6.


「メイ、待って!」
 広い空間であるがゆえに、やけに自分の声が響く。高い天井に音がこだまして、波のように押し寄せた。
 ふたつに束ねたメイの髪が、ハルの遙か前方で揺れている。制止の声は聞こえているはずなのに、彼女が止まる気配はなかった。それどころか、声を振り切るようにして、だんだん遠ざかってゆく。
 ファムとの話を、何故メイが聞くという状況になったのか、ハルにはわからなかった。不可解な女ごころ、それ故のものだとは想像もつかない。ただ、あの話を聞かれてしまったことで、取り返しの着かないほどの誤解を与えてしまうということには、容易に思い当たった。誰にも聞かれてはならないもの、時が来るまで明かしてはならない、重大な秘密。
 それに、なにがあっても、メイにだけは知られたくなかった。花のように笑う、すっと知っているままのメイで居て欲しかった。泣いたり悩んだりしている姿など、見たくない。
 自分にとってメイは、大切な仲間。とうの昔に崩れ去ってしまった、幸せな「家族」の姿をそのまま映す存在なのだ。
 傷つけたくない。壊したくない。
「メイ!」
 まだ、いまなら。
 長い髪の軌跡へ、必死に手を伸ばした。


「メイ!」
 とおくで、声が響く。その声の波にさらわれないように、その手につかまらないように、ありったけの力を出してメイは駆けた。追いつかれてしまったら、何故逃げたのかと問われたら、なんと答えていいのかわからない。
 混乱した思考を、なんとかまとめようとする。けれど、走り続けているせいでもう、なにがなんだかわからない。
 あのとき、とても彼のものだとは思えない冷たい声で、ファムと話していたハル。自分には理解不能の単語が浮かんでは消えた。あの声は、本当にハルのものなのだろうか。だとしたら、十三年もの間、ハルのなにを見てきたのだろう。少なくとも、メイにとってハルは、あんな冷たい声を出す人物では間違ってもない。いつも、うららかな春の暖かさを秘めた、穏やかな人物だった。メイの住んでいた地域で、その名前の響きが示すのと同じように。はじめてここにつれてこられたとき、緑のない不安と恐怖に泣きじゃくる彼女を心配ないと慰めてくれた彼。
 それがメイの感じる、ハルのすべてだった。

 でも、いまここには、自分の知らないハルがいた。自分の知らない時間、知らない場所で過ごしてきた、もうひとりの彼がいる。誰よりもそばにいて、彼のことはなんでも知っていると思ったのに、それは大きな勘違いだった。
 そして。
 メイの知らないもうひとりの彼が、ハルの本当の姿を映すものだということを、最後の一瞬、向けられたとまどいの視線で感じた。冬の色が解けて、偽りの春が瞳を覆うのを、彼女は見てしまったのだ。
 『いままでの時間は偽りなのだ』そう思ったら、いてもたってもいられなくなった。十三年、共に笑いあった時間、なにもかもが、儚いガラスの欠片となってきらきらと崩れ落ちる。

 怖かった。自分の知らないハルがいる。ずっとそばにいて、一番よく知っているはずだったハルじゃない。
 いままで、ハルのどこを、見てきたのだろう。
 得体の知れない恐怖から逃れるように、メイは走り続けた。
 足音はだんだん、近くなってゆく。


「メイ!」
 がくん、と大きく体が揺れた。ハルの大きな手がメイの手を掴んで、強く自分のほうへと引き寄せる。勢いに任せてメイの小さな体を、ハルは自分の懐へと抱え込んだ。
 走り続けたための、荒い息づかいだけが辺りに響く。
「捕まえた」
 ぎゅっ、と瞳を閉じて言葉を漏らす、かすかに揺れる低い声。反抗するそばからその力を奪ってしまうかのようなそれに、メイは幼子のように首を振った。
「どうして逃げたの? メイ。……話を、聞いた?」
 もがくメイをものともせず、ハルは腕の中の彼女にそう呟く。救いを求めるかのように、なにかにすがるかのように。
「ハル、解放計画って、なに? ファムと話していたことは、本当のこと?」
 頷く代わりに、メイは言葉をぶつけた。向けられた視線が痛くて、はっと息を呑むハル。その拍子に、メイはハルの腕からするりと抜け出した。
「こたえて、ハル」
 こらえることもなく、白い頬を涙が伝う。
「それ、は……」
 なにがあってもメイにだけは、真実を話したくなかった。メイと自分との関係を崩壊させてしまうことが確実なのに、そんなことができるはずもない。嘘をついてでも、この場をおさめてしまいたかった。たとえ分かり切った嘘であっても、言葉が見つかったならそのまま、告げてしまっただろう。
 けれど、なにも頭に浮かんでこない。想いも言葉も、考えていたことすべてが、闇にとけ込んでゆく。
「ハル……ハル」
 呼びかけるメイの声が、だんだんととぎれがちになる。
「だから、それは、その」
 時間だけが過ぎていく。あたりを支配するのは重苦しい沈黙だ。緑の雰囲気、暖かさの欠片もない無機質の空間に、寒さすら覚える。それは、明るく懐かしい、記憶を暖める時間があるだけに、悲しかった。

「ハルは、本当のところで、誰にもなにも、話してくれないんだね」
 唇を閉じたままのハルに、メイがぽつりと声を漏らした。
「いつだってハルは、なんにもないように笑ってる。怒った事なんて、滅多にないし、泣いたことだって、ない。……生きてる人間だったら、悲しいこともいろいろあるはずなのに、植物エリアのメンバーにも、私にも話してくれない。そんなに、信じられないの? ひとりでいたいの? もっと、本当のハルも、見せてよ……」
 メイの言葉、いまになってはじめて聞く、本当の心。いや、それはずっと前から向けられていたのに、受け取らなかったとおい言葉。
 ハルが隠していた過去が、真実を伝える勇気を奪っていく。拒否されはしないか、恨みの言葉を浴びせられるのではないか。そんな思いが自分の心を凍り付かせていく。
「ねえ、十三年、だよ。ここにつれてこられてから。この長い時間はいったいなんだったの? 全然わからないよ。少し前まではハルのこと、なんでも知ってると思ってた。でも、違うんだね。ずっとハルはひとりで、心の内の数十分の一も、私たちに見せてくれてなかったんだね。悲しいよ」
「それは、違、」
 言いかけたハルは、泣き笑いにゆがんだメイの顔に息を呑んだ。いつも明るいメイを、こんな風にさせたのは自分だということがわかっているからこそ、それが辛い。
「違わないよ。だっていまでも、ハルは嘘の言葉を探してる。真実を告げるつもりは、ないんだよね」
 心の底を見透かすかのようなそれに、唇をかむ。真実を告げるのは、いまでも怖い。滅びと混沌をうむだけの、厳しい真実。理解してくれる人がいるとは、思えなかった。
 いまここで、メイにそれを告げたとして、受け入れてくれる望みなんて、どこにもないのだから。
「好き、だったのに。信じてたのに。全部、ぜぇんぶ、嘘、だったんだね……」
 十三年という時の重みが、通り過ぎた。
 涙の軌跡が再び描かれる。足音と共に、小さな影は去っていった。


「メイ……」
 残されたのは、孤独な心。いつまでも、開くことのないそれには、重い血の鍵がかけられていた。
 言えなかった、どうしても。
 ここにいるものなら誰もが誰よりも憎んでいるDr.ウインドの血を、自分がひくものだということを。
 できるものなら、この身を滅ぼしてしまいたかった。蔑みと怒りの視線を向けられるくらいなら、心を消し去ってしまったほうが、どんなに楽なことだろう。
 けれど、それはできないのだ。
 自分が、ここに招かれた意味を思い出す。なすべき事はまだ、残っている。
 犯した過ちを償うための、閉ざされた卵。
 なにを失っても、戻るわけにはいかない。

 どん! 
 どうにもならない思いに、壁に打ち付けられた拳から一筋、血が流れた。
 それは傷ついた心が流す、赤い涙。
 心を癒すための繋がれた手は、もう、届かない場所に去ってしまったのだから。