7.


『それでは、これで臨時の会議を終了します。それぞれの仕事がある中、無理を言って申し訳ありませんでした。管理者アキの出席もない中、皆さんの協力が得られて嬉しく思っています。お疲れさまでした』
 広い会議室に、マイクを通してショウの声が響いた。それと同時に、疲れた様子でほっと一息をつく、各エリアリーダーたちの声が漏れる。
 普段であれば、連絡事項や用件はリーダー専用回線を通して各エリアへ伝えるというだけなのだが、時折こうして、リーダー同士が顔をつきあわせて話す機会が設けられる。それぞれリーダーという忙しい立場にあるためなかなか設ける機会はなかったが、それでも途絶えずに続いているEgg Shellの重要な行事のひとつだった。
 開催はアキの不在を知られないためにできるだけ避けておきたいことだったが、他でもない彼の不在によって、リーダーたちの協力を必要としていることもまた事実だった。

 リーダーたちは、アキの出席がないことに複雑な表情を見せた。表向きには口にされないものの、いまだ根強い『管理者不在』の噂に現実味を持たせるものだったからだ。
 ショウは皆に気づかれないよう、深いため息をついた。アキが居ないことを悟られないように必死にポーカーフェイスを続けるのは、とても辛い。あの衝撃の日から、ゆっくりと心を落ち着ける暇すらなかった。
 なんとか混乱を防ごうと、必死になって対策を考え、言葉を交わす。けれどなんの進歩も見られない。それどころか、噂が噂を呼び、Egg Shell全体が落ち着かないものになってきたことを、ショウはとても恐れていた。
 Egg Shellにとって、自分たちにとって。アキという存在が、どんなに重要なものだったのか、それを嫌というほど感じた。彼の持つ人を惹きつける、なんともいい難い魅力、なにがあっても冷静に、素早く対応できる思考力。特殊な状況であるがゆえに、幾度もバラバラになりかけたEgg Shellを、強い心でアキは導いてきた。
 その彼がいなくなってしまったことで、Egg Shellという存在そのものが揺らぎはじめている。
 何故、自分たちはここにいるのか。いつ外に出られるという保証もないまま、日々をただ過ごすだけのいまに、なんの意味があるというのか。そんな不安や恐れ、溜まった感情が、Egg Shellの住人を混乱に陥れようとしていた。
 ――外に、もう出るべきではないのか、と。危機は、去ってしまったのではないか、と。我々は、もう、卵の中で安らうべき幼き存在ではないのだから。
「ショウ、ショウ、少しいいかい?」
 柔らかい声が目の前から聞こえた。考え込んでいるうちに、自分の世界に入ってしまっていたらしく、ぼうっとしている表情を、慌てて振り払う。
「はい、あ。ハル。メイは元気ですか? 最近忙しくってあんまり話ができなくってごめんねって伝えてください」
 明るく答えるショウに、目の前の人物、ハルは少し悲しげに、複雑な表情を浮かべ、笑った。


「えっ? リーダーを退きたいって、何故なんですか?」
「このところ、余り体の調子が思わしくなくてね。いい機会だから仕事を退いて、治したいと思ったんだ。後任を指名して、メンバーの承認が得られれば問題ないはずだろう?」
 いきなり告げられた決意に、ショウはただ衝撃を受けるしかなかった。体の調子が思わしくないとは言うが、ショウから見て、ハルの体には、目に見えるところでは調子が悪いような様子はない。
 もしものことがあったときは、と、Egg Shell内にはリーダー交代の規定はあった。だがはじまって以来、リーダー交代があったのは過去に一件のみ、教育エリアだけである。それすらも、前リーダーが死亡してからやっと行われたもので、本来ならばまず有り得ないと思われていたことなのだ。
「書類は後で提出する。君宛で構わないね? 管理者殿は色々お忙しいようだから」
 ハルは普段の優しげな微笑みとは違う、少し冷たい、意味ありげな笑みを残し、会議室を出て行った。


 ――管理者殿は色々お忙しいようだから
 その、言葉の意味に、ショウははっとする。それに普段見せない、あの氷を思わせるような笑みに、なにかが隠されているような気がしてならない。アキが居ないことにただ過敏になっているだけなのだろうか。それとも、もしかして。
「ハル! 待ってください!」
 皆が驚いて立ち止まるのにも構わず、ショウはまだ会議室に残る人々を押しのけ、走った。白衣の裾が、とおく、道の先にひるがえる。声が聞こえていないのか、それとも聞こえていても答えるつもりがないのか、ハルの姿はそのまま消えていった。
 アキに関する手がかりが、やっとつかめるかもしれないのに。そんな思いがショウを焦らせる。
 アキが居ないことを隠し続けたまま、なにもないように振る舞うこと、滞りなく業務を行うこと、そのどれもがもう限界に近づいているのだ。気を抜いてしまうと、こらえきれなくなってきていた涙がこぼれそうになる。
「ショウ! いきなり駆け出してなにがあったんだ? またなにかあったか?」
 涙がこぼれないように、ぎゅっと目をつぶっていたショウに、明るいヒロの声が被さった。言葉ではショウを心配しているが、いつもの軽い口調は変わらない。
「なんでもないもん」
 答えるショウの声も、忘れかけていた年相応の少女のものに変わる。
 笑った顔に、涙がかすかに光った。


「お前がなんでもないって言うときは、絶対になにかあるんだ。いいから言え」
「だから何度も言ってるでしょ、なんでもないって! それに、もしあったって仕事上のものだったらヒロに言えるわけないじゃない」
「って事はなにかあるんだな?」
 鋭い指摘に、言葉に詰まる。
 やはりどこか様子が変だと、ヒロに無理矢理休憩室へと連行されたショウは、逃げられない状況の中で彼に問いつめられていた。後ろめたいところのあるショウは、どうしても劣勢に置かれてしまう。ざわめく休憩室の中、冷めていく紅茶の香りが焦りを誘う。
「変わったよな、お前って。管理者殿につくようになって、冷たくなった。情報管理の奴らに毒されたか?」
 その言葉に、ショウの眉が跳ね上がる。いくらヒロでも、この言葉は許せない。自分を心配してくれているといっても、こんな言葉はない。
 やはりこういう状況になってしまうところ、どこまで行っても彼の間柄は変わらないのだろう。ショウはふと頭の片隅でそう思い、感情の赴くまま立ち上がった。
「なんでヒロにそんなこと言われなくっちゃいけないのよ! 全然関係ないじゃない!」
 思わず、手が出てしまう。乾いた音が広がり、テーブルのカップがかちゃりと揺れた。ざわめきが一瞬途絶え、集中した視線にショウは慌てて座り直す。
「無理すんなよ。そういうお前を見ているのが辛いって、言わなかったか?」
 赤くなった頬をさすりもせずそのままに、ヒロはショウをまっすぐに見据え、言った。
 かなわない。はじめてショウは、ヒロに対してそんな気持ちを抱いた。全部見通しているくせに、自分からそれを言うことはない。ショウの口から言わせようとする。
 それが、悔しい。
「言えよ」
 やけに、優しい声がショウを促した。視界がゆがむ。けれど、涙がこぼれそうになる、ぎりぎりのところで理性が働いた。ここでは、話せない。
「……」
 無言のまま、ヒロの手を取る。ざわめきをとりもどした休憩室を、静かに後にした。


「ショウ、どこまで行くんだ」
 黙って手を引かれていたヒロが、とうとう耐えかねた様子で疑問を口にした。ずっとなにも言わないまま、ショウは振り向こうともしなかったのだ。
「少し、待ってよ、黙ってて」
 答えるショウの声が少し揺れている。まるで、涙をこらえているかのようなそれに、ヒロは言われたとおり黙り込む。そのまま、しばらく引かれるままに歩くと、たどり着いたそこは一際大きい扉に閉ざされた、管理者の部屋。歩みを止めず、ショウはそのまま扉のロックを外し中へと入った。
「お、おい、ショウ、ちょっと待てって、なんの許可も取らずに……」
 なんの呼びかけも、ノックすらなしに入るショウに、ヒロがたじろぐ。そんなとまどいをものともせずに、ショウは暗い室内の明かりをつけ、やっと振り向いた。痛いほどの張りつめた笑みが、ショウの顔に張り付いている。

「大丈夫よ。だって、誰もいないもの。この部屋はもう、誰も使ってないんだもの」
 言われた意味がわからずに、ヒロは沈黙を守る。
「噂は、本当なの。アキは、もうどこにもいないの……!」
「なん、だって?」
 ヒロも、噂は聞いていた。管理者がこのEgg Shellから姿を消してしまったのではないか、もういないのではないかということを。ヒロ自身は信じていなかったが、大きな騒ぎになっているということを、危惧してもいた。まさか、本当のことだとは思いもしなかったけれども。
「どうしたらいいの? アキが居なくなって、でも、アキ以外にEgg Shellを導ける人はいないの。怖いよ……!」
 耐えかねたように、ヒロの服を掴み、ショウは彼の胸に顔を押しつけた。堰を切ってあふれ出した涙が、服を濃く染めていった。


「そんなことしたって、無駄よ。だってもう、情報管理のみんなで調べ尽くしちゃってるんだもの。手がかりなんてないわ」
 泣き出したショウをようやく宥めたのち、ヒロは抑えきれない気持ちを抱えたまま、アキの残した端末と格闘していた。爆発しそうな思いを別の方向に向けておかなければ、頭がどうにかなってしまいそうだった。
「いいや、絶対に手がかりはある。普段からアキのそばにいるから気づかないことだってあるかもしれないだろ?」
「だからって、ヒロにしたら全然別の分野じゃない、専門外よ! 無理しないでって」
 ショウも、なにかをせずにはいられないヒロの気持ちはわかった。でも、こんなヒロは、見ていられない。やはり話さなければ良かったという後悔が胸の内をめぐる。
「端末だってみんな機械だ。機械は俺の専門だぜ? わからないはずはない。どんなプロテクトだって俺の前ではないも同然だ」
 ヒロは良くわからない理屈を並べ立ててディスプレイにかじりついている。その後ろで、ショウはなにもできないまま、はらはらと様子を見守っていた。と。
 ピーーーッ。
 耳に付く電子音が部屋に響く。端末を壊したかとショウは慌ててのぞき込むと、ヒロの凍り付いた横顔が見えた。
「なんだよ、これ、いったい、どういう事なんだよ……」
 つられて、ショウもディスプレイに視線を移す。


 通信記録。
 素っ気ない文字が並ぶそれには、目を背けたくなるほどの真実が描かれていた。
 すでに、卵は守るものもなしに、ただ孤独だったのだ。
 帰るべき場所は、もう消えてしまったのだ。
 卵が割れるのを待ち望む声はすでに――。