4.


 焼きたてのクッキーと、とっておきだという紅茶がおいしそうな香りを放つそのそばで、メイは盛大にため息をついた。今日ばかりは喜んで食べる気力もない。クッキー目当てにちらちらと、周りの人間がこちらを向くが、それにすら気づいている様子もない。
 そんな様子を見て、今日メイをここへ呼んだ張本人、リアリィは優しい瞳で微笑んだ。
「さあ、メイ、今日はあなた以外呼んでいないのよ。召し上がれ?」
 ティーカップを持ち上げてまた笑う。
 相談事があるからと、メイに打ち明けられたのがその数日前。だからいつものお茶会も、ごめんなさいとお断りして、メイのためだけに席をもうけたのだ。ちらちらと向こうのほうから視線を送る、残念そうな仲間が見える。
 もういちど視線を向けられ、メイはとうとう観念したのか、しゃべり出した。

「あのね、ハルの様子が最近おかしいの」
 その言葉に、リアリィは訳知り顔に頷いた。メイがハルに、仲間に対するともリーダーに対するとも違う想いを抱いている。それは、彼女の周りにいるものならば誰もが知っている事実だった。だから、彼女の相談事がその想いに対するものだとリアリィは思ったのだ。
 頷くリアリィに、すべて知っているわと言われたような気がしたメイは、一瞬言葉に詰まる。けれど、気を取り直して慌てて反論を試みようとした。この期に及んで彼女は、未だにハルに対する思いを口に出すのが恥ずかしいらしい。
「違うの! それは、その……私だってね、ハルのこと、ううん! 違うってば、本当にハル、最近変なの!」
 慌てたせいで言わなくてもいいことまで言いかけた口を慌てて塞ぐ。
「どんな風に変なの? メイが困ること?」
 これは相談の種類が違うらしい、とリアリィは真剣な顔になる。
 にっこり。すべてを溶かすようなあたたかい顔を向けられたメイは、口ごもりながらも話をはじめた。


「はじめはね、うーん、二週間前、位だったかしら。急に出かけるって言い出して。しばらくして帰ってきたかと思ったら手を怪我してきたのよ。どうしたのって聞いても答えてくれないし」
 そのときに抱きしめられた、とは恥ずかしくて言えない。いまでも顔が赤くなってしまうくらいなのだ。
 ハルの不可解な行動はそれから続く。自分の行く場所も知らせないままどこかへ姿を消したり、日によってはまったく姿を見かけなかったり。仕事も中途半端で、ミスばかりの日々が続いた。
 それでも、ハルは笑って「なんでもない」と答えるだけ。
「ハルってね、自分の思ったことなんでも、心の中にとどめちゃうところがあるの。だから、絶対なにか隠してると思うのよ。仕事をしてるときが、植物と接してるときが一番嬉しそうだったのに、この頃ずっと上の空だし」
 十年以上ハルと一緒に仕事をしていれば、彼の様子がおかしいことぐらい、簡単にわかる。だから何度もどうしたのと聞いている。それなのに、ハルがなんにも打ち明けてくれないことが悲しかった。
 ハルにとって自分とは、ただの仕事上の関係でしかないのだろうか。そんなことを考えて、ますます気分が沈んでしまう。自分に向けられたハルの微笑みは、いままでと変わりがないのに。

 深いため息をもういちどつき、メイはリアリィに問いかけた。
「ねえ、私、変なのかな? いつものハルなのに、私がそんな風に感じてるだけ?」
 端から見れば、それは羨ましい恋の悩みでしかないのだろう。でも、本人にとっては深刻な、人生を左右しかねない悩みなのだ。
 リアリィは、そんなメイを優しく諭すように、柔らかく話し始めた。
「いつもそばにいて、ずっとハルのことを見ていたのでしょう? そんなメイが気づいたんだったら、それは気のせいではないと思うわ。
 ハルが、原因を話してくれないのは、まだ時期が来ていないだけかもしれない。心配をかけたくないって思っているのかもしれない。焦りは禁物よ。ゆっくり、ね?」
 首を傾げて微笑む。リアリィの話し方や表情にすっかり包み込まれてしまったメイは、ようやくテーブルの上のクッキーに手を伸ばした。
 紅茶を一口飲んで落ち着いたらしく、テーブルの上に突っ伏す。
「なんだか考えすぎて悩みすぎて疲れちゃった。もう、ここまで乙女を悩ますなんて、ハルったらどうかしてるわっ」
 腹立ち紛れに口に出すと、少しすっきりした。その言葉を聞いて、リアリィが肩をふるわせる。それを横目で見て、メイは顔を赤くした。違う文化圏で育ったリアリィにはこの表現、わかってくれるかしらと思いつつも、両手を合わせて頼み込む。
「いま言ったこと、内緒にしてね? お願い」
「はいはい」

「そうそう、変といえばね。アキの噂は知っている?」
 しばらく、どうしようもない愚痴を言い合ったあと、リアリィがふと思いついたように口にした。
「アキ、ってあの行方不明って噂のこと?」
 そう、とリアリィが答える。中空を、困ったように眉を寄せて見つめる。
「最近ね、本当にいないのよ。どこにも。お仕事お疲れさま、っていう意味で何度もお部屋までお菓子を持っていったりしたのだけれどもね、ここ暫く、いたためしがないの。いつもショウが居て、なんだか思い詰めた顔をしているの。おかしいでしょう?」
 そしてリアリィは紅茶を一口含むと悩ましげな様子で息を吐き出した。
 その様子に、メイの瞳がきらりと光る。
「リアリィ、ねえ、もしかして」
 言いかけたメイを、リアリィが視線で止める。その様子はいつもの穏やかな彼女のものでなく、少女の表情で、同じ秘密を共有した気分になったメイは少し嬉しくなった。
「男の人には、お互い苦労させられるのね」
 そのリアリィの言葉をきっかけに。ふたりは暫く笑い続けた。

 笑ったせいでにじんできた涙を拭う。そのメイの視界にふと、ハルの姿が映った。
「ハル!」
 がたっと音をたてて立ち上がる。けれどハルは、そのメイに気づく風もなく、なにか慌てた様子で前に視線をやっている。その方向に目をやると、なにかを腕に抱えて歩き過ぎるファムがいた。
 早足でファムに追いついたハルは、彼女の腕を掴み引き止める。なにかを激しく言っているような雰囲気だった。それをものともせず、振り切って進むファム。ただならぬ様子のふたりは、辺り全員の注目を集めている。
 まるで恋人同士の痴話げんかのような様子に、ざわざわと噂をする声が聞こえた。
「ハルに、ファム? なんで、あのふたりが……?」
 呆然としてその様子を見つめるメイは、かたかたと震えている。
 心配そうに見上げたリアリィが、その手を優しく押さえた。
「リアリィ、ついてきて」
 泣かれるとばかり思っていたリアリィは、その言葉に目をぱちくりと見開く。重ねられた手が、ぐっと握られた。
「確かめるの」

「ねえ、ちょっと、メイっ。どこまで行くつもりなの?」
 腕を引っ張られ、こそこそとメディカル・センターの物陰に隠れつつ、リアリィはメイを引き止めようと立ち止まった。結局、お茶もお菓子もそのままにここまで引っ張られてきてしまった。思いこんだら退かない彼女の性格に、ため息が漏れる。
「だって気になるじゃない! は、ハルとファムが、もしかして、こ、ここ、恋人とかっ」
 しかもあの様子からすると、ハルのほうが一方的に、という風に見える。ファムには何度も、相談をしてきたし、だからちゃんとハルへのメイの思いもわかっていて。なんだかぐるぐると、メイの頭の中では考えが渦巻いている。
 物陰からのぞくと、ふたりはファムの部屋に消えていった。
 それと同時に、メイは扉に駆け寄り聞き耳をたてる。おろおろとしつつ、リアリィがそのそばに立った。
「メイ、見つからないうちに離れましょう? いくらなんでもこれは、あんまり褒められたことじゃないわ。その、恋人同士の会話を盗み聞き、なんて」
 ましてや部屋にふたりきり、となれば、などと思い、顔を赤くする。
「恋人同士かどうかはまだわからないじゃない」
 一応辺りをはばかってか、小声で答えるメイ。それでも扉から耳は離さない。
「あ、なんだかアキのこと、話してる。なんだかもどかしいわ。扉が厚くて、切れ切れにしか聞こえてこない」
 アキ、という言葉にリアリィの表情が変わった。ちらちらと扉に視線を送り、とうとう観念したのか、好奇心に負けたのか、メイの隣に並んだ。


『それで、今更なにか? そんなこと言えた立場かしら、ハル』
 声はなおも聞こえてくる。それは、想像していた甘い雰囲気とはほど遠い、緊迫したものだった。
『だから、すべての人を犠牲にする計画なんて僕は認めないと言っている。Egg Shell解放計画なんて言っているが、ただの殺戮と同じじゃないか。外の状況がどうなっているかもわからない、そんな状況で、君やアキは、それが本当にどういう事を意味するかわかっていてやるのか?』
『くどいわ。ハル、あなたは『あの人』の代わりにやり遂げなければならないことがあるの。そしてそれをあなた自身も受け入れた。……違って?』
 息をつく音。Egg Shell解放計画? 『あの人』? 殺戮? 現実味のない言葉が扉の近くのふたりを襲う。とんでもないことに足を踏み入れてしまったと、そのとき初めて気が付いた。
『確かに、僕にはやらなければいけないこと、があるんだろうね。『彼』にとって。でもそれは、僕が決めることだ。君にも、アキにも、指図されるいわれはない。結果的にEgg Shellが破壊されるかどうか、それは別問題だよ』
 優しいいつもの声とは違うハルに、メイは耳を疑った。これはあのハル? ファム? まるで裏稼業に就く人物のよう。いままでの彼らとの思い出がよみがえっていく。これは、果たして現実のことなのだろうか。そんな思いが体中を支配する。隣でリアリィも、息を呑んで硬直していた。


「誰かいるの?」
 と。鋭い声が飛んで、ふっと体の支えが無くなった。前のめりになって部屋に転がり込む。
 呆然として立ちつくすハルと、厳しい目をして扉の前に立つファムが、目の前にいた。


「困ったお嬢さん方。どこから聞いていたのかしら?」
 腕を組んでつかつかと、転がり込んだふたりの元へ歩み寄る。表情だけはいつものものだが、雰囲気はまったく違う。気圧されるような、まなざしだ。
「Egg Shell解放計画とはなんなのですか? アキとの関係は? あなた方はなにをするつもりなのですか?」
 その視線から目を逸らさずに、リアリィが質問を重ねた。その、何者も恐れることがないかのような強い視線にファムは眉を面白そうに片方あげた。ちらりと送った視線の先、白い手だけが、心の奥を映してかたかたと震えていた。
「人の話を盗み聞きしておいて、たいした度胸ね。メイは違うみたいだけれど」
 メイのほうを振り向くと、彼女は目を見開いてハルのほうを見たまま、心ここにあらずといった様子だった。目の前で繰り広げられていることが信じられなくて、これは夢なのだと必死で思いこもうとしているような雰囲気。
「メイ?」
 おずおずとハルがメイの肩を揺する。瞳に光が戻ると同時に、メイはハルの手を振り払った。
 立ち上がり、そのまま外へと駆けだす。その横顔にうつるのは、透明な涙。
「メイ!」
 振り払われた手をじっと見つめると、涙を追いかけるようにして、ハルが後に続いた。