9.


 父はいまでも偉大な人だった。誰よりも尊敬すべき人だった。
 銀色のディスクケースが父の名前にきらめく。とおい記憶に、目の前が一瞬、ゆらめいた。
「そんな所に名前があったなんて、俺、気づきませんでした。もう一回見せてください」
「お前……。だからいつも注意力散漫だって言ってるだろう。そんな風だから修理してもエラー起こすんだぞ」
 あんなにはっきりと刻まれているはずのものが見えていないとは。あきれかえったヒロが答える。大切な父のディスクは、見せるのももったいなくて届かない場所へと遠ざけた。
「それに、いまヴィルト博士の名前を言いませんでした? それに『父さん』って。先輩、もしかしてヴィルト博士の息子なんですか? 人が宇宙で生活できるためにってすごくたくさん貢献したっていう。教えてもらってないですよ、俺。ずるいです」

 ルークの目は、尊敬の眼差しに輝いている。彼にとっては、まさに雲の上のような存在という認識が、ヴィルトという名にあった。たったひとりでEgg Shellにつれてこられたなか、見つけたヴィルト博士の著書が、ルークのすべてを決めたのだ。博士はその著書の中で、人が宇宙へ飛び出す魅力と必要性について熱く語っていた。見果てぬ夢を見る、その姿に、ルークは生きる希望を見いだした。絶対に外に出て、星の海を目指してやる、と心に決めた。閉ざされた世界にいるからこそ、その夢にあこがれたのかもしれない。迷う船を導く星のように、それはたったひとつの希望だった。
 その星と名を同じくする者が、目の前にいる。

「別に隠していたわけじゃない。言う機会がなかっただけだ、単に」
 期待にきらめく眼差しに、照れたようにヒロが言った。Egg Shellでは設立者の考えからか、思想的・歴史的背景を持った姓は名乗らぬことを決められていた。さまざまな批判もあった。いままでの歴史を失うことほど、痛い損害はない。なによりの罪悪だと、ののしる声もあった。けれど、すべてをゼロからやり直すという考えのもと、それは進められた。
 だから、メンバーの持つものは名前のみ。たったひとつ、それが先人から受け継がれた遺産なのだ。
 ゆえに、誰がどんな背景を持っているかなど、知る手がかりはなかった。
 気恥ずかしさからか、ルークの眼差しから顔を逸らしたまま、ヒロはディスクケースを、そっとあけた。いまとなってはたったひとつの、父の形見だ。
 不思議と、ディスクケースには大切そうなものの割には封印がされていなかった。まるで、誰かがいちどあけたかのような様子に少しだけ首を傾げて中を見る。


『管理者殿
 これが貴方の手元にあるということは、すでに外からの連絡が途絶えたということだね。辛いだろうが、それを受け入れて未来へ進もうとしてくれたということだ。感謝する。
 さて、Egg Shell封印前に良く覚えてもらったことだと思うが、もういちど確認しておきたい。
 まず、年に一回の外界との通信が三年、途絶えたことで、Egg Shellの最終計画が発動するということ。その手続きについては記念碑に封印してあるディスクに記録されていること。
 それがこのディスクである。
 最終計画責任者はヴィルト・デア・アスリーグ。この計画が成功し、輝ける未来が子どもたちに与えられんことを、心より祈る。

 このディスクは管理者専用端末でしか起動しない。注意して欲しい。
 それから、この計画には我が息子・ヒロの存在が必要不可欠である。これも親ゆえの心と笑ってくれて構わない。手間をかけるが、彼の協力を仰いでくれ』
 ディスクケースの裏側には、そんな風に言葉が刻まれていた。心の奥から、熱いものがこみあげてくる。託された祈りと未来が、いまこの手の中にある。
「先輩、これどういうことなんですか? 計画っていったい。だいたい、外からの連絡が途絶えたらとかそんなこと、関係ないですよね。外は平和なんでしょう、もうすぐ出られるって噂があるくらいですもんね。念のためってことなんでしょうけど、大丈夫ですよね」
 真実を知らないルークが、明るく問いかける。本当は、外の世界から連絡が途絶えてもう十一年にもなるのに。ルークの無邪気さが、ヒロには痛かった。できれば、なにも知らずにいたかった。
「この中身を確認しよう。それからだ。ショウ、ほら、しっかりしろ。管理者専用端末、使えるだろう。案内してくれないか」
 いまだうつろな表情のままのショウをせかす。いまは、残った希望にすがりたかった。そうでなければ、自分を見失ってしまいそうだから。父がのこしたものが、いまはたったひとつの光なのだ。

「先輩、俺も行きます。ヴィルト博士のものなんて、滅多に見る機会はありません、こんなチャンス、無駄にできません」
 立ち去りかけるふたりをルークが追いかけた。いまだなにも知らない、罪のない笑顔。消したくはない。知らせるわけにはいかない。
「ルーク。これは機密事項だ。お前は触れてはいけないことだ。いいな? 大人しくしてろ」
 できるだけ厳しい表情で、言い捨てた。心の奥底の暗闇を悟られないように、すぐに遠ざかる。だがルークは尊敬する人物の、いつもと違う様子を見逃さなかった。
「先輩、なにを隠しているんですか? それに、機密事項だっていうなら先輩だって権限はないはずです。Egg Shellの管理者以外には。さっきから、どこかおかしいですよ。先輩!」 
「お前の想像以上に辛いことだぞ。それでも知りたいか?」
 ヒロの雰囲気に、ルークは一瞬息を呑んだ。いつもの先輩は、こんなにくらい瞳をした人ではなかったのに。いつも明るく、なにもかも笑い飛ばしそうな表情をする人だったはずなのに。なにがヒロを変えてしまったのだろう。
「それでもです。俺が見つめるのは未来だけ。なにがあろうと、目を逸らしたりはしません」
 少年らしい若々しさに満ちたルークの瞳が、ヒロをまっすぐに見つめた。少し前まで、自分がもっていたもの。希望が待っていると、信じて疑わなかったときのもの。ほんの一瞬の出来事で、何故こんなにも変わってしまうのだろう。いまの自分は、あまりに情けない。
 ついてこいともなにも言わず、ヒロはくるりと背を向けた。ふらふらと歩みの危ういショウの腕を引いて、遠ざかる。ルークは了承の意味だと勝手に解釈し、ヒロの後を追いかけた。


 感情のこもらない指先でショウが案内したのは、リアリィに追い立てられるようにしてあとにした、あの管理者の部屋だった。横倒しになったままのランプが、ガラスのかさから淡い光をこぼしている。
 端末を起動させるまでの間、混乱の中ばらまいてしまった室内を片づける。ショウは相変わらずで、人形のように、端末前の椅子に座らされていた。痛々しい様子に、ルークでさえも神妙な面持ちになる。
「先輩。ショウさんどうしたんですか? なにかショックなことでも? 先輩と同じ理由ですか」
 問いかける声も、ショウを気遣ってか聞こえないような小さなものだ。一応、空気を察することは覚えたらしい。
「いろいろとな。ほら、手を動かせ」
 すべてを話す気にはなれず、ヒロはルークに向けて邪険そうに手を振った。不承不承頷き、作業をルークは続ける。そもそも、管理者の部屋という大事な場所に、無断で入っているということにルークは後ろめたさを感じていた。
 それと同時に、なんだかとんでもない状況に足を踏み入れてしまったような、そんな気さえする。だが、ヴィルト博士のディスクという、あまりに強すぎる誘惑には勝てない。
 慌ただしい起動音がやみ、ディスプレイの様子がおちつくと、ふたりは端末へと歩み寄った。期待と不安に震える指先で、ヒロはディスクを端末におさめる。静かな音をたてて、端末がディスクを読みとっていった。

『Egg Shell最終計画 コードネーム:ジョーカー

 この計画は、本来のEgg Shell最終計画ではない。だが、子どもたちが親許に帰る可能性が低いこと、Egg Shell封印後、世界がすぐにでも崩壊してしまう可能性が高いことなどから、隠された最終計画として作られたものである。
 あくまで、本計画は換え札である。窮地を脱するためのエースではない。しかし、なによりも力をもつ。ゆえに、本計画を仮に『ジョーカー』と呼ぶ』


 ディスクはまわりつづける。
 託した夢のかけらが時をこえてよみがえりはじめる。

 ふと、周りのものが急に現実感を失った気がした。
 失われた時が、そのいのちを一瞬、とりもどしたかのような不可思議な感覚に、ルークはめまいを覚えた。