File.35「癒せぬもの」 「エディは?」 疲れきった顔をしたファーが部屋に帰ってきたとたん、心配そうな様子のデルディスの声が飛んだ。ここは地の大陸メイナの王都、メディス家の屋敷の一室である。逃げ出してきた避難民たちの助けをしていた彼らは、屋敷に帰るなりエディの危機を知り、ひどく動揺したのだ。 部屋のとおくにはティアフラムがふわふわと所在無さげに漂っている。心配しているそぶりは見せていないものの、やはりエディのことを気にしている様子だった。 憔悴しきったエディがこの屋敷に運ばれてきてから約一日が経つ。癒しの力を精霊から与えられているファーは、エディを少しでも回復させようと彼に付きっきりでいたのだ。 襲われたというメディス卿、ずいぶん具合の悪い様子のファリウス、メルディースもいるためか、屋敷は混乱のさなかにあった。 ろくに休憩すら取っていない様子のファーは、デルディスの問いに首を振って答える。ため息とともに、部屋の長椅子へと腰をおろした。 唇から漏れる息にも、濃い疲労の色が表れている。誰の目から見ても、限界に近いということが明らかだった。 「……だめですわ。呼んでも反応はありませんの。体の傷はたいしたことはないの。すぐに塞げましたわ。けれど……」 もういちど深く息を吐いたファーは、緩く首を振った。 「ファーらしくないよ、大丈夫? あんな馬鹿のために無理することないって。でも、何だって治せないの? 簡単なことなんでしょう」 精霊以外の体に関して、ほとんど知識をもっていないティアフラムが不思議そうな声を出す。精霊であれば、自らの力の源がそばにありさえすれば寝込むこともない。弱っている老いたファリウスや、本来なら別の大陸にいるべきメルディースの回復が遅いのはティアフラムにもわかる。しかし、エディの不調の原因は、どうもそのようなものではないらしい。 大体、傷が塞がったというのに寝込んだままだというのはいったいどういうことなのだろう。そもそも、傷だってそんなに深いものではないはずなのに。 簡単な傷なら、ファーが歌うことで治していたから、人間も精霊の癒しの力を受ければ簡単に治るものだと思っていた。なのに、いったい何故エディは倒れたままなのだろう。 きょとんとしたままのティアフラムに、ファーは困ったように視線を投げかけた。 「人間はね、普通はそう簡単に傷や病気が治ったりするわけではありませんのよ。わたくしの力だって、精霊の方から貸していただいたものを使っているだけ。その力だって、誰もが使えるというわけではありませんの。それに、どんなものでも治せるわけではないのよ。限界がありますの。……特に、こころの場合は」 「……こころ?」 さっぱり理解できないのだろう、ティアフラムは内心を良くあらわすかのような、思い切りあきれた顔をした後、間の抜けた声を出した。 「そう、こころ。ティーだって、ほら、あの聖地での時みたいに本当に信じられないことが起こったり、ひどいことを知ってしまったり、思いもよらないことがあったりしたら何も手につかなくなったりするでしょう? 信じたくない、ってこころを閉ざしてしまいたくなりますわよね? 今のエディはそういう状態なんですの。何が原因かは、わからないのですけれど」 唯一事情を知るはずのメルディースは、よほど無理をしたらしく会話も交わせない状態だった。彼がいてくれたら、と重いため息が漏れる。 デルディスが器に入れた水をファーの前に置いた。少しだけ驚いた顔をした彼女は、ありがとう、と呟くとそれを一気に飲み干す。 「それに……こんな王都でも、もうジールヴェは少なくなっていますのね。わたくしのほかに、ジールヴェを診たひともいないみたいですの。だから、これからどうするべきなのか、それすらもわからなくて」 こころを閉ざして眠るエディを、まるで人間ではないもののように扱う治療師たち。珍しいジールヴェにどう接したらいいかもわからず、ただ遠巻きに見つめるだけだった彼らを思い出し、ファーは不機嫌そうに顔をしかめた。 「しかし、ファー。まったくわからないなんて事はないと思うんだが。仮にも、俺たちはエディと一緒にずっと旅してきた仲なんだから。もしかして、エディの状態は予想以上に悪いのか?」 デルディスは、ここに運び込まれたエディの様子を、ほんのわずかしか見ていない。時間だけがただ過ぎていく中、詳しい事情はわからないままだった。 ただ、それでも、エディのことだから、何かの拍子に感情が抑えきれなくなって、そのせいで力を消費しすぎたのだろうと簡単に考えていた。 しかし、戻ってきたファーの様子を見るに、事態はそれほど軽くないのかもしれない。 「一緒、っていっても、たった五年ですわよ。デル、あなたのほうがいっしょにいた時間は長いのではなくて? エディがジールヴェではなくてただのひとだったら、まだわかるところもあったのですけれど」 最後の言葉は誰に向けたものでもないのだろう、小さな呟きとして消えていく。 「わたくし、エディのことは仲間ですもの、理解したいわ。けれど……ジールヴェは今もわからない存在……」 「ファー、変よ。どうかしたの?」 明らかに顔色の悪いファーを気遣うように、ティアフラムが声を発する。 「……ごめんなさいね、ティー。わたくしね、本当はジールヴェが苦手なんですの」 「おい、ファー!」 こんなときに言わなくてもいいことではないか、とたしなめる声が飛ぶ。疲れているのだろう、普段は抑えていたことがふとした気の緩みで解放されてしまったらしい。気づいたファーが、はっとして口をつぐんだ。 「言っても詮無い過去のことですわ。ごめんなさいね」 「……ファーがそういうなら」 なぜか、ファーに対してだけは聞き分けのいいティアフラムは、しぶしぶとその言葉に頷いた。 それを見て、ファーも微笑む。今は、エディのことが一番大事なのだ。 「でも、さ。五年っていったら人間の間では結構な時間なんでしょう? どうしてわからないの?」 ふわりと飛んだティアフラムが、ファーの肩に腰をおろす。 「エディはね、出会った五年前、今よりもさらに幼いこころしかもっていませんでしたの。彼はそのとき十五でしたけれど、まず歳相応には見えませんでしたわね。まるで生まれたばかりの子供みたいで、デルは苦労したでしょうね」 苦笑の混じった声がデルディスに向けられる。それに気づいたデルディスは、昔を思い出したのか、思い切り渋面を作った。 「ああ。あいつと出会ったのは砂漠のど真ん中だったんだが、そんな場所にいるわりには何もできないし、おまけに言葉だって満足に話せなかった。せっかく助けてやったっていうのにいきなり武器を突きつけられたり、ふいにいなくなってみたり。追っ手もかかっているしで、あれは今思い出しても嫌な記憶だよ」 ひとの命を奪うことのみにそれまでの時を費やし、それ以外のことを知らない、赤子同然の少年。それがデルディスにとってのエディの第一印象だった。 それからしばらく後に出会ったファーもほぼ同じ印象を持っている。それは、共に旅し始めてから変わっていったものの、今でも完全に拭い去れてはいない。 「五年、エディと一緒にいて、ある程度までは驚かないようになりましたわ。少しずつでも、理解できていたと思っていますの。でもね、エディは進んで自分のことを話したりしないでしょう。だから今でもまだまだわからないことがたくさんありますの。……同じ人間でしたらまだ、ある程度は推測できますわ。でも、エディはジールヴェですもの……」 また同じ方向へと行きかけた話題を打ち消すように、ファーは言葉尻をにごらせた。 この地の大陸に来てからというもの、エディの感情の暴走がますます激しくなっているように思われた。それなのに、彼のそのこころの中の動きを理解するものはいないのだ。 もちろん、デルディスやファーもエディのこころを思いやることはできる。理解はできなくても、ひどく辛い状況におかれているのだということを考えることはできる。 しかし、それだけでは何の解決にもならないのだ。 「特に今は、外の世界のすべてのものをこころの中から追い出してしまっているようなの。力を貸してくださっている精霊にもお願いして、何とかエディのこころの中に入れないかと探ってみていただいたのですけれど、だめでしたわ」 ファーは、何度目かわからないため息をついた後、ゆっくりとひとみを閉じた。どうやっても拭い去れないほどの疲労を彼女から感じ取ったティアフラムは、少しでもファーの負担を減らそうと、腰をおろしたばかりの彼女の肩から飛び去る。 と、それが合図だったかのように、ファーの華奢な体がふわりと宙に浮いた。 「ち、ちょっと、デル! いったいなんですの!」 剣を扱うに相応しい、鍛え上げられた腕がファーの背中と膝を支えて抱え上げている。思わぬ格好になり、ファーが上ずった声をあげた。 「こうでもしないと抵抗される気がしてな。ファーはしばらく休め。こうしていてもいい考えなんて浮かんでこないし、第一、ファーまで倒れたら元も子もない」 おそらく下心などまったくないに違いない、ごく自然なそれに、あまりに過剰な反応をしてしまったファーだけがひとり、赤くなる。 デルディスの有無を言わさぬ行動に押されて、ファーはおとなしく、それに従うしかなかった。 |
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