ile.10「はじまりの刃」


 夜のとばりがおりる。堅牢な石の城の奥の奥で、男が身じろぎをした。
 それに気づいたかのように、傍らにいた少女が涙に濡れた顔を上げる。ひとではなかった。その、空気にとけ込んでしまうかのように自然な雰囲気をまとわせた少女は、この大地を守り、代々の王と親しい間柄にある地の精霊の長だった。
 そして男は、この国の民を統べる王である。
 
 この大陸で、それぞれ唯一の存在であるふたりは、その近しさ故か、それとも、代々受け継がれた血がなせるものなのか、お互いに、立場を越えた思いを抱いていた。
 少女は、男が少年の頃からずっとそばにいて、ずっと男を守ってきた。男と過ごす日々が、何よりも――そう、大昔に祖先たちが交わした守護の約束よりも――少女にとっては大切だった。
 けれど、少女はこの大地のもので、男はこの国の民のもの。自分の身ひとつ、思い通りにすることが出来ないのである。
 高貴なるものの義務として、すべてを捨ててふたりだけになることは、どうしても出来なかった。
 
 ふたりは思いを封印し、この大地を代わりに愛した。まるで、叶わぬ想いの結晶の、愛し子のように。
 けれど、ときどき。誰にも気づかれぬように、闇があたりを支配する頃、ふたりはこうして、一緒の時を過ごす。
 
「すまぬ……アルフェリシア。家臣たちを……民たちの声を、止めることは出来なかった」
 その日、少女は激しく泣きじゃくって男のもとへ来た。愛しい森が、またひとつひとの手によって切り開かれたのだった。増え続けるひとを養うために……また、国の富のために。
 男は家臣に押し切られ、開墾を承諾してしまった。
「……これも大地に生きるひとのため……わかっております、ディーン」
 少女は、自分の金の髪を撫でる男を愛おしそうに見つめ、ふたたびまた止めどなく、豊穣の大地を映した瞳から涙を流した。
 彼の王としての時間も、ひととしての時間も、もう残り少ないことがわかっていたから、少女は何も言えなかった。少女は出会った頃からずっと変わらないのに、男はもうその命を終えようとする頃にさしかかっている。
 ただ、押し寄せる別れの哀しい予感に、こころをふるわせるだけ。
 
「深い森、高い山……そなたと駆け回った懐かしい大地は……いつまで、残っているのだろう、な。守ってやれなくて、済まないと思っている……本当に……」
 少女の答えが聞こえていないかのように、男はさらに言いつのった。まるで幼い頃を懐かしむかのように細められた瞳に、かつての輝きはない。
 
 暗い部屋にかすかにともる明かりがふたりを照らす。いまだ涙を流し続ける少女の頬を優しく包んで、男が口づけをしようとした時『それ』は現れた。
 
「誰だ! ここは王の居室。許可無くば近づくことは出来ぬぞ!」
 体の内に、なおも残る王の威厳をもって、かすかな気配のした扉へと声を投げる。少女は首を傾げた。
「何か、感じたのですか、ディーン……? ……!」
 その少女の細い首が、突然、何かできつく絞まった。 異変に気づいた男が振り向く。その瞳が驚愕に見開かれた。少女の背後に何かがいる。
「ディーン……逃げて、ください……。哀れな愛し子のかけらです……お命が危のうござい……」
 少女の首に巻き付けられたそれは、不思議な色をした布のようなもの。淡く光を放ち、不思議の力を帯びていることがわかった。そしてその光が増す毎に、少女の影が薄くなってゆく。
 
「彼女を……はなせ」
 瞳で侵入者を威圧する。だが、『それ』は、無機質な瞳で顔色ひとつ変えず、少女の力を奪ってゆく。
 業を煮やして、男は部屋の宝剣を持ちだした。初代から伝わる大地の力を込めた剣を抜いた男は、少女のもとへと駆け寄った。
 『それ』は面白いものを見たかのように一瞬笑う。そして少女を束縛している片手をはなし、懐へ手を伸ばす。
 中途半端に解放された少女が床にくずおれた。少女を通して、向こうが見えるほどに衰弱しきっていたが、それでも必死に、男へ手を伸ばす。
 男が少女を助けようとかけより、『それ』に一太刀浴びせようとした、その刹那。
 懐へ手を伸ばしていた『それ』が手を翻す。
 銀にきらめく刃が男の胸深く突き刺さった。


 すでに息をしていない男のもとに、少女は消えてしまいそうになりながらようやくたどり着く。
 『それ』はもういない。
 自身の存在が無くなってゆくのを感じながら、少女は男に、最期の口づけをした。
 

「そう言えば、この子をなんて呼ぶか考えなくちゃな」
 森の入り口、一晩をそこで明かした一行は、旅立ちの準備を始めていた。寝ぼけ眼の少女の頭を撫でて、デルディスがそう言う。
「え、その子って名前ないの?」
 水の精霊を喚んで朝食の準備を手伝ってもらいながら、エディが驚いて振り向いた。荷物から食料を出していたファーも、その動きを止めて少女の方を見た。
「ああ。リアンによれば、まったく覚えていないらしいんだ。俺が聞いても、首を振るだけだったしな」
 な? と少女に聞き返すが、きょとんとした表情のまま、動かない。
 
「……面倒ねえ……」
 水の精霊からこっそり姿を隠しつつ、ティアフラムがつぶやく。しがみつかれていたエディが、お前に聞いてない! とティアフラムを振り払った。
「なあにようもうっ! ……あ……」
 飛び出したティアフラムと、喚び出されていた水の精霊の目があった。にっこり、と微笑み返す水の精霊に、ばつが悪そうに首をすくめてみせるティアフラム。
 水の精霊は、少女の姿を認めると、まあ、と顔をほころばせた。ふわり、と跳んで少女の目の前へと向かう。
「可愛い愛し子、私たちの力を受け継いだ大切な子。エディ、この子は私たちの力も持っているわ。……感じるのは水の力だけではないのですけれど……。大切にしてあげてね」
 その言葉に、聞いていた皆は驚きの表情を浮かべた。
「それ、ほんとう?」
 手がかりを見つけたと目を輝かせるエディに、彼女はええ、と答えた。親を捜していることを伝えると彼女は少し考え、わかったわ、と答えたあと姿を消した。
 
 自分の目の前に、水の精霊が現れ祝福を与えたことに驚いたのか、少女はぱちくりと目を見開く。
「水のジールヴェなのかな? それなら、ふさわしい名前を付けてあげないと……」
 余り名前を付けるのは得意ではない。召喚士ならではの感覚だが、名前が重要な意味を持つということがわかっているだけに考え込まずにはいられないのだ。
 見ていたファーが、これでは父親になった時が大変ね、とくすくすと笑う。顔を真っ赤にしたエディが、慌てて反論すると、ファーが子どもを相手にするようにはいはい、と攻撃をかわす。
「水……そうですわねえ、ミュゼリアというのはどうかしら。わたくしの家に伝わる古い物語にね、そんな名前の水の精霊がいたの。普段呼ぶ時はミュア。……どう?」
 デルディスもエディも、名付けの才能がないと自覚していたし、元々興味のないティアフラムは論外で、ファーの提案に反論が出るはずもなかった。
 
 そうして改めて一行に加わったミュアをつれて、彼らは深い森の中へと足を踏み入れる。この先には村があるので、獣道を行くということもなく、道行きは比較的穏やかだった。
 事ある毎に衝突するエディとティアフラムをのぞけば、であるが。
 ともあれ、危なっかしくも道を進んでゆくと、荷車に目一杯荷物を積んだ集団に出会った。山のように積み込まれた荷車は、道の奥まで続いていて、まるで村ひとつそのまま移動してきたかのような雰囲気である。
 訝しんだエディは、先頭の家族連れを引き止めて、理由を尋ねた。
 
 疲れ切った顔で荷車を引いていた、父親らしい男は、一行がこの先に向かうと知ると慌ててそれを止めた。
「もうこの先にひとは踏み込めないよ。精霊がじゃまをする。理由はわからないが、地の精霊たちがひとの聞く耳を持たず住む場所を奪っていくんだ。今まで村だったところが一晩経てば森。泉も移動してるし……なんだっていうんだ、いったい。早いとこ森から離れた方がいいよ。命が危ない」
 これ以上ここに留まるのはごめんだというように、荷車の列は先を急いだ。
 
 取り残された一行は、告げられた言葉が理解できず、立ちすくむ。精霊がひとを拒否するなんて、そんなことが本当にあるとは思えなかったのだ。
 いつでも精霊は人間を愛していた。どんなに酷い扱いを受けようと、まるで子どもを見つめる親のような気持ちで守ってくれていた。
 それが、どうして。
 
 深い森が不気味にざわめく。
 何かが、変わりはじめていることを、一行に告げるかのように。

 

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