のばらを持って、きみにあいにゆこう。

きみがめざめるとき



 今日も一日がはじまる。何の変哲もないひとつの単位でしかない一日が。忘れられない日になったと気づくのは、もう少し後のこと。

「おはよう、甲斐君、ごめんなさい。書架の蛍光灯が切れちゃったみたいなの。倉庫から代わりのものを持って、付け替えてくれない?」
 出勤早々、すまなそうに先輩が頼み事をしてきた。私が二十六歳と一番年下なためか、こういう力仕事はすべて私に任されてしまう。頼られているのか使われているだけなのか、時々わからない。
「いいですよ。何番の書架ですか?」
 断る理由もないし、やっぱり女性はあとが怖いので、肩をすくめて返事をする。脚立を肩に担いで倉庫から蛍光灯を引っ張り出し、先輩の「五番の書架よー」という声を背に閲覧室へと歩き出した。

 ここは大学併設の図書館。開館時間になってまだ間もないのに、もう学生の勉強している姿がちらほらと見えた。テストが近いせいだろう。何冊もテキストを山積みにしている姿ばかりだ。それでもまだましな方。本当にせっぱ詰まってくるとコピー機に頼る学生のせいで、図書館も普段からは考えられない、とんでもない騒ぎになる。
 五番の番号をふられた書架に着くと、周囲のじゃまにならないように脚立をたてた。書架の上に作りつけられた蛍光灯が、ちかちかと瞬いて、そこだけ薄暗くなっている。バランスを崩さないように注意しながら、蛍光灯を取り替えた。

 脚立の上からふと下を見下ろすと、なにやらコピー用紙を持って立ちすくんだままの少女と目があった。まだ一年生なのだろう。本当に少女としか形容のしようがない幼い顔。長く黒い髪が肩に流れて、白いワンピースによく似合っていた。泣きそうな目をした彼女が、私の目を見たとたん輝く。
「助けてください!」
 ここが図書館だと言うことを認識しているのかどうか怪しいほどの大声。館内の人間の視線が一気に彼女に集中すると、あっと気づいたように口を押さえた。

「その、ごめんなさい……。図書館の方、ですよね。本の場所がどうしてもわからなくって……。見つけないと、教授に怒られちゃいます」
 おずおずと手に持ったコピー用紙を私に差し出す。雑誌の論文の一部だろう、参考文献のところが黄色いマーカーでチェックされていた。『低体温下における人体への影響』という題の所にクエスチョンマークが飛んでいる。それと同じ行には『週刊医学情報,15(17),p254-268』と言う付記が付いていたりして、彼女がぶち当たった壁に気が付いた。
「これは……本じゃありませんね。ほら、隣に『週刊医学情報』という雑誌の名前があるでしょう? この雑誌に収録されている論文ですよ」
 見つからなかった原因を指摘すると、彼女の顔がぱぁっと輝いた。

「この雑誌ならうちにありますよ。何年の号かわからないから、カウンターで調べます」
 彼女をカウンターまで誘う仕草をすると、そのにこにこした表情のままとことこと私のあとを付いてくる。そのほほえましさに思わずくすりと笑みが漏れた。
「一年生ですか? 資料の調べ方がわからないのでしたら、ガイダンスをやってますから、良かったら参加してください」
 利用者向けの、いつもの言葉を口にすると少女は、いきなり耳まで真っ赤にしながらうつむいた。
「あの……私、院生なんです……」
 その言葉に、思わず立ち止まって目を丸くしてしまう。よくこれで院まで行けたものだという驚きと、彼女のあまりの童顔のためだ。
「……ガイダンスは学年関係ありませんから、遠慮無く参加してください。研究のためにもきっと役に立つと思いますよ」
 笑いを表に出さないように、必死にポーカーフェイスを装いながら、それだけ言うのがやっとだった。

「あれ、おかしいな……」
 カウンターまで戻って、彼女お望みの資料を探すと、ちょうどそこだけ「欠号」と表示されていて、所蔵がないことがわかった。
「どうしたんですか?」
 カウンターに身を乗り出すような格好で彼女が尋ねてくる。その、あまりに幼い仕草に、内心、また笑みがこぼれる。
「お探しの号だけ、紛失してるみたいなんです。申し訳ありません」
「ここに、無いんですか……?」
 みるみるうちに、彼女の表情が沈んでゆく。確か教授に怒られると言ってはいなかったか。先刻の言葉を思いだし、急に哀れになって私は慌てた。
「ここに無ければ、お望みの論文の場所だけコピーを頼むことも出来ますが、どうしますか?」
「お願いします! ……あ……」
 再び叫んでしまってから彼女は、自分の大声に気づき、また真っ赤になって謝った。


「風薙葛葉さんでしょうか。島翠医科大学図書館の甲斐と申します。論文のコピーが届きましたので、図書館カウンターまで取りに来てください。それでは」
 結局彼女はコピーを依頼することになり、しばらくして、それは無事に届いた。連絡をするために彼女に電話をかけると、携帯の電源を切っているらしく、無情にも流れるのは伝言預かりの声。彼女の声がまた聞けると思っていた私は、少しがっかりしながら言葉を残した。
 コピーに添付された申込書の、綺麗な彼女の文字を見つめて、何故か微笑んでいることに気が付く。今までにも、たくさん同じようなことがあった。けれどこんなにも印象がくっきりと残っていることはとても珍しくて。これからもまたここに来てくれるといいのだけれど、と淡い期待を抱いてしまっている自分がおかしかった。

 それから、その淡い期待が私だけのものではなかったと気づくまでにはしばらく掛かる。彼女も忙しいらしく、図書館へ訪れない日々が続いていたからだ。
 再び彼女に出会ったのは、それから数ヶ月後。カウンターで仕事についていた私は、またもや慌てた様子の彼女に遭遇することになった。
「ごめんなさい! またわからないことがあって……あっ」
 またもや大声を出し、ひとりで慌てて口を押さえる。このそそっかしさは、彼女独特のものらしい。
「何かまた、見つからないものがありましたか?」
 とりあえずはいつも通りの対応で、彼女に尋ねてみる。
「はい。……これとこれとこれと……」
 聞くやいなや、彼女は腕に抱えていたファイルから、次々と紙を取り出した。またずいぶんとためこんできたようだ。隣のカウンターに座っていた先輩司書が、やっかいなのにつかまったわね、と苦笑するのが見えた。
「……と、これが、どうしてもわからないんです……。ガイダンスも時間が合わなくて……。調べ方、教えてください……」
 この時期は暇だからいいんじゃない?などという無責任な先輩の言葉のおかげで、私はしばらく、彼女に付きっきりの時間になった。


「……図書館って、今はこうなってるんですねぇ……」
 ひととおり説明し終えると、彼女は感心したように頷いた。
「私、小学校の頃以来、図書館ってまともに使ったことありませんでしたから」
 照れくさそうに話す彼女の顔は、私にとっては小学生と変わらないように見える。まさかそんなことを面と向かって指摘するわけにはいかないから、曖昧な笑みを返すと、彼女は何故か、淡く頬を染めた。
「小さい頃は本、大好きだったんですよ。童話もたくさん読みました。特に眠りの森の美女がお気に入りで……。いつか、茨を抜けて迎えに来てくれるような王子さまが来るんじゃないか……なんて本気で思っていたんです。……いえ、本当は今でもそう思ってますけど」
 彼女がそこまで言うと、私はとうとうこらえきれなくなって、思わず笑いを表に出してしまった。崩れた顔を見られるのが嫌で、普段は他人の前で見せたことのない表情になる。
 時代の最先端を行く研究者である彼女が、ふるいおとぎばなしに心を奪われていることが嬉しかった。私も、ふるい物語にあこがれてこの世界に入ったのだから。彼女は童顔そのままの、まるで少女のような心の持ち主だった。
 それを指摘すると、彼女はぷぅっと頬をふくらませた。
「ひどいですっ。そんなに笑うことないじゃないですか。甲斐さんのこと、まるで王子さまみたいだって思った私が馬鹿みた……あっ!」
 思ったことをそのまま口に出すのも彼女の癖らしい。言ってしまってから彼女は自分の大胆な行動に気が付いた。白い顔が、みるみる赤くなってゆく。
 私もつられて赤くなっているのだろう、体中が火照っているのがわかる。
 気まずい、何とも言えない沈黙の時間が流れると、お互い顔を見合わせる。こらえきれなくなってまた、ふたりして笑った。


「私の王子さまでいてくれますか?」
 そう言った彼女の言葉を断る理由は、何処にもなかった。