File.37「ちいさな救いの風」 ディラは、寝ている青年を起こさないように、静かに扉を閉めた。 完全に閉めてしまったところでひとつ、深いため息をつく。青年と、あの精霊の少女の姿に、ひどくこころ打たれたせいだった。はじめ、少女と青年は仲が悪いのかと思っていた。少女が語る青年の様子は、ひどく辛辣なもので、容赦がなかったからだ。 しかし、実際はそうではないようだった。口ではなんと言おうが、その視線から、行動から、純粋な気持ちが伝わってくる。 一瞬の後、気合を入れるためにディラは自分の頬を強くはたいた。あの精霊の少女のおかげで、少しだけ前向きな気持ちになれた。アルフォークとの関係も、いい方向へ向かうかもしれない。立ち向かうべき壁はいろいろとあるけれど、負けてはいられない。少しはこころを落ち着けて、動じないようにしよう。 もういちど頬をはたく。その勢いのまま、思い切って顔を上げると、ひどく驚いた様子の男と至近距離で目が合った。 精霊の少女や寝込んでいる青年、踊り子たちと共に旅している彼。名をなんといっただろう。 傍目にはひどく滑稽だったろう、今までの行動を見られたことで、ディラはひどく混乱した。恥ずかしさで顔が赤くなる。どうしても名前が思い出せなくて、必死で頭の中を引っ掻き回す。 ようやく、『デルディス』という彼の名前を思い出したとき、目の前の当の本人はめまぐるしく変わる少女の表情を見つめたまま、ひどく呆気にとられたような格好をしていた。 「ディラ、だったよな。どこか、悪いのか?」 困り果てた顔で覗き込むデルディスに、またもや心臓が跳ね上がりそうになる。先程決意を固めたのが嘘のようにうろたえて、ディラは何度も首を横に振った。 「そうか、ならいいんだ。それより、ティーの奴を知らないか? 話したいことがあるんだが、どこか行っちまったらしくてな」 ディラはいまだに混乱のさなかにあったが、他にこころを傾けるべきことがあったからだろう、デルディスはもう、それをあまり気にしていないようだった。 あの不良精霊め、とこぼしてため息をつく。 ひとり慌てていたディラは、そんな彼の様子でようやくこころを落ち着かせた。 「はい。ティーさまでしたら、この部屋の中に。ええと、エディさんっておっしゃいましたっけ、お休みになっている彼のそばに、先程」 つい今しがた、あとにしたばかりの扉を指差す。 「この中か? エディのところに行くなんて、いったいどういう風の吹き回しだ。少しは素直になったってことか?」 ディラの言葉を聞いたデルディスは、心底意外だと言わんばかりの表情を浮かべた。 「ありがとう、ディラ。入ってもかまわないよな」 そして、ディラの答えを聞かないまま、デルディスはエディが眠る部屋へと続く扉を開けた。薄闇の中に姿が消えていく。 「あ! だから、そこは立ち入り禁止なんで……す」 ディラの注意の声が半分も終わらぬうちに、再び扉が閉じられる。 「もう……」 あとに残されたディラには、ため息をつくくらいの気力しか、残っていなかった。 自分の放つ力が、眠る幼子のようなエディの顔に、光と影を投げかける。決して眠るのに相応しいとはいえない強い光を受けてもなお、エディは目を開けようとはしなかった。 意識的に光を強めていたティアフラムは、無反応のままのエディを見て、あきらめたように光を落とす。 覚めぬ眠りに漂うエディは、そんなティアフラムの様子も知らずに、ただ静かに横たわっている。 悪夢に悩まされてでもいるのだろうか、それともどこかが痛むのだろうか、時折青年の顔に苦しみが浮かぶだけだ。 それと同時に、低くくぐもった、唸りにも似た声がエディの口から漏れてくる。ティアフラムにはそれが、エディの叫びのように思われて、居たたまれない気持ちになった。 子どものような顔、力も、それの制御も半人前、そのくせ、えらそうなことを言う。時折見せる、年齢に不釣合いなまでの幼さは、短い付き合いのティアフラムにもわかっていた。しかし、それをたいしたことではないと、気にも留めていなかった。 ほんの気まぐれに見せる意外なまでの優しさが、その不安定さを覆い隠していた。それこそが、不安定さの最たるものだと、今になってようやくわかる。しかし、その優しさが、ティアフラムには忘れられないのも事実なのだ。 置いて行かれた迷い子のような目をしながらも、他人を気遣うことを知っていた。何よりも、誰かが傷つくことを恐れていた。流された血や涙の重さを知っていた。 今では、彼が自分に見せてくれた優しさのように、自分も彼にほんの少しだけ、優しくなれないだろうかと思ってしまう。 いったいどうしたことだろう、こんな自分も正気ではない、と言い聞かせるが、それでもこころは止められそうになかった。 エディを見守りながら、ずっとそんな風にとりとめもなく考え事をしていたせいか、ティアフラムはディラが立ち去ったことも、デルディスが入ってきたこともわからなかった。 もしも誰かがそばにいたなら、こんな無防備な表情をさらすことはなかっただろう。 ふと気がついて視線をずらしたところに、いるはずのないデルディスの姿を見つけたティアフラムは、一瞬にして正気に戻る。怒りだろうか、恥ずかしさからだろうか、みるみるうちに顔が、髪と同じ色に染まっていった。 「な、な、なんで、あんたがこんなところにいるのよっ!」 デルディスの顔に浮かぶ表情が、ティアフラムにはなぜか、にやにや笑いにしか見えない。 そばにエディが眠っていることも忘れて、ティアフラムは大声をあげる。 しかし、デルディスはそんなティアフラムの様子に、少しも動じようとはしなかった。 「場所を考えろ、場所を。静かにしたらどうだ」 実際には笑いの表情など、かけらも浮かべていなかったデルディスは、呆れた声を出す。 「どこに行ったかと思ったら、ここにいたのか。エディはどうだ? 相変わらずか?」 ティアフラムが曲がりなりにも落ち着いたとわかると、勤めて冷静に問いを投げかけた。また騒ぎ出されたらたまらない。今日は変なめぐり合わせでもあるのだろうか。半ば疲れた表情を、デルディスは浮かべた。 「……うん。そうみたい。……ひとの質問にちゃんと答えなさいよ。何であんたがこんなとこにいきなり現れるのよ。ファーを連れて行ったんじゃないの?」 どうにも気持ちが治まらないティアフラムは、しつこく問いを重ねる。誰も入ってこないと思ったからこそ、素直になれていたはずなのに。 それでも、やはり取り乱した恥ずかしさがあったのだろう、言葉尻は弱い。 それに今はこんなことで騒いでいる場合ではないのだ。エディが目覚めたら、気のすむまで文句をいってやればいい。ティアフラムはとりあえず、自分の気持ちに区切りをつけた。 「ファーか。やっぱり相当疲れているみたいでな。起こしてもしばらく起きないだろう。しばらくそのままにしておこう。で、俺がここにいるのはエディの様子を見るためだ。この中では、メルディースを別として俺が一番付き合いが長いからな。気になるのはあたりまえだろう。ついでに、お前に話もあったんだが」 「……話?」 デルディスは、いちどエディを気遣うようなまなざしを向けたあと、ティアフラムに再び視線を戻した。 「エディを目覚めさせる方法について、だ」 「そんな方法があるの? そんなこといきなり言われたって」 エディは、何をしても目覚めないのだ。突然方法についてといわれたところで、まったく思い付きなどしない。大体、その方法をすべてやっても、エディはこの状態だから問題だというのに。 「方法はないさ。ファーや召喚士たち、治療師がやってこのありさまだ」 「だったら何で、いまさらそんなこと言うのよっ!」 図らずも、再びティアフラムは大声をあげる。いまさらこんなことを言い出すからには、何か方法があるかもしれないとほんの少し希望を抱いた気持ちが急速にしぼんでいく。代わりに、怒りが込み上げてきた。 詰め寄った少女を、デルディスは眉ひとつ動かさず、冷静に押しとどめる。 「……落ち着け。俺たちにできないだけで、まだ可能性は残っている。エディを目覚めさせる方法がわからないのは、こいつがジールヴェだということも原因のひとつだ。こいつの周りには、精霊も人間もいるが、近しいジールヴェはひとりもいないからな。従兄のメルディースが倒れていなかったとしても、できることはたかが知れているだろう」 淡々と、事実と推測を述べるデルディス。望みがひとつひとつ消えていくようで、ティアフラムはとても正気を保てそうになかった。 「やめてよ! それじゃあんまりよ! あたしたちにこのまま、エディが苦しむのを永遠に見ていろっていうの!?」 デルディスの言葉を打ち消すように、激しくティアフラムは首を振る。 「だから、落ち着けと言っているだろう。俺たちは、エディやミュア以外にジールヴェを知っているはずだぞ。影に染まることなく生きてきた貴重なジールヴェを。仲間なら、少しはわかると思わないか?」 どうだ、と言わんばかりの表情で、デルディスはティアフラムを見る。記憶の糸が、それをきっかけに手繰り寄せられた。 そう、つい最近、この大陸に降り立ったばかりの頃。自分たちは、長い年月を光の中で生きてきた、ひとりのジールヴェに会っている。 「……リアンね!」 穏やかな、治療師の老婆の顔がティアフラムの中でよみがえる。 しばらく沈んでばかりだったティアフラムにも、そしてデルディスにも、少しだけ希望の風が宿ったようだった。 |
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