5.


 かわいた音が通り過ぎた。そのあとを、ためらいがちに追う音もまた、消えてゆく。

 白い、消毒薬の匂いのする部屋に、取り残されたのはふたりだった。
 腕を組んで、黒曜の瞳を氷炎のように厳しくさせて。目の前のリアリィを、ファムは見つめた。
 対するリアリィもまた、少しも怯まずに見返している。夜空色の瞳が普段とはまったく違う、厳しさを秘めたものに変わった。それは子を叱る母の眼差しだ。なににも揺るぐことのない心を内に持っているかのようだった。
 瞳を逸らさずに、リアリィが立ち上がる。
「先ほどの質問の答えをまだ聞いていないわ。あなた方はいったい、なにをしようとしているの?」
 問いかけられたファムは、身じろぎひとつしないまま、答えない。ただ、その目だけがすっとなにかを見据えるかのように細められた。
「あなたに教えても、理解できないことよ。外を知らずに生きてきた、お嬢さまのあなたにはね。お帰りなさい。いまならまだ、なにも知らないままでいられるわ」
「そして、そのまま死ね、というのですね」
 リアリィが言葉を返す。普段の彼女らしからぬ、過激なそれに、ファムが瞳を巡らせる。
「物騒ね」
「はぐらかさないでください。確かに、私はなにも知らないかもしれません。世の中の厳しいことに触れたこともない私は、あなたにとってはまだまだ甘い考えしか持っていない娘にしか過ぎないのでしょう。けれど私にだって知る権利はあります。それにEgg Shellに危険があるとするなら、私は子どもたちを守らなくてはなりません」
 揺らぐことのない視線。それは己のあずかる権限から来る、逃れることのできない義務からもたらされるものだった。たくさんの未来を抱えている子どもたちを、なんとしても守らなければという強い思いが、リアリィをそうさせている。

「その自信はどこから来るのかしら。自分の道が、揺るぎないものだと、どうしていえるの? 確かなものは、あなたの手の中に本当にあるの?」
 かすかな笑い声を漏らし、ファムはさらに続ける。
「リアリィ、あなた自分がどうしてここにいるのか、わかっているの? 何故、あなたが命を救われたのか、その理由よ」
 ファムにとって、それは切り札だった。それを告げれば、きっと彼女は立ち直れなくなるほどの衝撃を受けるに違いないから。自分に対する追求を、逸らすことができる。
「知っているわ。私は、Egg Shellの建設資金の提供の条件として、命を救われたこと。私の命は、父や財団の財産で救われたこと。すべてを」
 そう、もうとうの昔に。彼女がリーダーになったことに嫉妬し、口さがない者たちがその噂を広めたことを、リアリィは知っていた。それでも、微笑んで答える。そんなもの、自分が手に入れたものに比べたら、とるに足らないものでしかない。リアリィはそう思っていた。
 なぜなら、Egg Shellはリアリィにとって初めて人と関われる、大切な場所だったから。飾り物としてしか見ない大人たちと違って、令嬢だのファーレン家の者だのという属性なしに、『リアリィ』という人間そのものを見てくれる仲間がEgg Shellにはいるのだから。
 そして、自分を慕ってくれる子どもたち。自分のもとで、少しでも安らぎを見つけてくれる仲間たち。必要としてくれることがどんなに嬉しいことか、教えてくれる場所なのだから。
 確かに、金で命を救われたのかもしれない。自分が居なければ救われた命もあったのかもしれない。初めのうちは、ひどく悩んだ。けれど。
 いま、ここにいるのは自分なのだ。過去に囚われ、思い悩むことはもう、できない。過去は、神ならぬ身の人間には変えられないのだ。

「確かなものなど、どこにもありません。けれど、いまを守りたい、大切な場所を守りたいという気持ちは、なににも揺るぐことはありません。私は必要とされてここにいる。それだけで十分です」
 そして、私はその場所を、守りたいのです。
 まっすぐに前を見つめる。場に似つかわしくない暖かな笑みを浮かべ、リアリィはそうきっぱりと言い切った。
 それは大昔の宗教画の、聖女にも似ていて、思わずファムは目をそらした。

「そんなに知りたいというのなら、教えてあげるわ。あたし、そしてアキ、ハル。過去にはウィルが関わった、計画のすべてを。知ったところであなたには、どうすることもできないのでしょうけれど、ね」
 ウィル、の名にリアリィがぴくりと反応する。Egg Shellすべての子どもたちの父、と言われ続けている彼女の前任者。彼がいったい、どう関わっていたというのだろう。
 リアリィの反応を面白げに見やったあと、ファムはその赤い唇から、破滅へ繋がる言葉を紡ぎ出した。


 過去よりの忌まわしい風が呼び起こす混乱。
 重圧に耐えかね、風を防ぐ立場でありながら、心を売った最高の管理者。
 風より生まれ、誰よりも風に近い心を持ちながら、それを受け入れず、さまよう植物の守人。
 そして――。
「ウィルはね、はじめからこの計画に乗っていたそうよ。あたしが彼を見つける前から、ね。『あの人』のために、ここに来た、あたしと同じ立場だった。なのに、すべての子の父なんて言われているうちに変わったのかしら。『私は子どもたちを守らなくてはならない』なんて言い始めて……裏切ったの」
 だから、消えてもらったわ、とファムはこともなげに付け加えた。


 リアリィがまだなにも知らなかった頃。ほんの少女だった頃のウィルの顔がよみがえる。いつも笑みを絶やさず、根気よく子どもたちにつきあって。いまでもリアリィにとって、最高の目標なのだ。
 病がちになり、あっけなく死を迎えるまで、彼には変わったところなどひとつもなかった。けれど、心の奥ではこんな葛藤を抱えていたなんて。
 亡くなる少し前、つきっきりで仕事を学んでいたリアリィに、珍しく気弱に、いなくなったら頼むだの、子どもたちには申し訳ないだの、せめてもの罪滅ぼしだだの繰り返していたことがふと浮かんだ。
 あれは、このことだったのかもしれない。
 子どもたちを守ることと、すべてを破壊してしまうこと。
 相反するふたつの間で、ウィルはどう考え、その生を終えたのだろう。

「ウィルがまだいてくれたのなら、子どもたちを利用することだってできたはずなのに」
 顔色ひとつ変えず続けるファムは、心をすべてどこかに置いてきてしまったかのようで、リアリィは哀しみを覚えた。
「でも、アキもハルもいる。まだふたりもいる。大丈夫。すべてを無に返すことができるわ。『あの人』の望み通り」
 繰り返す彼女の言葉は、どこか感情のこもっていないもので。そう思いこもうと、それだけが真実なのだと、自分に言い聞かせているように見えた。

「それは、あなたの本当の望みではないのでしょう?」
 夢見るようなファムに、リアリィはそう指摘した。あまりに盲目的なその姿は、どう考えても、親の望みは自分の望みだと思いこんでいる子どものもの。
「すべてを壊して、あなた自身も消滅させて。そこになにが残るというのです? これ以上馬鹿げたことはないわ。あなたの、ファムとしての本当の心はなに? 私はどうしても、いままでの言葉が、あなたの本当の言葉だとは思えないの」
 視線を向けた。瞳がぶつかり、そして、黒曜の色が閉じられた。心の内を見透かされまいとするかのように、きつく。
「なにを言っているの? これは他でもない、あたし自身の望みなの。たった、ひとつの」
 そう、あの人願いを叶えたなら、悩まなくてすむ。すべてに。自分の心にさえ、煩わされないですむのだから。ファムはそう自分に言い聞かせて、自らの疑念を振り払うように首を振った。
「アキはすでに、準備に取りかかってる。もう、あなたたちの前に、現れることはないでしょうね。話すことも」
 秒読み段階なのだ。あと、もう少し。これ以上煩わされてはかなわない。会話を打ち切るようにファムが言い放った。
「アキはどこ? 彼とも話がしたいの。居場所を教えて」
 姿が見えないまま、これで終わりにはしたくなかった。確実に滅びが訪れるというのなら、なおさら。
 孤独と絶望の淵にいて、こんな真似をするというのなら。
 ならば、リアリィのできることは一つだけだ。引っ張り上げる。それこそ、両頬を真っ赤になるほどひっぱたいて心配する人がいるということを、ひとりではないということを、知らせなければ。
「教えて、ファム。アキは」

 もういちど、ファムは同じ問いを繰り返す。と、言い終わらないうちに背後から、勢いよく誰かが飛び込んできた。
「良かった! ここにいらっしゃったんですね、先生。急病人なんです。他の先生方は皆さん出先がわからなくて。早く、診療室へお願いします!」
 白衣の乱れを気にもとめず、入ってきた女性はファムの手を勢いよく掴んだ。そのまま走り出す。それに逆らわず続いたファムは、リアリィの横を通り過ぎるとき、何事かをささやいた。

「好きにしたらいいわ。あたしたちはもう、誰にも止められない。できるものなら、やってみなさい」
 ファムの声が心に残る。まるで、止めて欲しいと願っているように聞こえたのは、自分の思い過ごしなのだろうか。