File.21「風を繋ぎとめるもの」


 森がざわめく。遠く、近く、精霊の怒りが聞こえる。
 陽のささぬ暗い森を、エディは必死に駆けていた。急がなければ、仲間の身も自分の身も危ない。
 ジールヴェは人間にも精霊にも気付かれにくい。それを利用してここまで来たのだが、それももう限界だった。いくら気配が薄いといっても、聖地奥深くへとつき進む存在は、怒り狂っている精霊たちにとってはわかりやすすぎる。
「早くしないと……。攻撃はないけど、もう、きっと向こうも気付いてる。ここじゃ、風で吹き飛ばすなんて無茶な真似、できるわけないし」
 ため息とともにひとりごちたエディは、ふたたび森の中を駆け抜けはじめた。森にかかっている封印が、だんだん強まってきて眠気を誘う。
 

 ファリウスの前を慌てて退出したメルディースは、青い顔のまま、ざわめきの方向へと飛んでいた。その中心にあるのは、彼の一族がなによりも大切にしている絆の証。この地を去るという、精霊たちに残された唯一の救いをみずから捨ててまで、まもることを選んだ愛し子がいる。
 精霊たちの強い力の中に、従弟のかすかな気配を感じた。中にいるのが他のだれかであったなら、さすがのメルディースでも気付くことはなかっだだろう。しかし、中から感じたのは忘れようもないほど印象強い力。自分と同じ力と、そしてかつて愛した力と、そのふたつをその身に宿す存在なのだから。
 風となりエディのもとに向かいながら、メルディースは、エディが何か無茶な真似をしないかと気が気ではなかった。大体、なぜ彼がこんな所にいるのだろう。確かに、この大陸に向けて船に乗ったのは知っている。しかし、それはファドに向かうための手段でしかなかったはずだ。
 エディのそばに、ほかの誰かの力を感じることはなかった。だとすれば、 ほかの皆はどこに行ったというのだろう。デルディスもファーも、彼のそばを離れることなどないはずであるし、力を封印させられているティアフラムはなおさら、離れるわけはない。
 彼らの身に何か起こったのでは、と暗い考えがメルディースのこころを支配した。
 エディは曲がりなりにも精霊の力をその身に宿すジールヴェであり、召喚士である。この森を支配する精霊の怒りを、感じていないわけはない。それでも、ひとりでここにいるということは、よほどのことが起こったと考えるべきなのだろう。
 あの従弟のことだ、追い詰められると無茶ばかりするのは目に見えている。
 仕方がなかったとはいえ、やはり、彼のもとを離れるべきではなかったのかもしれないと後悔の念が襲った。
「……どうしてあなたは、こう、おとなしくしてくれないのでしょうかね……」
 慌ててでてきてしまったことで、ファリウスは目を丸くしていることだろう。礼儀を欠いた真似をしてしまったとメルディースは恥じたが、同時に、彼の願いどおり、聖地への道があけられたことに深く感謝するのだった。
 

 ふいに、押しつぶされそうなほどだった力が和らぐのを感じた。エディは、森にかかっていた精霊の力が、なぜか急になくなってしまったことに気づき、思わず立ち止まる。先ほどまで感じていた、あの眠気を誘う力が消えていた。
 精霊の怒りは相変わらずだが、それも幕をひとつ隔てているかのように、遠く感じる。森のざわめきが、それをさかいに少しの間だけ静まったようでもあった。
 ほっと安堵しかけたエディだったが、今までとの差の激しさに、疑いの念が消えない。眠りにおとすという緩やかな方法を変えて、直接攻撃してくるつもりかもしれない。そう思って身構える。
 さすがに、風の力を解放するのは気が引けたが、自分の命がかかっているときに、そう悠長なことを言ってはいられない。いつでも、自分の身を守れるように力を高めながら、エディはあたりを見回した。
 あたりを注意深く探ると、地の精霊たちが自分を遠巻きに囲んでいるのがわかった。入り込んだ不届きな侵入者、それも、今、彼らにとって一番憎いであろうジールヴェ。本当ならば攻撃したくてたまらないはずなのに、何かがそれを抑えている。それは、彼らよりももっと力の強い精霊の意思のようにも思われた。
「……どうして、攻撃してこない……?」
 たくさんの精霊たちの、怒りのこもったまなざしを身に受け、わずかばかり、恐れがエディのこころをよぎる。
 不可解な行動。それが何のためであるのかわからないエディにとって、沈黙は恐怖に等しかった。
 もともと、我慢強いほうではないと自分でもわかっている。沈黙に耐えることができず、エディは高めた風の力を、精霊を吹き払うつもりで解放させようとする。メルディース預けた力、風の精霊の中での最高の守りであれば、ここにいるくらいの精霊ならば、何とか立ち去ってもらえるだろう。
 後先考えない行動であったが、追い詰められたエディにとって、その認識はすでにない。
 ひとみを閉じて、その身に宿る精霊の力を高めてゆく。それを触媒にして、守りの力を発動させる。
 
「従弟殿、あなたはいったい、何を考えているんですか! 今すぐやめなさい!」
 力が発動させる直前、聞き覚えのある声がしてエディを正気にひきもどした。銀色の光がゆれ、目の前に強い風が現れる。風の激しさに、思わず目をつぶると、胸元をつかまれ、頬に鋭い痛みが走った。エディは、何が起こったのかわからないまま、痛む頬を押さえて目を開ける。風の大陸にいるはずである従兄が、目の前にいた。
「……メル、いったいなんでここに」
 まだ現状の認識ができていないエディの、半ばぼんやりとしたひとみがメルディースを見つめる。
「それは私のせりふです。大体、なぜあなたがこのようなところにいるのですか。あなたの旅とこの聖地と、関係があるようには思えませんが。何を考えているんですか。確かに私はあなたを守るための力を預けました。風精霊の一族の最高の守りです。けれど、それは、 ほかの精霊を害するためのものではなく、あなたを追う影から身を守るためのもの。このような用途に使われるものではないのですよ」
 胸元をつかんだ手が、小刻みにゆれている。整った顔立ちが、鋭い表情を覗かせる。いつもは穏やかであるメルディースの、珍しい怒りだった。その源である風と同じように、冷たく鋭いそれ。無事でよかったという気持ちはあるが、それと同時に、命知らずで無謀な従弟の行動に、怒りを隠せないのだ。
 怒りと安堵とが入り混じった、複雑な表情のメルディースは、彼の胸元から手を離し、勢いに任せてエディの頬を叩いた手を、軽く振った。重いため息の後少しだけ表情を和らげた彼は、立ち尽くしたままのエディの肩に、やんわりと手を置く。
「……それでも、あなたが無事でよかった。あなたの両親に、顔向けができませんからね。話はゆっくり聞かせていただきます。先の長であるファリウスさまにご協力を頂いています。今だけはこの聖地に、入ることができますから」
 メルディースの声の質が、柔らかなものに戻ると、固まっていたエディも、やっと表情を取り戻す。痛む頬をさすって、一言ごめん、とだけつぶやいた。
「……うん。ほかのみんなも、入れてくれるかな? ずいぶん前に森につかまっちゃって、精霊の守りのないデルたちは眠ってしまったんだ。だから仕方なくひとりできたんだけれど……」
「そうですか……デルたちはこの森の中に……。わかりました。とりあえず、従兄殿、あなたをファリウスさまのもとへ連れて行きます。それから私が、彼らをここへつれてきましょう」
 それから、あたりを囲む地の精霊たちに、メルディースは目を配る。優雅に一礼をして、許しを請うた。
「私は風の長の一族、メルディース。我が一族のジールヴェが迷惑をかけたこと、こころからお詫び申し上げます。今回はどうか、私の名前に免じて、お許しいただけないでしょうか。彼も、抜き差しならぬ事情ゆえの行動であったのでしょう。普段は、精霊に害を成す存在ではないこと、私が保証いたします」
 風の長の一族、という言葉、それにファリウスが直々に聖地の門をひらいた、ということが幸いしたようだった。さすがに、おさまらない怒りを抱えてはいたが、地の精霊たちはメルディースの前で、派手な抗議をすることも、怒りをあらわにすることもできなかった。
「私がいなければ、どうするつもりだったんですか、従弟殿。彼らだけを風で飛ばしても、事態を悪くするだけです」
 容赦のないメルディースの言葉に、エディはちいさくなるしかなかった。
 

 きらめく輝石の前に通されたエディは、その奥にひとりの精霊がいることに気がついた。穏やかさの中に、強い力を感じる。先ほど、怒り狂う精霊を抑えていた力だということがわかる。
「よく来た、風のジールヴェよ。この時期にここへ来るということはよほどの事情があるのじゃろうな。……そうか、そなたが風の長に連なるジールヴェなのだな。力がよく、似ておるの」
 深い声は老いてはいたが、しっかりとしたもので。
「……エディ・フォ・メイデンと申します。今回は身辺を騒がせてしまったこと、大変申し訳ありませんでした」
 改まった口調でその老精霊に深く一礼をした。

 

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