Double File.20「消えゆくもの」

File.20「消えゆくもの」

　深い森の奥、時の積もる大きな石壁は、地の精霊たちが最も大切にしている場所だった。代々彼らを統べる最も力の強い精霊の長の一族が、そこを居と定めていたからだった。一族は他の誰より美しく、また英知とやさしさにあふれていた。
　地の精霊たちが、最も喜びに満ちた場所と呼ぶそこは、今は深いかなしみに満ちていた。彼らの最も大切な、長・うるわしの恵みの姫アルフェリシアが、この世を去ってしまったからだった。まだ長い時を生きるべきであった彼女は、卑劣な手によりその力を奪われた。ひとの子と精霊の間に生まれた、悲しき愛し子、ジールヴェを利用したひとが、姫を亡き者にしたのだ。
　誰よりもひとを愛していた彼女はそのひとによって力の糸を断ち切られた。
　それゆえに、精霊たちはかなしみを怒りに変えた。
　

　かなしみと怒りに覆われた聖地の奥、きらめく輝石の置かれた場所に、たたずむ老いた精霊がいる。彼は愛しい娘の死を悲しむあまりその力を衰えさせていた、彼女の前の長・アルフェリシアの父だった。
　娘に長の座を譲ったことを彼はひどく悔いていた。アルフェリシアの気持ちは知っていたのに、辛い役目を負わせてしまった。ただの精霊の娘ならば、長などという重い役目など引き受けず、ただ愛しいもののそばにいるだけでよかったはずだ。
　娘が長だったからこそあの悲劇が起きたと思うと、やりきれない気持ちでいっぱいだった。
　しかし彼は、他の精霊のように、ひとの子をうらむことはできなかった。長年その命を見守ってきた彼にとって、ひとは我が子と同じなのだ。
　失ったものの大きさに、彼はただ、涙を流すことしかできなかった。
　

「ファリウスさま、お久しぶりです」
　娘の運命を嘆き悲しむ彼の背に、そう声がかかった。同族ではないその気配に、彼は振り返る。何もない場所に風がうまれたかと思うと、それは形をなしていった。銀色のきらめきがゆれる。ゆっくりと息をつき、風は新緑を思わせるひとみをあげた。
「……メルディースか、久しぶりじゃな。そなたの母君は息災か？」
　ファリウスの声に、現れた風精霊は静かに頭を下げる。
「アルフェリシアさまのこと、母も悲しんでおりました。母はマールを離れられぬ身ゆえ、かわりに私がこちらへ」
　その言葉と共に、メルディースはなめらかな動作でファリウスのもとへ歩み寄った。
「わざわざこんなところまで、ご苦労じゃったな。あちらもあちらで大変だろうに。ここしばらく、よい風を聞いたためしがないのでな」
「……はい、しかしファリウスさま、アルフェリシアさまは我らと同じ、精霊を束ねる役目にあります。どうしても気になりましたので」
　それからしばらく、沈黙が続いた。どう口を開いたらいいものか戸惑う様子の真面目な風精霊に、ファリウスはわずかに口を笑みの形に変える。
　ファリウスの推測どおり、メルディースは迷っていたのだった。聞きたいことはあるのだが、ファリウスの心情を考えると、とても口にできたものではない。
「メルディース、そなたは真面目すぎる。今に自分のこころに苦しめられるようになるぞ。もっと思い通りに口を開いてもいいのじゃぞ」
「……自分でもわかってはいるのですが、こればかりはどうしようもないようです。なおしかたがあったら教えていただきたいものです。余計な苦労を抱え込まずに済ませられたら、これ以上はないというくらい嬉しいのですが」
　自分のこころの動きなど、とうに見抜かれている。さすがに自分より長い時間を生きてきた年上の精霊は違う、とメルディースは赤くなりながら、ファリウスの言葉を肯定した。
「聞きたいのじゃろう。我が娘に何が起こったか」
　風精霊の意思を汲み取ったかのように、地の精霊は言葉をつむいだ。彼に敵うはずもない、とメルディースは先ほどまでの迷いをあっさりと捨て、頷く。初めて知らせを受けたとき、これは何かの間違いではないかと彼も彼の母も思った。まずありえないことだからだ。
「お分かりでしたか。……はい。母も、非常に気にしておりました。もちろん私もです。なぜアルフェリシアさまはあのようなことに」
　メルディースよりはるかに年上ではあったが、メルディースの母よりは若かったアルフェリシア。ひとならば病気ということもありうるが、精霊にそれはない。恐ろしい予感が離れないのだった。
「娘はその力をすべて奪われた。この大陸の王と共にいるときを、な。精霊にとって、力を奪われることはすなわち死じゃ。……娘は存在を消されてしまったのだよ……」
　すべてが色あせてしまったような声で、ファリウスは言葉を搾り出した。
　
「それ……は」
　メルディースは息を呑む。精霊の力を奪う。そんな芸当ができる存在は限られている。恐ろしい予感は次第に、大きく形を変えていく。
「影を、知っているじゃろう。我らの絆を利用する卑劣な輩じゃ。……娘と王はその影に襲われたのじゃ。おそらく、精霊と王のやり方に反発するものが一枚かんでいるのじゃろう」
　娘の危機を知り、満足に動けぬ体を押してそこへ駆けつけたものの、ファリウスはその恐ろしい事実を知ることしかできなかった。その影がどこへいったのかすらも、もはやわからなかったのだ。
　娘の力は無理やり引き剥がされ、どこかへ持ち去られてしまっていた。
「影……しかし、彼らがこのように重大な、大胆な行動をとることなど今までなかったこと」
　従弟であるエディを捜し求めて、影を追っていた頃も、このような暴挙を影が行ったことはなかった。だからメルディースは、ファリウスの言葉を半ば信じられない気持ちでいた。
「そうか、そなたは影を知っておったな。……そなたもそなたの一族もよくよく影に縁が深いの。あまり嬉しいことではないじゃろうが」
　目の前の青年の顔が曇る。
　かつて、メルディースがみずからの故郷に長い間戻らず、奪われた一族のジールヴェを捜して世界中を流れていたことをファリウスは思い出していた。それ以前から、彼の一族には影がつきまとっていたことも。
「父も伯父も従弟も……そして私も、風の一族は皆、影に時間を狂わされましたから」
　メルディースの、悲しみに満ちた声が響いた。
　メルディースの気持ちが、娘を奪われた今はファリウスにも痛いほど良くわかった。
「我らの一族には、今回のことはちと痛すぎる事件じゃった。皆ひとをうらんで暴走しておる。以前からの、住む場所を奪われたという怒りが溜まっておったおりもおりのことじゃったからの。わしにももはや、彼らを止める力は残ってはおらぬし」
　ファリウスは、聖地の森に目をやりながら言った。今も、抑えられない激しい怒りが、この大陸中を駆け巡っているのがわかる。これではますますひとが精霊から離れていってしまうというファリウスの言葉に、耳を貸すものはいなかった。皆、怒りで前が見えなくなっているのだ。
「もはや、我らに残された時間はないのかもしれぬ。そなたのところでもそうであろう？　我らの場所は無くなってゆく一方。完全に無くなってしまう前に、我ら自らが去ることが、悲劇を避ける唯一の方法なのかもしれぬな。そう、思わぬか？」
　かつてこの地を見捨てて去ったといわれる精霊たちがいた。精霊が生きにくくなってしまったこの世界で、精霊たちに残された唯一の救いの道。それをとるしかないとファリウスは言っているのだった。
「……それは、この大地しか知らぬものにとって酷というものです、ファリウスさま。今この大地には、この大地以外を知るものはいません。もはや、ここは我らにとって故郷なのです。見捨てて去ることは、出来ません。それに……それ以外の理由でも、風の一族は去るわけにはいかないのです」
「我らがなんのためにうまれたのか、それを知ってもなお、か？　そなたは次期長、知らぬ訳はないだろう」
　静かに問うファリウスに、メルディースは頷いた。
「たとえ我らが消えゆくものであったとしても、私たちは、最後まで、ひとを見捨てるわけにはいきません。……我らの絆が残っているうちは……」
　決意を秘めた眼差しは変わらない。
　

「そうか、そなたらは滅びの道を選んでも、誓いを守るのか……。羨ましいことじゃの。我らはもう無理じゃ。この怒りと変化を抑えられるものなどもう……」
　ゆるやかに滅びに向かう時間。
　老精霊にはもう、逆らう力は残っていなかった。
「そう、ですか……残念なことです……」
　ファリウスの決断を、メルディースは止めることが出来なかった。これもひとつの決断として、受け入れるしかない。
「……また、近いうちに参ります。ファリウスさまが去ってしまわれる前には必ず」
　深々と頭を下げてファリウスのもとを去ろうとしたそのとき、メルディースは聖地の変化に気が付いた。同じ力を持つものだからこそわかる感覚。従弟のエディの力。何故こんな所で彼の力が、とメルディースは一瞬思考を硬直させた。
「……ファリウスさま。暫く聖地の道をあけていただけませんか？」
　口調の変わったメルディースに、ファリウスが首を傾げる。
「従弟は、思い詰めると何をするかわかりませんから」
　彼を知らぬものにはよくわからない言い訳をして、血相を変えたメルディースは力の方向へと駆けていった。