File.28「帰還」


 一歩結界を出ると、そこは恐ろしいほどの静けさに満ちていた。ここへ来たときとは明らかに違う雰囲気に、エディたちは戸惑い、顔を見合わせる。
「ずいぶん静かだね。精霊の力があんまり感じられない。どうしたんだろう」
 立ち止まった一行の後ろから、結界を閉じた老精霊が、メルディースにつれられて現れた。弱っているファリウスを放っておけず、メルディースも共に行くことにしたのだった。
 人間たちの戸惑いの意味がわからず、精霊たちは顔を見合わせる。
「従弟殿、こんなところで立ち止まっている場合ではありませんよ。さあ、行きましょう」
 メルディースが歩みを促すが、この森の異様な静けさに得体の知れない恐怖を感じているエディたちは、なかなかその場を離れることが出来ずにいる。ここに来るまでにどんな目に遭ったかを考えれば、至極当然といえた。
「ここにいた精霊たちは?」
 まさか、どこかに隠れているのか、との問いに、メルディースとファリウスは顔に大きな疑問符を浮かべたような表情をした後、顔を見合わせる。
「ここにはファリウスさまがおいでなのですよ。あなた方に危害を加えるものは、誰もいません」
「それに、皆はすでにここにはほとんどおらん。わしの話の後、怒りに任せて破壊してしまったこの大地を癒すよう、皆に命じておいたからの。今ごろは皆、この大陸中に散らばって、力を一心に注いでおる。心配ないよ」
 一行の不安にようやく気がついたらしく、ふたりは苦笑しながらそういった。
 

「こちらへ来たときとは、本当にずいぶんと様子が違いますのね。精霊たちがいないこともあるのでしょうけれど、とても、寂しい……。命の鮮やかさがなくなってしまったみたい」
 この森で、変わらず木々は生い茂り、この森に生きるちいさな生き物たちの、命のざわめきも、そのままの形で在る。しかし、それに力を与える精霊がいないだけで、こんなにももの悲しい印象になるとは思いもしなかった。
 そして、これがいずれ訪れる世界の形でもあるのだ。精霊の消えた世界。それは、何かが欠けてしまった、不完全な世界であるように思われた。それが、この世界の祖である人間たちの願った世界だとは、どうしても信じられなかった。
 長年この大陸で暮らし、この中の誰よりもこの大地を愛しているアルフォークが、ファーの言葉に無言で頷く。幼いころ、目の前にいつもあったきらめきは、どこへ行ってしまったのだろう。今はまだ、それはこの大陸にあちこち散らばっているだけだ。しかし、それもいずれ忘却の彼方へと沈んでしまう。精霊たちがこの大陸から去ることを決めた今、変化は必ず訪れる。
 そのとき、この故郷はいったい、どんな風に自分のひとみに映るのだろう。
 
「行きましょ。こんな雰囲気なんて、あたし嫌いよ」
 天敵の肩を借りるなどとんでもないと言いながら、ティアフラムは結局エディの肩にとまっている。どうやらあまり気分がよくないようで、危なっかしく飛ぶ彼女をエディが放っておかなかったのだ。
「ああ、早いところ王都へ戻らないといけないしな」
 半分寝ぼけ眼のミュアを抱えたデルディスが、ティアフラムの言葉に頷き、一歩踏み出した。
 

 王都への道は、驚くほどに順調だった。攻撃を受けたり眠らされたりしたことが嘘のように、どんどん山を降りてゆく。何の妨げもない。時折、木々の合間から陽の光が覗き、木々を駆ける小動物が枝を揺らす。精霊がいないことを除けば、ごく普通の山の情景だ。
 無言で歩きつづけると、ようやく視界が開けた。遠く、道の先には王城が見える。
 ここに至ってようやく、わずかながら精霊の力が強まる。この大陸に癒しを与える精霊たちの、嘆きの声を、エディは聞いた気がした。それでも精霊の力は、穏やかに大陸に染み入ってゆく。自らが怒りに任せて傷つけた、愛する故郷をよみがえらせてゆく。
 

 王都に着き、まずはじめに一行が驚いたのは、そのひとの多さだった。王都といえばどこの大陸でも、比較的身なりのよいものばかりが集まるのだが、今回ばかりは様子が違っていた。広場にいるのは、どう見ても王都に居を構える民ではない。火がおこされ、急ごしらえのかまどでは温かい食べ物が用意されている。にぎやかに談笑するひとびとさえ見える、それは飾りたてられた王都には似つかわしくない風景だった。
 聖地へ向かうためにここを離れたとき、ここは王の崩御という大事件があってか、暗く沈みきっていた。しかし今、ここはひとであふれている。精霊の怒りで住む場所を追われた開拓地のひとびとが、助けを求めて王都へ押し寄せていたのだ。
 しかし、こんな状況ではつきものの、道を見失ったひとびとの混乱はなかった。追われて、疲れきった表情をしてはいたが、今は落ち着いて兵士の指示に従っている。王都へ帰還する前に抱いていた不安とは、大違いの状況だった。
 精霊たちの怒りが静まっていることもあっただろう。
 おそらく王宮の食料庫を解放したのだろう、ひとびとが食料を求めて並ぶ列を横目に、エディたちは足早に王宮へと消えていった。
 

「父上、ただいま戻りました」
 近衛であるアルフォークに案内され、メディス卿のいるという執務室に入る。彼は今、動くことのできる者の中で、一番重要な役割にいた。王にも似た立場にあって、この変化に対応しようと奮闘している。
 アルフォークの声とともに一行が現れると、あわただしくあちこちに指示を出していたメディス卿はその手を休め、エディたちのもとに駆け寄った。
「よく戻った。こちらは何とか、はじめの混乱も収まって落ち着いてきている。お前たちの報告を待っていたぞ。それで……いったいどうなった?」
 父に詰め寄られる形となったアルフォークは、ふだんとは違う父の様子に驚いたように目を瞬かせると、気を取り直して一歩、横にずれる。
 メディス卿は、息子の背後にいた旅人たちの中に、ひとならぬ存在がいることを知った。それが誰であるかに気づき、はっと目を見開く。
「……よく、おいでいただきました」
 老精霊たちに向けて、メディス卿は深く頭をたれた。
 

 老精霊ファリウスは、メディス卿を含めた王宮の面々に迎えられ、真実と決意を告げるために話し合いの席に赴いた。すべてを包み隠さず、彼らに告げる。民に知らせるかどうかは彼ら次第だ。精霊が消えてしまったあと、この大地を守らねばならぬのは他ならない彼らなのだ。
 力ある者たちが姿を消した後も、この大地はなくならない。緑の恵みが、消えるわけでもない。ただ、この大地自身の蘇る力が、ひどく衰えてしまう。拓かれた土地が、精霊無しによみがえるのには、気の遠くなるような年月がかかる。だからこそ、ひとである彼らには重い責任がある。生かすも殺すも、彼らの思い次第なのだから。
 守護精霊が消えたあと、導く責任を持つのは彼ら。話し合いは長く、幾日も続けられた。
 
 話し合いに加わることも出来ず、かといって旅立つ気にもなれないエディたちは、ただじっと時を過ごしていた。
 今日も、アルフォークが雑多な仕事を片づけている書斎の寝椅子で、エディはぼうっと寝そべっている。ファーやデルディスは、ここにいても仕方がないからと、積極的に街の手伝いをしていた。
「長いね、話し合い。毎日遅くまでやってるみたいだけど、誰も何も話してくれないから、何がどうなってるのか、さっぱりわからないし」
 ファーやデルディスのように気軽に外に出て、避難民たちの手伝いをすることも出来ないジールヴェのエディ、そもそもいたところで大して役にもたたないミュアとティアフラムの三人は、いつ終わるともしれないこの時間に、ひどい苦痛を感じていた。
 精霊の面影を強く残す容貌でさえなければ、外に出ることもできたのに、とエディは愚痴る。精霊が原因で起こった今回の件であったから、今外に出れば何が起こるかわからないのだ。
「仕方ないです。これからのこの国を決める大事な話し合いですから……」
 机に山積みになった書類の束を、首を傾げながら処理しているアルフォークが言う。寝椅子で情けない姿を晒しているエディを見て、苦笑した。
 父が話し合いにかかりきりになっているせいか、たいして重要ではないが処理すべき、家のさまざまな事柄が、全部アルフォークにまわってくる。本当は近衛として国の仕事にあたりたいのだが、そうもいかないのが痛い。
「エディさん、お暇ならちょっとした仕事、手伝っていただけますか」
 無駄だとは思いながらもそう声をかける。嫌だという返事が聞こえてくるかと思ったが、その言葉すらない。
 彼の従兄が見たら、青筋を立てて怒るかあきれかえるかのどちらかだろう。エディは寝椅子に体を投げ出したまま、いつの間に眠ってしまっていた。
 

「若さま、若さま!」
 しばらく書類と格闘していると、書斎の重い扉がせわしなく叩かれた。メディス家に使える執事が、アルフォークを呼んでいる。
「いったいどうしたんだい?」
 ただならぬ様子の執事の声が気になり、扉を開ける。
「だ……旦那さまが王宮で倒れられたと、今使いの者が……!」

 

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