12.


 暗がりの中、かすかに音が響く。それは、小さな寝息だった。
 それに気づくと、訪問者はかすかに声を漏らした。安堵の吐息。気づかれないようにそっと歩み寄ってランプのあかりをつける。広がった暖かい光をうけて、訪問者の姿が浮かび上がった。黒髪が照り映える。彼女は厳しさの中に優しさを秘めて、そっと立っていた。
 彼女の目の前には、少年のような表情を浮かべた男が、眠りの海に漂っている。あかりをつけても起き上がる様子は無く、安らかな寝息だけがそこにあった。
 彼女――ファムは、普段他人に見せることのない、驚くほど優しい笑みを浮かべて男を見つめている。男のやわらかい髪をその細く長い指にあそばせていた。
 ふとした拍子に、ファムの指が男の頬にあたる。長い爪ではじいたか、男は身じろぎをした。まどろみからうつつへと、意識が浮かんでゆく。ゆっくりと開かれた瞳が、ファムを見つけて微笑んだ。彼の持つ名前とは裏腹の、黄昏の憂いを秘めた色がきらめく。
「君、か。おはよう」
 時間の感覚はもはやない。起きるときのならいとして思わず口から出たその言葉に、ふたりは顔を見合わせて笑いを漏らした。
「おはよう、アキ」
 黒髪の中に浮かぶやはり黒い瞳が、あかりをうつして輝く。

「首尾は上々。噂は滞りなく広がっているわ。貴方のほうは?」
 無粋な強いあかりをつけてしまうのが惜しくて、ふたりは薄明の中、表情だけを普段のものへと変えた。
「プログラムは組み終わったよ。ようやく、ついさっき仕上がったところだ」
「それで安心して眠っていたって訳ね。あたしたちが外で駆けまわってるときに」
 アキが外に出られないのは承知していたが、先ほどの彼の、あまりに安らかな寝顔に腹が立って、ついそんな言葉が口を突いて出た。彼女の口元が笑っているためか、アキは本気にした様子は無く、ただ薄く笑いを浮かべているだけ。なぜかそれがいっそう、ファムにとっては悔しくてならないのだ。
「ねえ、アキ。貴方本当に後悔してないの? 何度も言ったことだけれど、生半可な覚悟じゃできないことよ」
「今更、君らしくないね。はじめに私を誘ったのは君だったのに。私しか知らないはずのこの部屋に、君の姿を見つけてどれくらい経つ?」
 肩に流したままのファムの髪に口づけて、アキはかすかに笑みを漏らした。


 恐れていた日が来てしまったときのことを、アキは思い出していた。もし、外との連絡が途絶えてしまったら、という恐怖が現実になった日だ。それでもはじめの数年は、自分の気持ちを抑えることができた。なにかの間違いだ、という気持ちも、わずかにあった。
 だが、残された思いのかけらを手にしたとき、感情はついに、抑えていられなくなるほどに膨れ上がっていってしまった。万にひとつも、父が生き残っている可能性がないことを、直感としてわかってしまったからだった。
 このシェルターに、子どもだけを収容させた父のことだ、星の海に自分の身を逃がすなど、ありえないことだった。
 多くの人を救えなかったせめてもの償いとして、父ならば助からない道を選んだろう。
 そして、信じられない気持ちのまま、外の様子を見た日のことを、アキは忘れることができないでいる。モニタから見た懐かしい外の様子は、これが本当に現実のものかと思えるほどの様子だった。過去のおもかげは無く、ただ崩壊し、荒れ果てた大地だけが広がっていた。
 そして、残された道はひとつしかなくなった。
 けれどアキには、その道をとることも、まして、外の様子を伝えることもできはしなかった。
 だが、どうしてもあきらめきれず、それからも通信をやめることはなかった。もしかしたらどこかに、人の証が残されているかもしれない、そんな気持ちだった。
 そうして、そんなとき、彼女に出会ったのだ。

 自分以外誰ひとりとして知らないはずのその部屋に、自分以外の人間の気配を感じた。息を殺してそれを探ると、明らかになったのは過去に潜んだ黒い想いと、父が誰より憎んだ、風の使者の存在だ。
 父が残した計画にさえもそれが潜んでいることを知り、はじめに感じたのは怒りだった。なにがあっても、屈するわけにはいかないと思った。けれど……けれど。
『憎みたいなら憎みなさい、恨んでもいいわ。でも、あたしたちの望みを貴方は止めることはできない。貴方たちが外で、のうのうと平和に暮らしていたとき、あたしたちが裏でどんな辛酸をなめてきたか、それがわからない貴方になんか』
 そう激しく言い放ったときの、ファムの悲しげな様子を、どうしても心から捨て去ることができなかったのだ。甘くささやく花よりも、逆らいがたい力を持っているその姿を。
 管理者という孤独な立場と、ひどく似通っているような、そんな気さえした。
 心に浮かんだ、その感情をはじめは後ろめたい気持ちで抱えてきた。正面から受け入れられるものでは、どうしてもなかった。いまでも、目の前に父が現れたらと思うと申し訳ないという心はある。すべての人を裏切って、彼女を選んだということが、どれだけの罪を背負うものなのか、痛いほどわかっていた。
 自分を慕ってくれていた情報管理エリアのメンバーたち。いまも必死になって秩序を守っているだろう彼らにも、顔向けができない。特にショウは、自分がここへ来るための身代わりにさせてしまった。
 それがたとえ崩壊のための欠かせないプロセスだとしても、ひどく申し訳ないと思う。
 それでも、自分の心に逆らうことができなかったのだ。いまでもひどく悲しげに、痛々しげに微笑んだ顔をする、ファムの心を癒したい、という気持ちに。
 そのためならば、なにを裏切っても心は痛まないと、そう思えるほどに。
 いまはもう、父がいないとか、外との連絡が途絶えたということよりもなによりも、そちらのほうが大切だった。理由はどうであれ、再びひとつの目的に向かえるという事実を与えてくれたのは、彼女なのだから。彼女にもハルにも語ったような、『絶望』がすべてのはじまりだった。けれど、いまは違う。
 連絡が途絶えたということ、いい管理者でいるということ、それだけしか頭の中になく、半ば自棄になっていた自分に、彼女は新しい道を指し示してくれたのだから。
 彼女が自分を消すというのなら、その望みを叶えるまで、誰よりもそばにいる。
 それが自分にできる一番のこと。自分なりの想いの表現なのだ。
 それが間違ったものであるかどうかなど、いまはどうでもいい。


 かすかに笑いを含んだ視線を受けて、ファムは忘れかけていた少女の気持ちと苛立ちを同時に感じていた。わずかに、照れもある。
 まさか、アキが自分に味方してくれるとは、はじめのうちは想像もしていなかった。それがいまはどうだろう。
 彼にここではじめて出会ったときのことを思い出す。誰にも見つからないよう注意したつもりだったのに、アキの姿を見つけたとき、身も凍るような恐怖を感じたのを覚えている。このままでは、大切なあの人の望みをかなえることなく終わってしまう、そう思った。
 精一杯強がって、彼に反発をした。お坊ちゃんの貴方になんかわからない、と言い放った。そのときの彼の表情が、いまも忘れられない。ひどく悲しげに、泣きそうに顔がゆがんだ。思えば、あのとき、彼は父と故郷を失った悲しみに苦しんでいたのではないか。そして、自分の言葉がナイフのようにその傷をえぐってしまったのではないか。そんな気さえしてくる。
 言い放ってしまってからひどく後悔した。なにか、弱いものいじめをしているようで、気分が悪かった。
 それからだ。
 なによりも大切なはずのあの人のかげに、彼の姿が映るようになったのは。それは日増しに成長してゆき、いまではもう、あの人よりも大きい。ファムは戸惑いを隠せないでいた。憂いをひめた瞳の奥、彼の姿が消えない。
 自分の、本当の気持ちは、なんなのだろう。
 なにが、本当にしたいのだろう。
 あの人と彼と、選べない自分がいた。いや、いまではもう、彼に傾きつつある。けれど、それを許せない自分もいるのだ。あの人はなによりも誰よりも大切な人であるはずなのに。自分を救ってくれた恩人であるはずなのに、裏切るなんて許せない。優しく頭をなでて、まるで自分の子どものように接してくれた、あの人の望みを叶えられない自分なんて、存在してはいけないのだ。
 あの人の望みは、ヒトを消してしまうこと。彼自身さえも、消し去ってしまうこと。
 でも、自分はどうだろう。
 彼に生きていて欲しいと思っている? そう、これからもずっと、そばにいたい、と思っている……。
 それはファムにとってはじめての少女らしい気持ちだった。
 想いの狭間で、心は揺れ動いていた。
 心がふたつに分かれていく。耐えられない痛みが襲う。


「実行はいつなんだ? 詳しい実行時間はもう、決めてあるんだろう」
 沈黙を破って、アキが口を開いた。髪はまだ、彼の手に握られたまま踊っている。ファムは急に現実に引き戻されたような気持ちになって、首を振った。思わず上擦りそうになる声を必死で抑える。
「あとはハル次第なの。彼の準備が整い次第ね」
「そうだね。ファム、君の望みが叶うまで、あと少しだ」
 ささやかれた言葉に、心が痛みを感じた。なにかが、違う。違うのだ。
「アキ、そばにいてくれる? なにがあっても」
「どうした? 怖いのか、今更。君らしくないね」
 見上げるアキの表情は、どこかからかいの色が浮かんでいた。
「違うわ。どうなの、アキ。そばにいてくれるの?」
「そばにいるよ、なにがあっても。君の望みが叶って、すべてがなくなるまで」
 その言葉で、違和感が最高潮に達した。アキの手を振り払い、駆ける。呆然とした様子のアキの手が、彼女を捕まえかけるがかなわず、落ちた。
 ――違う。彼に止めて欲しかったのだ。止めてくれる言葉を、待っていたのだ。
 この期に及んで、なんてことだろう。もう、遅いのに。
 混乱しきった心の中で、ファムはそれだけを繰り返していた。


「お……っと、ファム、君らしくないね。どうしたの? そんなに走って」
 前も見ずに駆けたせいだろう、部屋を出たところでファムは勢いよく、誰かにぶつかった。誰かと問うまでもない。ここにいるとすれば、自分とアキとあともうひとりだけ。
「ごめんなさい、ハル。ちょっと、ね」
「アキと喧嘩でもしたかい? まさかね」
 からかい気味に言葉を向けるハルに、ファムはあいまいな笑顔を向けるしかなかった。

 ハルはようやく協力を認めてから、この隠された空間にこもりきりでいる。体調不良を理由にリーダーを退いてから、ずっと。徹夜続きの顔には疲労の色が濃く浮かんでいた。Dr.ウインドが残した研究を、続けられるものがいるとしたら、ハルしかいないのだ。孤独の中、ハルは誰にも知られない思惑を持って、ここにいた。いまだけは心を麻痺させて、なにも考えないようにして。そうでなければ、自分の犯した罪に、ばらばらになってしまいそうだった。もう戻れない。
「それはそうと、もういちど言う。――後悔、しないね?」
 ハルは、そのやわらかい表情を一瞬にして硬くさせる。決断を確かめるための、厳しい表情を浮かべた。
「何度も言わせないでちょうだい」
 戸惑いが一瞬心を支配したが、ファムはそれを表に出さず、強気の表情を見せた。いまのいままで、アキに止めて欲しいと思っていたにもかかわらず、ハルにはそれを感じ取らせることもしない。後戻りをすることは、自分の誇りが許さない。
 たとえ、自分の心に迷いが生じていたとしても、表に出すことはできない。
「そうか。では、いよいよだね」
 つらい事実を受け止めるように、ハルが声を絞り出した。ファムは顔を上げる。
「できたのね?」
「そうだよ。僕がやるべきことはすべてやった。あとは最終的な準備だけだ」
 ハルの瞳は、けれどいまだに迷っている者のそれで、ファムを苛立たせるには十分だった。あるいは、自らを鏡で映したように見えたからかもしれない。
「だったら、不測の事態が起こっても大丈夫なように、事故が起こらずに実行できるように、さっさと準備を進めてちょうだい。時間はないのよ」
 それだけを言い放つ。ハルは悲しげに彼女を見やると、そのままきびすを返し、去っていった。