7.


「メイ、ハルに近寄るな!」
 押しやられたヒロがメイに叫ぶ。ハルは危険だ。彼女になにがあるかわからない。その身に流れる血がどうの、というつもりはなかったが、彼は滅びの風より生まれし者だ。
 いままでにないくらいの、ヒロの激しい姿。その様子を、大きな瞳の少女は涙目になって見つめている。
 その手にはしっかりと、ハルの白衣の裾が握られていた。
「ハルがなにをやろうとしているのか、メイは知ってるのか? 大勢を巻き込んだあげく、どんな恐ろしいことをしようとしているのか!」
 すべてを滅ぼし無に返す――。心に闇を生じさせようとしているのが彼らなのだ、と声を上げる。
「知っ……」
 知っている、と言いかけて、メイは急に口をつぐんだ。そう、自分はなにも知らない。彼が何故、いまになってここへ来たのかすらも。
「でも……でも、ハルはハルだもの。ずっとそれだけは変わらないわ。私が知ってる、ずっとそばにいてくれたハルよ!」
 いちどは互いの手を振り払ってしまったけれど、変わらない、諦めきれない思いがある。目の前に急に現れた霧に惑わされてしまった視界が、少しずつ、晴れていく。
 ようやく身を起こしかけたハルに、メイはためらいもなく抱きついた。
「ハルは危険なんかじゃない」
 メイの大胆な行動に、ハルは大きく目を見開いた。離ればなれになってしまった手が、再び伸ばされようとしている。とまどいがちに、ハルはメイの体を受け止めた。恐る恐る、彼女の体に手を伸ばし、軽く抱きしめた。
 胸が苦しい。触れて抱きしめるだけで、こんなにも。

「……ヒロ、リアリィ」
 ゆっくりとハルが口を開く。ふたりが見上げたハルに瞳には、もう氷も刃のきらめきも映ってはいなかった。
「メイを離して投降するか?」
 いまだに警戒を解かないヒロが声を投げかける。その声に、ハルはゆるく首を振った。
「しばらく、メイと話をさせてもらえないか。彼女に危害を加えるような真似は絶対にしない」
 しかし、ハルのいままでの行動を考えると、到底信用されるはずはない。ヒロは激しい口調で、再び投降を促した。
 こちらが切られてしまいそうな視線がなければ、ヒロに恐れるものはない。はじめのように勢いよく飛びかかり、ハルを拘束すればいい。ためらいは消えていた。
 しかし、行動に移ろうとしたヒロを、なにかの力が引き止めた。
 あくまでやんわりと、遮る手。
 振り向くとそこには、蜂蜜色の髪のリアリィがいた。

「リアリィ、放してくれ」
 でないと取り返しの付かないことに、と視線で訴えるヒロをよそに、リアリィは一歩も引こうとしない。
 いままで冷静に様子をうかがっていたリアリィの表情は揺るがない。すべてを見通すかのような笑みを浮かべて、ヒロよりずいぶんと細い腕でしっかりと彼を押さえている。

 エレベーターの扉が開いたとき、彼はひとりで彼女たちの目の前に立っていた。確かに、表情を隠す氷の仮面はかぶっていたけれど、その瞳に浮かぶのは、まぎれもなく彼本来の優しい光だった。
 彼がなんのために、自分たちの所に来たのかはわからない。自分たちがここにいるということが、何故ハルにわかったのかも。
 ただ、これだけはわかる。こんな状況で、たったひとりでここに来るためにはそれなりの覚悟が要ったはずだ。
 それほどに、伝えたいことがあったはずなのだ。
 これがもしかしたら、最初で最後の機会かもしれない。そう思ったに違いない。いまだに未来は混沌として、伸ばした手の先すら見えないのだから。

「ヒロ、話をさせてあげましょう。メイはそのために私と一緒にいたのだもの。ハル。メイはあなたのこと、ずっと考えていたのよ」
 リアリィがハルに視線をうつす。戸惑う顔に微笑みかけた。隣にいたメイは、そのリアリィの顔に張りつめていた表情をふっとゆるめる。自分の中の勇気の種が、どんどんと大きくなっていく。大きくメイは頷いた。

「さあ、ヒロ、扉はもう開いてしまったけれど、すぐに直るかどうか見てもらえるかしら。このままだと色々と困るでしょう」
 いまだに納得がいかない様子でハルを睨みつけていたヒロは、なおも腕を引くリアリィに負けてその視線をずらした。
 リアリィの手をやんわりと遠ざけて、放り投げた道具を入れた箱を半ば自棄になって引っ掴む。遠巻きにその様子をうかがうリアリィたちをよそに、ヒロは開け放たれたエレベーターのほうに、無言で向かった。
 修理に取りかかったヒロの姿を認めると、リアリィはわずかに安堵の息をつき、ハルとメイのほうに向き直る。
「私も、ヒロのところにいるわ。ふたりで話していらっしゃい。ただし、姿の見える範囲にいてね。またヒロが怒り出してもいけないでしょう?」
 もういちど微笑んだあと、リアリィもまたきびすを返した。


 そうしてそこにはハルと、彼にしがみついたメイだけが残された。
 ハルの身に回されたメイの手が、やんわりと押さえられ、白衣の体から放される。振り払うのではない、存在を確かめるかのような、優しい触れ方。
「少し、痩せたね。僕のせい?」
「ハルこそ、白いとおりこして青白いじゃない、顔。無理、したんでしょ」
 ありきたりの言葉の裏に、互いを思いやる気持ちが見え隠れする。
 メイは、自分に触れるハルの手を、ゆっくりと持ち上げた。冷たい手が少女に触れると、少しずつ温もりを取り戻していく。
「ハル……ちゃんとここにいるのね」
 泣いて、意地を張って、見ないようにしていたいまがようやく目の前に広がる。忘れてはいけないものが、ようやくその手に戻ってきた。
「……メイ」
 白いなめらかなメイの肌の感触が、ハルの中の感情を抑えきれないほどに高めていく。こんなにも自分を想ってくれている少女に、自分は応えられるだろうか。いまでも怖い。自らの血を受け入れられない気持ちはまだ残っている。けれど。
「メイ……!」
 細い体が白衣に包まれる。ハルの色素のうすい髪が、メイの漆黒の髪に混じって溶ける。力強く、それでも優しく、いままでの空白を埋めるかのように、青年は少女を抱きしめた。
「ハル」
 痛いほどに抱きしめられ、思わずメイの息が詰まる。でも、いつかのようなすがりつくのではない、暖かいそれに、思わず胸の内が熱くなった。
 ゆっくりと、与えられた温もりを確かめるように、少女もまた青年を抱きしめる。

「メイ、君に知っておいて欲しいことがあるんだ。とても、大事なことなんだ。話したら、君に嫌われるんじゃないかってずっと怖かった。だから、話せなかった。できればずっと隠しておきたかったんだ。でも、それが逆に君を悲しませるのなら、思い切って話してしまおうと思う」
 少女の耳元で青年がささやいた。温もりに浸っていたメイは、ようやく瞳をあげる。暖かさと冷たさと、相反する色を同時に宿したハルの瞳が一瞬、頼りなさげに揺れる。
 しかし、なおもメイが見つめると、しっかりとした眼差しに変わった。
「そのためにここに来たのね。でも、どうして私がここにいるってわかったの? だって、私はずっと部屋に閉じこもってばかりだったし、明かりだってついてなかったし、変な爆発も起こってたし……」
 いささか支離滅裂な言葉ながら、至極当然の質問をメイは投げかけた。
「君たちはエレベーターが止まる前、どこかに行こうとしてたろう。表向きは存在しないはずの隠された空間じゃないのかい?」
 ためらいがちにメイが頷いた。リアリィがハルもそこにいるといっていたから、おそらく間違いはない。
「明かりが落ちる直前、僕はエレベーターの様子を映したモニタの前にいた。君たちが向かおうとしていた空間にある、ね」
 あと少しもしないうちに闇に閉ざされてしまうことなど関係者以外に誰も知らなかったあのとき、Egg Shell内の様子をくまなく観察するために設けられた部屋にハルはいた。混乱が最高潮に達したときにこそ彼の出番があったからだ。
 いくつものモニタがさまざまな姿を映す中、彼はひとつの画面に釘付けになった。
 もうにどと会うことはできないと思いこんでいたはずの少女の姿が見えたのだ。
 明かりが落ち、闇の中に沈む混乱を映し出すモニタをよそに、ハルは少女たちの姿を追い続けた。とぎれとぎれに拾われてくる声に、少女が自分を想う心が込められている。
 ハルの心もまた、少しずつ変わっていった。

「ごめんね、エレベーターの中の話、少しだけ聞かせてもらった。それで、君たちのところに行こうと思った。すべてを君に打ち明けようって」
 普通なら通れないような、変なところをくぐり抜けなければならなかったけれどね。と苦笑して付け加える。改めてハルの姿を見てみれば、いつもはしわひとつ、染みひとつない彼の白衣には、ところどころひっかき傷や油汚れのようなものさえついている。
「……ハルったら」
 青年の声につられたのか、メイも久し振りの笑い声を漏らした。