8.


「う、そ。こんなの、嘘よ……」
 ショウの目の前から、急速に色が消えていく。まともに立っていることもできず、ふらふらと机にもたれかかった。ディスプレイの前で、ヒロもその顔色を蒼白に変えている。
「ショウ。この通信記録って」
 尋ねるヒロの声が震えた。信じたくない。こんなことは。
「年に一回の、通信記録よ。管理者だけに許された権限で、このシェルターの外と話をすることができるの」
「そんなことはわかってる。誰だって、そんなことは知ってる! 俺が聞きたいのは、これがなにを意味するかってことだ!」
 怒鳴り声に、ショウはうたれたように息を呑んだ。制御できない感情が、彼女の中にも、ヒロの中にも渦巻いて、出口のない空間に吹き荒れる。
 とおい昔の記憶がめぐる。いつか帰れるはずの、暖かい腕の中、そしてしあわせな家族の幻影が、浮かんで消えた。とうに記憶は薄れつつあるけれど、絶対に待っていてくれると信じて疑わなかった、かえるところ。
「私たちはなんのために、ここにいるの? いつか帰るために、ここに来たんじゃないの? どうして」
 とぎれそうになる気力の糸を必死につなぎ止める。けれど、もはやもうなにも考えられなかった。涙すら、出てくるのを忘れてしまったかのように。


 ぼんやりとした頭の中で、ショウはEgg Shell設立計画書のことを思い出していた。一年ほど前、資料の整理をしていたときのことがとおい昔のようだった。あの計画書には、なんと書かれていただろう。
 ――新しい世界へのはじまりを導く存在となるべきもの。
 そう、書かれていた気がする。
 卵は、はじめから、迎えるもののない未来へと託されたのではないか。ふと、そんな風に感じた。
「これから、どうすればいいの……」
 頼るべき管理者が、いまここにいたならば。心からそう思った。
 あるいは。
 管理者もまた、この事実ゆえに姿を消したのかもしれないけれど。


 教育エリアリーダーのリアリィはこのところずっと、仕事をメンバーに任せきりで、来るものもほとんど居ない資料管理室にこもっている。参加を求められたリーダー会議も、顔だけみせて抜け出してきてしまった。
 すっかり顔なじみになった、ショウの後任の少年は、毎日にこやかに挨拶をしてくれる。
「リアリィさん、ご自分のお仕事はいいんですか? リーダーといえば、結構お忙しいんでしょう?」
 情報検索端末を借りるための手続きを済ませると、少年はリアリィにそう声をかけた。
「いいの。これもね、一応仕事の一環なのよ。教育エリアにいるとね、にぎやかすぎて静かに考える余裕なんてないから」
 華やかな笑顔を向けそう言うと、真剣な顔をして端末に向かった。

 リアリィがここに足を運ぶ理由はひとつだった。
 偶然にも知ってしまった、Egg Shellの奥底で進む破壊計画の真相を知ること、それだけ。なぜ、あのような計画が発動するに至ったのか、その、本当の意味とはなんなのか。
 もちろん、簡単に手に入れられる情報ではないことは分かり切っていた。誰でも操作できる範囲内に、そんな重要な事実が転がっているはずはない。彼女がリーダーという立場にあるからこそアクセスを許されたエリアでも、それはそう変わらなかった。
 けれど、わかったことも多い。
 メンバーそれぞれのEgg Shellに来るまでの経歴や、数少ないEgg Shell封印後の外の記録。そこから推測される過去のこと。
 そして、これを裏で画策したと思われる、『Dr.ウインド』について。Egg Shell封印前、世間に流れていた噂とは、まったく違う事実がそこにはあった。
 まず、彼ははじめから悪の根元と評される人物ではなかったこと。年若い頃は心優しい植物学者として、数多くの著作を残していた。荒廃していく地球の大地で、必死に生き抜く植物たちへの愛情が感じられるものばかりである。
 その思想が、年を追う毎に過激になっていったのがEgg Shell建設の原因となったのだ。人が作ったものすべてを破壊し、この大地に害をなす人を、この世界から消すという、あまりに狂気じみた優しさが、いつ彼を支配したのだろう。
 悪名を背負う前の彼の最後の言葉が、それをなによりもはっきりと言い表していた。
『いつか、緑は人の罪を糧としてこの惑星を覆うだろう。再び大地はよみがえり、いのちは力を取り戻す。私は、その日が来ることを信じている。人がすべてこの大地から姿を消し、いのちあるものの楽園としてこの惑星が復活する、運命のその日を』


「ありがとう、また来るわね」
 少年に言い残し、端末を返したリアリィは資料管理室をあとにした。
 計画を実行に移すまで、そう掛からないだろう。それはファムの言葉でも明らかだった。なんとかそれまでに、馬鹿な真似をやめさせなければならない。そんな思いで、リアリィは主の消えた管理者の部屋へと向かった。
 いままで幾度となく足を運んで、そのたびに情報管理エリアメンバーに阻まれてきたけれど、諦めるつもりはリアリィにはなかった。
 拍子抜けすることに、いつもは誰かしらいるはずの部屋の前に、今日は珍しく人影すら見えなかった。あたりを見渡し、誰も来ないことを確認すると、閉ざされた扉へ手を伸ばした。

 暗いはずの室内は、ぼんやりと薄い明かりに満たされていた。誰かいたかしら、と慌てて身を翻しかける。
 魂の抜けたようなふたりの姿を目の端に留めなければ、そのまま、立ち去っていた。光の消えた瞳、色彩の欠片もないその影に、眉をひそめる。ふたりとも、見覚えのある――というよりも、親しくしている人物だった。
「ショウ、ヒロ。しっかりしなさい。どうしたの?」
 肩を揺らすけれど、反応は欠片すら感じ取れない。ふたりの視線が、かろうじてディスプレイのほうを向いていることにやっと気づき、リアリィはその方向へと注意を向けた。
 薄明かりの中、そこだけ煌々と照らし出されたディスプレイには、望みが消えたことを示す通信記録、すべての絶望のはじまりが表示されていた。
 一瞬、リアリィの瞳も色を失った。ファムからすべてを聞かされていなければ、自分もきっとショウたちと同じ状態になったに違いない。でも、いまの彼女には目的があった。そのためには、ここで立ち止まっているわけにはいかないのだ。それに、いまの彼女には、外の世界の大切なものは、失うものはなにもない。守りたいものは、このEgg Shellの中の命、ただそれだけなのだ。
「しっかりしなさい! さあ、立って。ここを出るの。私の部屋へ行きましょう」
 いまだ夢うつつの空間をさまようショウとヒロを、無理矢理立たせて部屋から追い出す。
 閉じかける扉を、最後に一瞬だけ振り返る。つけられたままの端末と、ゆらり転がったまま、あたりをオレンジ色に染めるランプとが瞳の端に移った。


 暖かく湯気を放つカップがふたつ、ショウとヒロの前に置かれた。それを、ショウは現実のものではないような目つきで見つめた。
 なにもかもが、すべて同じように見えた。動かない彼女たちを見て、目の前の人物はちょっと困ったような笑顔を見せる。ため息を吐いて立ち上がった。暫くして、冷たくなった自分の手に暖かい感覚が戻る。視線をあげると、両手をしっかりと握ってくれているリアリィの姿がようやく理解できた。
「リアリィ……私」
 口を開くと、いままで張りつめていたなにかが切れてしまったようだった。その後はもう、言葉にならない。ただなにも言わずにそばにいてくれるリアリィのぬくもりが嬉しかった。ふわりと包んでくれる雰囲気は、とおい記憶の中の誰かを思い出させる。暫くゆがんだ表情で感情をこらえていたヒロも、とうとう我慢できずに涙を流した。
「いまは泣いていいのよ。心をからっぽにして、気が済むまで、ね。そうしたら顔を上げて。前をきちんと向いてね。立ち止まったままではだめなの。なにも変わらないわ」
 失ったものが多すぎるから、その傷が癒えるのに長い時間が掛かるかもしれない。けれど、時間は流れてゆくのだから、置いていかれないようにいつかは、前を向かなければならない。
 それが、いまを生きるもののなにより大切な役目なのだから。
 胸の中に生まれた力を分けるように、リアリィは子どものように泣きじゃくるふたりを抱きしめた。


「リアリィは、全部知っているの? いま、なにが起こっているとか、外が、どうなっているかとか」
 泣きはらした目で見つめるショウは、信じられないという気持ちもあらわにリアリィに尋ねた。
 リアリィはなにも言わず、ただ微笑んで頷く。ファムから聞かされたすべてと、彼女が手に入れた事実から把握している『いま』はとても過酷なもの。けれど、それに絶望したからといって、なにが変わるわけでもない。それよりも前へ進む道を見つけることが、リアリィにとってはなにより大切なことだった。
「どうしてそんなに冷静でいられるんだ? どうして笑っていられるんだ? もう、なにもなくなってしまったのに、帰る場所もないのに、どうして前に進めるんだ? 俺には、わからないよ……」
 涙のかけらの残る声でヒロが呟いた。無理もない、とリアリィは思う。自分でも何故ここまで冷静でいられるのか、不思議でならないのだから。心のどこかが麻痺しているのかもしれない。心の中で薄く笑った。
「絶望していても、なにも変わらないわ。私たちはいま、ここにいる、生きている。生きていかなくてはならないの。ここでただ泣くだけで、なにかが変わって? なにも、変わらないでしょう? だったら、私は前へ進むわ。後悔したくないもの」
 他人には理解しがたい感情であることは十分承知していた。けれど、ショウたちには言わずにいられない。卵を導くべき翼と、それを支える大きな手。希望のかけらを、リアリィはふたりの中に見いだしていたから。
 だからこそ、乗り越えるには難しい、どんなに厳しいことであろうと、乗り越えてもらいたかった。
「いくらいまを嘆いていても、行動を起こさなければ前へは進めないわ。もう時間は残されていない。一刻の猶予もない。顔を上げて、振り返らずに進みましょう。……ね?」
 祈りを込めた声は、とまどいばかりの視線に受け止められ、消えていく。
 だめなのかしら。悲しみを含んだ吐息が、瞳を閉じたリアリィの口から薄く漏れた。


「どうする。これから」
 無言のままリアリィの部屋を後にして、とぼとぼと歩くショウにヒロがそう問いかけた。
「どうって、どうしようもないよ。だって、もうなにも」
 なにも、残されていない。帰るべき場所はない。そして頼るべき管理者は、もう戻ることはない。いままでの時間が、とどまることのない水のように流れ落ちてゆく。冷たい水が手を傷つけるように、鋭い痛みを伴ってこぼれていく。
「どうしたらいいんだろうな……」
 光を失った瞳のままのショウを支えたい気持ちはある。なににかえても守りたい。だが、心がいうことを聞いてくれなかった。ショウがいる手前、ヒロはなんとか平常心を保っているが、意識していなければまともに立っていることすらできない。
 ヒロはぼんやりと、生気の感じられない白い天井を見つめた。無機質なこの天井の上、いまはどんな光景が広がっているのだろう。瞳を閉じると幼い頃の記憶が駆けめぐった。


「あ、先輩! ここにいた。探したんですよ」
 場に似つかわしくない、明るい声が飛んだ。振り向くと、暗く沈む彼らとは対照的に、にっこり微笑んだ少年がいる。子犬のように駆け寄ってきた。
「ルーク」
 ヒロの部下である少年、いつも太陽のように明るいルークは、尊敬するものの暗い声に首を傾げる。
「先輩たち、なにかあったんですか? 目が赤いし、顔色だって」
「なんでもない、気にするな。それよりも、なんだ?」
 明日への希望に満たされた少年を、絶望に突き落とす真似はできなかった。ヒロはとっさに表情を繕った。
「あ、はい。面白いものを見つけたんです。広場の空調の調子が悪いからって修理しに行ったんですけど……。記念碑近くの床をあけていたら、ほら、こんなものが」
 Egg Shellで一番広い空間に置かれた封印記念碑。込められた願いと祈りは、いまはただ悲しみだけをもたらす。複雑な表情を見せるヒロとショウにルークは瞳を巡らせたが、すぐに懐から金属の薄い箱を取り出した。ディスクケースのようにも見える。
「あけるのはちょっと怖い気がして、まずは先輩に見せてみようと思ったんですけど」
 差し出された銀のケースは、照明を反射して鋭い光を放つ。ふとその表面に目をやって、ヒロは顔色を変えた。奪うようにしてルークの手からケースをとりあげる。
 なめらかなはずであるそのケースには、なにかが刻まれていた。機械によるものではない。人の手によるもの。その形にも内容にも、ヒロには見覚えがあった。忘れようもないなつかしいそれは……。
「父、さん」
 ヴィルト・デア・アスリーグ。
 記憶の中の父の笑顔と、刻まれた名前とがヒロの中で重なった。