Double File.9 ｢うつわ｣

File.9「うつわ」

「ああ、それだね。酷い事をするね、こんな幼い子に」
　印を見て驚く皆に、老婆は痛ましそうにそう告げた。おそらく、少女を湯浴みさせている時に見つけたものだろう、彼女の表情には驚きはない。
　印と自分が注目を集めていることに気づいたのだろう、少女はあたりを見回すと、心細そうに横の寝台の掛布を握った。かたかたとちいさく震えている。
「何で、この印を持った子が、こんな所に」
　言葉を繰り返すエディ。同じ印をその身に刻まれているものとして、それは絶とうとしても絶てない、影とのつながりであることがわかる。肉にも骨にも刻み込まれたそれは、その部位をそのまま失いでもしない限り、消せるものではない。消そうと何度も試みた自分が一番よく知っている。そしてその印は自分の居場所を影に知らせ続けるのだ。永遠に逃れられない。
「エディ？」
　印の意味を知らないティアフラムが訝しむ。
　泣きそうな目をして考えるエディに、老婆ははっと気づいた。
「この印を知っているのかい？　……ああ、そうだったね、あんたもジールヴェだったね。これが何を意味するか、わかるんだね」
　気遣いながらの老婆の言葉に、エディはかすかに頷く。
「はい……」
　消えてしまいそうな声を、エディはようやく絞り出した。
　

「ジールヴェはね、ひとでもない、精霊でもない。だから成長するまでは本来なら、親のあつい庇護のもとでなければ、育たないんだよ」
　訳がわからないと騒ぎ出したティアフラムのため、老婆は諭すように語りかけた。
「どうして？　あたしたち精霊は、うまれたばっかりのときは違うけれど、それでもそんなに親とべったりじゃないわ。人間はどうか知らないけど」
　訳がわかんないわ、と漏らすティアフラムに、老婆は仕方ないねと苦笑する。
「炎の姫君、人間もジールヴェほどは手は掛からないよ。ジールヴェは、ふたつの力を受け継いでいるせいか、とても周りの変化に敏感でね、そのせいで、時には自身の存在さえも失ってしまいかねない、あやふやな生き物なの」
　エディも、幼い時に両親を失って、彼らの記憶はまったくといっていいほど無い。それからずっと、影の世界を歩んできた故にジールヴェがそもそも、どういうものなのかを周りから教えられずに来た。影から救われて、父の一族から簡単なことは教わってきたが、同じジールヴェとしての老婆の話は、とても貴重なものだった。同じ存在でなければ、わからないものがある。
「私たちジールヴェのことを哀れな愛し子だというのを聞いたことはないかい？　それは、ジールヴェが、見失ったら消えてしまいかねないくらいの幻のような存在だから」
　歳と経験を経たものだけが持つ、すべてを見透かすような表情で告げた老婆に、皆は黙り込んだ。精霊と人間、ふたつの間の絆が、こんなにも淡い形でしか存在できないなんて。
「長老たちが、ジールヴェのことを哀れな愛し子だって……。そういう意味もあったのね」
　ぽつりと呟いたティアフラムの言葉に、老婆は穏やかに頷く。
「そうしてね、ジールヴェの子どもにはこころがないの。……印を知ってるものならわかるかね、それを利用されたこと」
　思い詰めた瞳をするエディの方を向いて、老婆は言った。
「こころが、ない……？」
　言われた意味がわからずに、ファーが問い返した。
「そうさ、ジールヴェにはこころが備わってないんだ。空っぽの薄い泡のようなもの。そうしてね、ジールヴェは親から愛をもらって、だんだん、自分の存在を確かなものにしていくんだよ。……影は、その代わりに力を注ぎ込む。思い通りに動かす為に、こころはいらないからね。私は運良く、見つからずに済んだけれど、見つかったら逃れられない。あとは影に引きずり込まれるだけ」
　優しい目をして、もういちど老婆はエディの方を振り向いた。
「印を持ちながら……良く、逃げ出せたね。よっぽど大切に思ってくれる存在があったんだね」
　ぽろ、とエディの森の色をした瞳から一筋、涙が流れた。
　

　長く重い話が続いたせいか、少女はデルディスの寝台の横で、眠りの世界に入り込んでいる。見つけたデルディスがかすかに笑い、少女を寝台に引き上げた。
「で、どうするんだ？　俺たちは旅暮らし、しかも追われてる。この子を連れて行こうったってそううまくはいかない。……安全かどうかも、まだわからない」
「デル！」
　咎めるように、ファーがその言葉を遮った。
「だが、事実だ。この子が本当に影に支配されていないと、どうして言える？　危険は、できるだけ避けたい」
　たとえわずかの間でも、守ろうと必死になった少女に対して、酷であることはわかっている。けれど、自分たちの身も守れないでさらに彼女を守ろうなどと、出来るわけがない。
「この子がまだ、影に取り憑かれているという可能性は、まだ消えていませんの？　本当に？　……この子をひとりで放っておけっていうことですの？　何の庇護もなく、放り出されて、この子にどうやって生きて行けといいますの！」
　冷たいデルディスに、ファーが声を荒げる。その激しさに、眠りの世界にいたはずの少女が、薄く目を開けた。
「ファー。わかってるはずだよ。僕たちにそんな余裕がないって事。これでこの子を連れて行ったら、危険は倍になるよ？」
　追い打ちをかけるように言ったエディ。聞きとがめたファーは、きっ、とエディとデルディスをにらみつけたかと思うと、
「わたくし、あなた方がそんなに薄情だとは思いませんでしたわ！」
　言葉を投げつけ、走り去ってしまった。
　残されたのは、唖然とするエディとデルディス、状況を理解できていないティアフラム。おやおやと苦笑する老婆に、半分眠りの淵に沈んだままの少女。
「……さて、どうするかい？　私はね、この子を引き取ってもいいよ。どうやら素質があるようだから、私の跡を継がせてもいいしね。同じジールヴェだし、助けにはなるだろうからね」
　軽く少女をなでて、ふたたび寝かしつけてから老婆は告げた。
「でも、それじゃあなたの方が影に狙われることになっちゃいますよ？」
　慌ててエディが言いつのる。せっかく、無事に狙われずに済んできたのに、とばっちりを受けることにならないのだろうか。
「この子を外に放り出したって、影に戻ってそれでおしまいよ。それよりは、ちゃんとこの子に生きることを教えてあげたいのさ。……目くらましをかけることは可能だから、ね」
　老婆は、立ち上がり、部屋から姿を消したかと思うと、ちいさな石の連なった細い紐を持ってきた。古びてはいるが、しっかりしたものであることが遠目でもわかる。エディは、その石にふわりともやがかかっているように見えた。力が形になって、取り巻いている。
「それは？　ずいぶんと古いものみたいだが」
「ねえ！　これって精霊の贈り物？　すごく力を感じるわ。火の力じゃないみたいだけど……」
　正体がわからないデルディスの疑問と、目を輝かせてそれを見るティアフラムの声がかぶる。
「ああ、私の母がね、私にくれた贈り物。地の精霊の守りがかかった飾り紐だよ。このおかげで、私が私になるまで影に連れ去られずに済んだの」
　懐かしそうに紐をなで、老婆は呟いた。
　

「本当に、お願いしてもいいんですか？」
　宿に戻ると主張したデルディスの肩を支えて、エディは見送りに来た老婆に頭を下げた。初対面の相手に、こんなに甘えてしまってもいいのだろうかというためらいと、少女に対する後ろめたさがまだ残っている。助けた張本人であるデルディスも、すまなそうにしている。
　対する老婆は、何を言っているんだとでもいいたげに笑ってみせた。
「困った時はお互いさまだよ。それに、同じ種族だものね。それに、私も跡を継ぐ子が見つかって嬉しいんだからね。あの子は責任もって、私が育てるよ。親の代わりに愛を注いで、あの子を立派にしてみせる。自分のこころを持ちはじめれば、影に取り込まれる危険も、少なくなるから」
　まだ寝台で眠りこけているはずの少女を思って、家の方を振り向いた。
「もしここにまた来るようなことがあったら、寄っておくれ。あの子もきっと、会いたいと思うからね。治療師のリアンと言えばわかるから、訪ねておいで」
　手を振って見送る老婆――リアンを背にして、三人は宿へと戻る道を急ぐ。肩を支えるエディが、呆れてため息をついた。
「本当にデルってやたら妙なことに巻き込まれやすいんだよね。ファーに出会った時もそうだし、ティーの時もそうだし。いつもデルが何か決めるとこうなんだよなあ。あとは何だっけ、もう覚えきれないや」
　ティアフラムが何よっ、と反論するのを横目に、デルディスが聞き捨てならないと眉を跳ね上げた。
「もとはと言えばエディ、お前に出会ったせいなんだぞ。お前を拾わなかったら、あんな苦労は絶対してない」
「それは、そうなんだけど。感謝してるよ。自分がどういう状況だったのか、あの子を見て初めてわかった。デルディスが拾ってくれなかったら、僕もあの子と同じようになってたから」
　乱暴に支えるエディに、本当に感謝しているのかと疑問を持ちつつ、あまりの自分の運の悪さに、苦笑したくもなる。色々巻き込まれつつも、今まで無事でいたというのは、それなりに運がいいということなのかもしれないが。
「……そういえば、どうしよう。ファーのこと」
「あ……」
　思い出したように声に出した事実に、エディとデルディス、ふたりの背中から、冷たい汗が滑り落ちた。

　デルディスが受けた傷は余り深いものではなかったが、それでも、すぐに旅を再開できるようなたぐいのものではなかった。けれど、ここにも影が迫っていることを考えたら、出発するのは早いほうがいい。自分は動けると頑固にデルディスが主張したために、一行は早々にアルマイスを旅立つことになった。
　老婆のもとを怒って去って以来、ファーの機嫌は直らない。旅立ちの準備をするファーの背中は、声がかけられないほど怖い。
「……わかっては、いますのよ。あの子を連れて行ける余裕があまり無いことくらい。でもね、それじゃあまりに可哀想で」
　エディにもデルディスにも口をきかないファーは、ティアフラムにだけそうぽつりとこころの内を漏らした。
「ファー、そろそろ、行こう？」
　ドアの隙間から、エディがおそるおそる顔をのぞかせ、時を知らせる。
　無言のままのファーは、荷物を抱えると、エディの横をすり抜け、階下へと降りていった。
「ねえ、ファーにちゃんと謝ったの？　まだ怒ってるわよ」
　困った顔をしてファーの去った方を見遣るエディに向けて、ティアフラムが咎める声をかける。
「……まだだけど。ティーに言われる筋合いはないよ」
　思わず、怒りを爆発させてしまいそうになり、ティアフラムはやっとの事で、のどから出かかった言葉をおさえつける。このまま面と向かっていると、また大げんかに発展しかねないのがわかっていたから、
「ばあーかっ！　女のこころがわかんないなんて最低っ」
　ぽつりと捨てぜりふだけ残してファーの後を追った。
　

　無言で階下へ降りると、すでに準備を終えたデルディスが待っていた。気まずい空気が流れる。デルディスに言葉をかけられる前に、ファーは先手を打って宿屋の出口へと歩み寄る。
「行きましょう。のんびりしていられないのでしょう？」
　その声はまだ冷たい。
　そのまま外へと出たファーが、何かに気づいて立ち止まった。気づいたデルディスも、後を追って外へ出る。
「リアン……それに」
　宿屋の外には、リアンが、あの少女をつれて立っていた。少女の目は、泣きじゃくったのだろう、はれぼったく、まだぬれている。止めどなく涙が流れている。
「あんたたちが行ってしまってから、この子は泣いてばっかりなんだよ」
　困ったように微笑んで、リアンは少女の髪をなでた。
「旅立つ前に、もういちど会わせてあげようと思ってね」
　少女は、デルディスの姿を見つけると、目を輝かせて胸に飛び込んだ。ぎゅっ、と服を掴んではなそうとしない。飛び込まれたデルディスは、抱きしめていいのかそれとも引き離すべきか、複雑な表情をしたまま動けないでいる。
「待て！　逃げるなんて卑怯だぞっ！　……って、何でこんなとこに」
「本当のこと言っただけでしょっ！　あれ、リアンと……」
　ティアフラムと、怒りながら追いかけるエディも外へ出て、リアンと少女がいるのを見つけた。ふたりとも追いかけるのも逃げるのも忘れて寄ってくる。
「さあ、おいで、また会えるから、しばらくうちで待っていようね」
　少女を抱え、困った顔をするデルディスから、リアンは少女を離そうとする。気づいた少女は、首を振ってしがみつき、さらに泣いた。
　泣きじゃくる少女を見る。懇願するようなファーの顔、デルディスと同じく困った顔をするエディ、展開を楽しんでいるかのようなティアフラム。
「リアン。目くらましはどれくらい効く？」
　観念したように、デルディスは少女の背中を優しく支えた。
「私がつかまらなかったくらいだよ？　効果を疑うのかい」
　すべてを理解したかのように、老婆の表情は優しくて。
「……仕方ない、連れて行こう」
　少女を優しく撫でると、ため息をついた。
　ファーの歓声と、やっぱりデルは甘いんだから、と言うエディの言葉に照れたように笑ってみせる。
「……悪かったな。この子の一族が見つかるまでだ。いいだろう？」
　どうだか、と一族が見つかってもなおデルディスと共に旅を続けるエディが返した。
　どうやら丸く収まりそうな状況にティアフラムはつまらなそうに口をとがらせる。そして、はっと気づいた。にやり、と笑みが浮かぶ。
「ねえ……やっぱり隠し子なんじゃない？　パパだったりしてっ」
「……ぱ……ぱ……？」
「ほらっ！」
　少女はティアフラムの言葉をただまねただけなのだが、ティアフラムは勝ち誇ったようにデルディスに指を突きつける。
「だから、俺は無実だと言っているだろう！　懐かれやすいだけだ」
「知らないっと」
　明らかにからかっていることがわかるティアフラムに、むきになって反論するデルディス。その様子を、きょとんとした目で少女が見つめ、くす、と笑った。
　つられて、エディもファーも、リアンも笑みをこぼす。
　

「いつでもおいで、待っているからね」
　手を振るリアンに手を振り返して。一行はアルマイスをあとにした。少女は安心したように、デルディスに抱かれて眠っている。
　地図の通りに先へ進むと、だんだんと光が少なくなり、まだ午だというのに薄暗い空間が続くようになる。
　深い森に抱かれて続く先の道。
　眠りに沈む精霊の森は、一行を深く抱きこんで離さないかのように口を開けて待っていた。