問いかけるハルに、リアリィはしっかりと頷いた。


「本当に、戻ってくるんだな。それに、これ以上Egg Shellを危険な状態にしないんだな」
 しつこいまでに、ヒロが問いを重ねる。いまにもハルに駆け寄りそうになるメイを止めるために、腕を強く掴んでいる。闇へと姿を消そうとしているふたりに鋭い視線を向けた。
「大丈夫よ、ヒロ。ショウにもちゃんと伝えてね」
「わかっているよ。大丈夫。それより、メイを頼んだよ」
 メイは瞳に涙をためて、青年のほうをずっと見つめている。
「……約束だからな、必ず帰って来いよ」
 それを了承ととったふたりは、頷きあうと揃って姿を消していった。

「メイ、行くぞ、ほら。約束だってしただろう、必ず戻ってくるって」
 動こうとしないメイを、困ったように見つめたあと、掴んだ腕を強く引っ張った。
「ちょっと、痛いわよ! 追いかけないから放してよ……」
 なおもハルの去ったほうを見つめたままのメイの言葉を、信じられるわけがない。ヒロはなおも腕を放さず、メイに帰還を促した。それでも少女は動かない。
 と、なおも動こうとしないメイの耳に、せわしない足音が聞こえてきた。闇の中からふたりのもとへ、駆け寄ってくる誰かがいる。
 身構え、メイを背にかばったヒロが見たのは、息を乱したハルの姿だった。つい先ほど、姿を消したばかりの彼が、戻ってきたのだ。
「ハル!」
 驚いたヒロの隙をつくように、腕を振り払ったメイはハルに駆け寄った。勢いもそのままに、ハルに抱きつく。受け止めたハルもまた、しっかりと彼女を抱きしめた。
 耳もとにささやく。
「忘れ物」
 微笑んだハルが、ふ、と彼女に唇を落とした。
 きょとんとハルを見つめたメイの視界が、ひどく薄い茶色に染まる。
「すべてが終わったら、必ず君のところへ帰るよ。約束する。だから、絶対に、待っていて」
 そよぐ風のように、ハルの声がメイを包む。
 ようやく我に返ったとき、青年の姿はすでにそこにはなかった。