2.


「ねーえ、ハルお兄ちゃん。メイお姉ちゃん遅いねえ」
「もう少し待ってみよう。それでも帰ってこなかったら僕たちで迎えに行こうね」
 そろそろ我慢の限界に近づいてきたらしい子どもたちを優しくなだめると、ハルはぼんやりとあたりを見回した。
 白い無機質な壁に囲まれた広場には少しでも安らぎが得られるようにと緑はあるが、鮮やかな色彩はない。花が咲けば少しは変わるだろうか。
 思い思いにみんなが安らう場所の中央に綺麗に飾られた碑が目に入る。
『最後の希望を子どもたちに。いつか未来が孵る日まで』
 と刻まれたそれは、ここの住人たちの希望の証でもあった。この卵は孵ることができるのだろうか。浮かんだ疑問を慌てて振り払う。信じられなくなったらその時点でなにもかも終わりになってしまう。それだけは絶対に嫌だった。


「ハールっ! ねえ、ハル?」
 突然目の前にメイの顔が現れ、ハルは表情には出さないもののわずかに動揺した。憎からず思っている少女の顔がいきなり目の前に出現すれば、驚かない男はいないだろう。
「え? あ、ああ、ごめんメイ。それにしても遅かったね」
 腕にしがみついてくるメイを笑顔で受け止める。メイは少し非難の色の混じったハルの言葉を受け、ぷうっと頬を膨らませた。
「だって、大変だったの。図鑑借りに資料室に行ったらヒロは私のことまたウサメイって言うし、ショウのことからかって。ショウはショウで大声で叫ぶし」
「また? 懲りないね、ふたりとも。それはそうとメイ、図鑑は?」
「ここ。あと、重たかったからヒロに持たせてきちゃった」
 ハルはヒロへの同情の念が湧いたが、にっこり笑ったメイの顔に微笑みを返すと同時にその同情はすっかりと忘れ去られていた。
「ね、ハル。みんな待ってるから行きましょ! 私も楽しみなの。どんなお花がいいと思う?」
 まだハルの腕にしがみついていたメイがうっとりと言うと、ハルもまたにこにこと子どもたちのほうへ向かった。


 会議室に乾いた靴音が響いた。隙なくぴしりと固めた格好をした男のほかには、誰もいない。会議が終わって、スタッフたちは皆出払っている。彼率いる情報管理エリアで新しく大きな仕事に取り組むことになったため、皆時間に追われていた。
 十二年もの長い歳月を経たEgg Shellの現状把握とこれからの予測立てのため、Egg Shell組織全体のまとめをすることになったのだ。
「十二年、か。大したトラブルもなく私たちはここまで来ることができた。これまではうまくやれた。だから……」
 確かめるようにひとつひとつ言葉を紡ぐ。先の見えない恐怖から逃れるように。自信を失わないように。
 いつも他人に見せる表情からは想像もつかない様子で、男は物思いにふけっていた。彼の手には分厚いファイルが握られている。それが彼の悩みの原因なのだった。
 Egg Shell管理者、アキ。彼はどうしようもない焦りと不安をその身に抱え、道を見失いかける、そのさなかにいた。

【通信記録:定時連絡なし。引き続き応答を待つ。
        <Egg Shell封印より二年>
        定時連絡なし。引き続き応答を待つ。
        <Egg Shell封印より三年>
        定時連絡なし。引き続き応答を待つ。
        <Egg Shell封印より四年>
        定時連絡なし。引き続き応答を待つ。
        <Egg Shell封印より五年>
        定時連絡なし。引き続き応答を待つ。
        <Egg Shell封印より六年>
        定時連絡なし。引き続き応答を待つ。
        <Egg Shell封印より七年>
        定時連絡なし。引き続き応答を待つ。
        <Egg Shell封印より八年>
        定時連絡なし。引き続き応答を待つ。
        <Egg Shell封印より九年>
        定時連絡なし。引き続き応答を待つ。
        <Egg Shell封印より十年>
        定時連絡なし。引き続き応答を待つ。
        <Egg Shell封印より十一年>
        定時連絡なし。引き続き応答を待つ。
        <Egg Shell封印より十二年>...............】

 何度確かめても文字とそれが表す事実は変わらない。十年前からとうに外界との連絡は途絶えていた。通信機能を使えるのはアキだけだったから連絡が途絶えたことを普通の者は知らない。アキも、通信が途絶えたことを公表しなかった。
 できなかった、というほうが正しいかもしれない。いつか元の生活に戻れるだろうと希望を抱いている、比較的高い年齢の者たちにとって、外界と連絡が取れないのは、すなわち絶望と同じである。
 公表が混乱を招くのは明らかだった。どんなにひどい世界であったとしても、自分の産まれた地がなくなってしまう悲しみは変わらない。もうにどと会えなくなってしまった家族、友人……。うしなわれた大切なものはもうかえらない。
「もうなにも残されていない。帰りたかった故郷も会いたい人も。けれど私たちは生きなければならない」
 それが彼に課せられた使命だった。放棄することは許されないはずだった。
 けれどともすれば、絶望の支配する世界で、ほんの一握り残された良心が託してくれた未来を捨て去ってしまいたくなる。
 ――風に、心を売り渡してしまいそうになる。
 できるならこんな現実など見たくはなかった。父と共に外の世界にいたほうがよかったのではないか。最期まで共にいたかった。しても詮ない後悔が襲った。
 父と別れたときの、あの胸が痛くなるような表情を思い出す。父はもしかしたら、こうなることを予測していたのかもしれない。だから、張り切る自分にあんな表情を向けたのかもしれない。


 部屋を飛び出したショウは、ぱたぱた足音をたてて走っていた。顔には笑みが浮かび、すれ違う者たちはなにか嬉しいことがあったのだろうかと想像をめぐらせた。
 ショウにとって、アキから呼ばれるということはなによりも嬉しいことだった。なにもできないと落ち込んでいた彼女に情報管理の仕事をするように言ってくれたのは彼だ。だからショウにとってアキは父であり、兄であり、大切なあこがれの人。彼女の中で、アキに関する事柄が最優先になっているのも仕方のないことだった。

 漏れ出す空気が音を立てて、ドアが開いた。明かりもつけずに椅子に座ってなにやら考えているアキの姿がショウの目に飛び込んできた。
「ショウです。お呼びということで参りました」
 控えめに近寄り、明かりを付ける。
 一気に明るくなった室内に、アキは慌てて顔を上げた。どうやらショウが来たことに気がつかなかったらしい。こわばった顔を無理矢理ほころばせショウを迎える。
「ああ、ショウ、突然呼んですまなかったね。ちょっと頼みたいことがあって来てもらったんだが」
「えっと、あの、その。そんな。私は」
 赤くなり、しどろもどろになって言葉を返すショウに、幾分落ちついたのか、今度は無理のない笑みを浮かべてアキが立ち上がった。持っていた通信記録を見つからないようにショウから遠ざける。
「頼みたい事って……なんでしょう」
 アキの焦りにも気づかずにショウが質問を返すと、彼は明らかにほっとした様子で彼は話し始めた。

「このEgg Shell計画が開始されてからもう十二年になる。まとめるべき資料もずいぶんと溜まっていてね。情報管理の他のメンバーにも頼んでいたのだがそれでも人手が足りない。手伝ってもらえるかい?」
 情報管理エリアとは、本来かなり重要度の高い所である。よってそこに所属する人間は集められた者たちの中でも優秀な人材がそろっていた。アキがショウを情報管理エリアの所属とする際、かなりもめた事をショウ自身も知っている。結局ショウは情報管理エリアでも重要度の低い資料室管理という立場で落ちついた。
 《他のメンバーがしている仕事》とは情報管理エリア本来の仕事と深く関わりを持つような重要なものなのだろう。そんな重要な仕事にショウを加えてくれるという。どうにも信じられない気持ちで聞き返す。
「私にそんな大切な仕事を? 私は特に優れたところのないごく普通の人間です。他のメンバーたちのようにうまくできるわけありません。それでも?」
「ショウ、もうそろそろそんな気持ちは捨てたほうがいい。ショウはずっとここの仕事を見てきただろう? 他のみんなと比べてどこも劣っていないと私は思っているよ。ショウには環境調整の植物エリア担当者と機械調整・開発エリア担当者、それに教育担当者のそれぞれから計画開始よりいままでのEgg Shellの設備・メンバーの状態を記録した資料を受け取って整理して欲しい。特に環境調整は今後の私たちの生活に深く関わるから注意してくれ。それぞれの担当者と協力すればそれほど難しいことでもないはずだから頼んだよ」
 思いがけず重要な仕事を任せられて固まっているショウの肩を軽く叩き、アキは散らばっていたファイルやディスクをまとめて会議室から去っていった。
「どうしよう、私……」
 後に残されたショウは、呆然とそう呟いた。