Egg Shell 第一章 夢のかけら
1.


 大きな腕に抱かれている。その感覚以外は、全てがセピア色の風景だ。
 視線の向こうには背の高い男性と小柄な女性の姿が見える。
 肩をふるわせて泣く女性の肩を抱き、男性がこちらを見て泣きそうな顔になりながらも微笑んだ。その瞳は、なぜかとても温かい。
「もう、行ってください。これ以上は、別れが辛いだけですから」
「お子さんは確かに。きっと無事に成長されますよ。未来の希望ですからね」
 近くで声がした。自分を抱く白衣の男性の声だ。彼はしっかりと自分を抱えあげて、目の前のふたりに話し掛けている。
「――それでは」
 行ってしまおうとする自分に気づき、女性が視線をあげた。
「待って!」
 彼女は白衣の男性にすがりつくように飛びつき、その腕から自分を取り戻そうとすしている。
「翔子、嫌よ。あなたは私の大切な娘。どこへもやらないわ!」
 頬にあたる柔らかい手の感触。思わずぽつりと、声が漏れた。
「まま」
「翔子!」
 そのまま自分を抱きしめるかに思えた手がふっと離れた。大きな手が女性の手を掴んでいたのだ。その手の主は、隣にいた優しそうな目をした男性だ。
「あなた! 放して。翔子が行ってしまうわ! あなたは娘と離ればなれになっていいの!? もう会えないのよ! 私は嫌。嫌よ!」
 とうとう泣きじゃくってしまった女性の手を握り締めたまま、男性はまるで自分に言い聞かせるようにしながら堪えかねたように声を漏らした。
「やめないか! 私だって可愛い娘と離ればなれは嫌だ。できればこのまま一緒にいたい! だが、これは翔子のためなんだ。翔子は幸運にも手に入れたんだよ、未来も生き続ける資格を。だからこのまま行かせてやろう。死なずにすむように。さあ、行ってください。私たちに構わずにそのまま!」
「嫌ぁ! 翔子!」
 そして白衣の男性の影に隠れ、ふたりの姿は見えなくなった。泣き叫ぶ女性の声がいつまでもこだまして……。


「準備はいいか?」
 さまざまな研究資料が積まれた大きな部屋。この時代には珍しいほどたくさんの植物が置かれている。豊かさの象徴だと、人は羨んだ。
「はい、父さん。Egg Shellの準備は完了しています。子どもたちの収容もほぼ終了しました。あと数人の収容と、最終チェックのみです」
 父の髪は、ここ数年で一気に白く、薄くなった。まだ若いはずなのにそうなったのは、すべてこの計画のためである。だから懸命に期待に応えようとした。父の、未来にかける思いを無駄にしたくなかったのだ。
「そう、か。いよいよだな。すまない……私がお前に課した仕事は、非常に重い。きっとお前の心はずっと安まることがないだろう。私を許してくれ」
「父さん。私はすすんでこの役目を引き受けたんですから、大丈夫です。きっと父さんの夢を叶えてみせます」
 先も見えず、このまま滅び行くしかない人に、唯一与えられた救いの手。それを自分の手に任せてくれたことに、暁は誇らしささえ感じていたのだ。
「ありがとう。きっと、生き延びてくれ」
 声は震えていた。これが今生の別れになるだろう事を、あえて暁の父親は口に出さなかった。わずかに残った希望にすがりたい、という気持ちがそうさせたのかもしれない。
「父さん、きっとこの計画を成功させて、ここに帰ってきます」
 あくまで明るく言葉を続ける暁。その瞳には、翳りは見えない。彼だけは、再びこの場所に戻って父と再会することを、なんの疑いもなく信じているのだ。
 息子の様子に父は、心にわずかな痛みが走るのを感じていた。


 風が舞い上がる。その中で、荒野に立つ華奢な青年の姿は、いまにも吹き飛ばされてしまいそうだった。彼の目の前には白い建物に比べれば、青年はどこか頼りなさげで、ちっぽけな存在であるように見える。
 命の欠片も含まない乾いた風が青年の髪をなぶる。手に持った手紙がかさ、と音を立てた。
 手紙――Egg Shellへの招待状は突然舞い込んだ。まわりは彼を羨ましげに、または悲しげに、複雑な視線を向けた。誰にも優しい彼の存在が救われることに喜ぶ人もいた。
 訪れた幸運に、彼は大げさに喜ぶでもなく、ひっそりと住む場所を離れた。心にわだかまるものすべてを押し隠し、準備を整えて指示された場所へ来たのはほんの少し前のことだ。いまでも、自分がなぜここに来たのか信じられない気持ちでいっぱいだった。
 白く大きな研究所らしき建物をみあげる。曇った空にほんの少しだけ明かりが見えた。
 天上よりの恵み、太陽の光。彼が最も愛するそれは、蛍のようにはかなげに地上を照らしている。光はずっと変わらないのに、この星はこんなにも変わってしまった。夢見た緑の大地は、もうどこにもない。
「これで、本当に未来が見えるのかな……? 僕に、なにができる?」
 未練を吹き飛ばすように首を振り、ため息をつくと、彼は風を避けるように急ぎ足で建物の中に消えていった。


 取り残された大きな家の中で、少女は緑に囲まれて育った。植物が貴重な世界で奇跡のように取り残された楽園。緑は少女のすべてだった。
「君にやって欲しいことがあるんだ。緑のたくさんある場所に住んで欲しい。来るだろう?」
 現れた白衣の男にそう言われ、無邪気にもついてきたその先に見たものは無機質な機械の群。白い壁の命の感じられないところ。壁に並んだ筒が植物の種らしい。
「ここ、どこ? だしてよぉ! あたしこんな所いたくない! 帰りたいのぉ! ねえ! だしてえぇ!」
 故郷の緑は、あまりにも遠すぎて。後悔しても、もう遅い。


 優しい両親に連れられ、大好きな機械のある場所に来た。ものごころつく前から共にいた機械。真新しい友人の並ぶその場所に、少年は目を輝かせた。
「ねえ! これどうしたの?」
 振り返り、少年は後ろにいるはずの両親にうきうきとたずねる。そのときの両親の悲しげな顔に、少年は気づかなかった。嬉しくて、いつもなら気づくはずの変化がわからなかった。
「今日からここが、お前の家だよ」
 少年と同じ髪と目をした男性が言った。
「貴方は今日から、ここで私たちと離れて暮らすの」
 漆黒の髪と目をした女性が言った。
 大好きな、道を教えてくれた両親。側にいられないのは嫌だ。その両親が、突然の別れを告げた。信じられない気持ちでいっぱいになる。どうして。
 でも、行かないでと口にすることができなかった。大好きな両親の哀しい顔を見ると、なにも言えなかった。
「どうして? 父さんも母さんも一緒じゃないの?」
「私たちには仕事があるの。そして貴方にも。だからね、それぞれやるべき事をしましょう?」
「がんばれよ。いつも側にいるから」
 ふわりと優しいにおい。柔らかな母の胸に抱きしめられて。
 大きな父の手に頭をなでられて。
「さようなら。大切な私たちの……」
 少年は去っていく両親の後姿を、追いかけることができなかった。


 そして、卵は閉じられた。目覚めの時まで、静かに─―。


「――あれ、夢?」
 ふっと意識が浮き上がっていく感覚がして、少女はまどろみから目覚めた。
 目を開け、まだ眠気の残る意識で見回した風景は先ほどまでとはまったく違う。
 資料棚と本と端末とが共に並ぶ広い部屋。見慣れた自分の居場所だ。
「またあの夢、見ちゃったんだ」
 そう少女はひとりごちる。いつの間にか見るようになった夢。もうほとんど両親についての思い出はないというのに、それだけははっきりと覚えていた。自分がここに、「Egg Shell」に来ることになり、両親と離れ離れになった、その日の出来事だ。
 少女がまだ四歳のときだった。それ以来十三年、彼らとは会っていない。正式に「Egg Shell」に住むようになるまでの一年間を除けば、十二年も「外」の人間とは顔をあわせていないのだ。覚えているほうが難しい。
 無意識ににじんできた涙を拭い、大きくのびをして眠気を追い払う。
 側にあった、古風なランプの形をした明かりを付けると、オレンジ色の優しい光が広がった。


 人がこの地球という星に誕生し文明を築いてどれほどの時が経ったのだろう。星の世界に比べたらあまりにも僅かな、瞬きほどの間に人は繁栄を極めた。
 あまりにも繁栄しすぎた文明は、自らをも傷つける諸刃の剣だった。一地域で発生した紛争が瞬く間に世界に広がり、人は滅亡の危機に立たされた。文明が生み出したさまざまな武器は、人を何度滅ぼしても余りあるほどの威力を持っていたのだ。
 徐々に、しかし確実に破滅へと向かい行く世界の中で、危機を感じた人々がとある計画を発動する。未来を担う子どもたちだけでも、破滅から逃れさせようとしたその計画は「Egg Shell計画」と呼ばれた。
 頭脳や技術に優れたり、コンピューターで無作為に選ばれた十八歳までの子どもを集め、世界の技術の粋を集めて作られた大きなシェルターに避難させる。そして世界が例え滅んでも、子どもたちだけは無事でいられるようにしたのだ。
 集められた子どもは、能力を持つものはその能力を生かす立場に、そうでない子どもたちも、いろいろな役割を持ちシェルターで暮らすことになった。
 そうして子どもたちの収容がほぼ終わったと同時に、シェルターは外界から隔絶された。それがいまからおよそ十二年前のことである。


「ショーウっ! どうしたの? ぼーっとして」
 ふいに自分を呼ぶ声がして、後ろから誰かが目隠しをした。明かりが翳る。
「メイ? もう、びっくりさせないで!」
 柔らかな髪が揺れ、笑い声と共に明かりが戻った。振り返った先にいるのは頭の両側で髪を分けて結んだ少女だ。端から見てもわからないが、これでも植物に関しての数少ない技術者である。
 ショウがとがめる表情になると、メイは肩をすくめて少しだけ笑いを引っ込めた。
「ごめん。だってショウったら呼んでも気づかないんだもの。考え事?」
「そうじゃないんだけど。なんだか寝起きで頭がはっきりしなかっただけ。メイはなにか用事? 資料だったら知らせてくれれば届けたのに」
 いつもは研究室からの連絡だけで、滅多にここ、資料保管室までは来ないメイである。首を傾げるショウに、メイは笑って答えた。
「あのね、ハルが場所に余裕ができたから花を植えようかって言ったの。せっかくだから子どもたちに選んでもらうのがいいって事になって。今日はね、資料じゃなくて図鑑を探しに来たの。ディスプレイじゃみんなで選べないんだもの」
 踊るようなメイの様子に微笑を返す。メイは子どもと、同じ植物関係の技術者であるハルと過ごすのがなによりも好きなのだ。
 ちなみに子どもとは、このシェルターが閉じられてから、避難した子どもたちの間に産まれた、外の世界を知らない子どもたちである。

 ショウのいるエリアには、このシェルターが閉じられる直前までに集められた世界中の資料があった。電子情報がほとんどであるが書物もある。長い目で見ると、こちらのほうが劣化しにくいという理由からであった。
 ショウの仕事は専ら、ここの管理をすることである。
 
「となると、植物図鑑よね。ちょっと待ってて」
 端末が並ぶ机の奥の、書架の影に消えていったショウを見やり、ふとメイは机の上のランプに気づいた。その顔が面白そうになにかを考える顔になる。
「ねーえ、ショウ。まだ持ってたの? このランプ」
 静かな資料室に声が響く。からかいの色を含んだメイの問いかけに、ショウはまたかとため息をついた。なにが面白いのかこの友人は、些細なことやものに意味を見出しては喜んでいるらしい。
「いいでしょ、好きなんだもん、そのランプ。暖かい感じがするから」
 いくつかの本を抱えてショウが戻った。本を机の上に置くと、ランプを守るように手を広げる。メイの瞳がからかいの色を一層強くした。
「ふぅん。そんなに大事ですか、このランプが。誰が原因かな?」
「どういうこと?」
「やだ、ショウったらはぐらかすわけ? 知ってるんだから。どこかの誰かさんに『そんな原始的なもの誰が作るか!』って言われながらも粘りに粘って作ってもらったんだったわねえ。ねえねえ、そろそろさ、手の届かない人を諦めて、乗り換える気持ちになったわけ? それとも愛しの管理者――」
 言葉を続けようとした唇がショウの手でふさがれる。
「メイ! 変なこと言わないでよ。乗り換えるってなによ!」
 妙なことを口走り始めたメイを慌てて止める。その二人に向かって、突然声が掛けられた。
「どうした? ふたりとも、こんな所でなにやってんだ?」
 開けたままのドアから人が覗いている。呆れた視線がショウとメイに向けられた。
「ヒロ! いったい何の用?」
「ちょっと! 放してよ、ショウ。 もう、苦しいったら」
「ウサメイ、お前も珍しいな、滅多に来ないのに」
「……またウサメイって言った……」
「ヒロ、なにか用!? からかいに来たんだったらあとにして!」
 メイにからかわれ、平常心を欠いたショウが叫ぶ。茶色の目を見開き、ヒロが肩をすくめた。
「来ちゃ悪いか? 面白いのに」
「なぁんですって! 面白い!? どこが!」
「……お前が」
 面白そうに言うヒロに、怒りでますます顔を赤くするショウ。
「出ていって!」
 一際大きくなった声にまわりの部屋から、驚いて人が飛び出した。


「ったく。そんな大声出すこたないじゃないか」
「ショウ、声大きすぎ……」
 至近距離で大声を聞いたふたりが、思わず耳を塞ぐ。
 ショウはぜいぜい息をつきながらも、まだ言い足りないとばかりにヒロを睨み付けた。まわりの見物人が思わず後ずさり、恐れをなしたかのように去って行く。
「それに用事があるんだよ、俺がここに来たの」
「なに、用って。資料探しとかじゃないよね。滅多に来ないくせに」
 ショウの口調はまだ鋭い。一歩も近寄らせるまいと思っているのかどうか、厳しくヒロをにらみつけている。
「お呼びだよ、管理者殿のね。会議室まで来いだとさ。ったく、なんだって俺がこんな事。連絡ならもっと簡単な手段があるじゃないか。他人をこき使いやがって」
 使われたのが甚だ不本意だとばかりにぐちるヒロを尻目に、ショウはいそいそと準備を始めた。取り出した資料をメイに預け、部屋を出ていこうとする。
「ちょっ、ショウ!? そんなに急いでどーすんのよ!」
 重たい資料をふらふらと抱えながら、メイが追いかける。気づいたヒロも慌ててショウを引きとめた。
「他になにか用でも? アキが呼んでるなら早く行かなきゃ! あと宜しく!」
 つい先ほどまでとはずいぶんと違い、嬉しそうな様子に、残されたふたりは呆れてなにも言えない。
 浮き足立ち、いまにもスキップをはじめてしまいそうな足取りで、ショウは廊下へ飛び出した。


「ヒロ、まだチャンスはあるわよ。がんばりなさいね」
 小さくなったショウの姿を眺め、ヒロに視線を移しながらメイが呟く。面白そうにくすくすと笑う。
「……は? おいちょっと待てそれどういうことだ?」
「なにかしらねえ? よっと。これ、広場まで運ぶの手伝ってね。とっても重たいんだもの」
 ヒロの問いかけをはぐらかしたメイは、持っていた図鑑の大部分を彼に預けると、こちらもうきうきと通路の先に消えて行く。
「なんだってんだ、いったい」
 残されたヒロは首を傾げ、またぐちりながらメイの後を追った。