そうして、彼女――葛葉との日々がはじまった。ことある毎に図書館に、そして私のもとに駆け込んでくるのが(そして必ず、大声を出して館内の注目を集めるのだ)やっかいと言えばやっかいなことだったが、それもまた、彼女らしくて私にとっては嬉しいことだった。彼女といる時が、一番輝いていた時間だったと、今でも思う。
 私は、彼女の研究の支えになるようにとこっそりと便宜を図っていたり援助をしていた。だが、どうやらあとで聞くところによると、私の行動はずいぶんと怪しかったらしく、先輩たちにはすべてお見通しだったようだ。私は今でも、そのときのことを思い出すと顔から火が出そうなほど恥ずかしくなる。
 ともあれ、図書館をあげてのバックアップのせいか、葛葉は危なっかしさを残しつつも数年後、無事に博士号を取得することに成功した。

「おめでとう、葛葉」
「ありがとうございます、悠真さん」
 それから、ふたりだけで食事をした。今までのねぎらいと、お祝いの気持ちを込めて。
 流行に詳しくない私が、先輩たちのからかいの視線に耐えながらやっと探し出したそこは、彼女の好みそうな小さなお城のようなレストラン。小高い丘に立つそこから、宝石箱のような街の明かりを見つめて、葛葉は子どものように大喜びをした。
「実験とか報告とか、論文を仕上げるのにずいぶんとかかっちゃいましたから、こうやって外にお出かけするのって久し振りなんです」
 せいいっぱいドレスアップをして、格好だけは大人の女性だったが、葛葉は出会った頃と変わらない、幼い笑みを浮かべて言った。

「確かに、夜遅くまで研究室に明かりがついていたからね。お疲れ様。しばらくはゆっくり出来そうなんだろう? どこかに旅行にでも行ってみようか?」
 私は、飲みつけないワインのせいで、きっと気が大きくなっていたに違いなかった。大胆にもそんなことを言って、同じくワインでほんのり赤くなっていた葛葉を、ますます赤くさせた。
「旅行ですか? 連れて行ってくれるんですか? ……あ、でも……新しい研究に取りかからなくっちゃいけないから、またしばらく自由な時間がとれないかもしれません……」
 思わずはいと嬉しそうに答えかけた彼女だったが、思い出した事実にしゅんとうなだれる。
「そうか……仕方ないね。それにしても熱心だね。今度は何の研究なんだい?」
 泣き出しそうになった彼女をなだめつつ、気を逸らすために尋ねてみる。すると、彼女は、お気に入りのおもちゃを見つけた子どものように輝いた笑顔で答えを返した。
「眠り姫を実現させる研究をするんです!」
 ……と。

 葛葉があまりに嬉しそうな顔をするものだから、私は研究の全容を聞かされてもただ黙って、頷くことしかできなかった。彼女が取りかかった研究、それはひとの体を眠らせたまま、長い時を過ごさせる技術――昔良く読んだSFに出てくる、コールドスリープそのものである。
 正直なところを言うと、私は余りいい気持ちはしなかった。時を越えること、それはひとに許された範囲を超えているように思えたのだ。そこまでは、やるべきではないのだ、と。
 だが、葛葉の嬉しそうな顔を見ると、そんなことを言えるはずもなく。
 言わなかったことを、死ぬほど後悔すると知っていたならば、彼女が泣くことがわかっていても――最悪、別れを告げられることになっても――私は心を鬼にして、言っていただろう。

「大事な実験があるから、しばらく会えないんです」
 数日後、借りていた本を山のように抱えてカウンターまで来た彼女は、こっそりと私に耳打ちをした。
「これが終わったら何が何でもお休みとりますから、遊びに連れて行ってくださいね。……約束ですよ?」
 カウンターの端で、誰にも見つからないように交わした秘密の約束。それが私と葛葉との、最後の会話になった。


 それは突然、あっけなく訪れた。
 食堂で学生たちに紛れ、ひとり寂しく遅い昼食をとっていると、食事を終えて研究所に戻るらしい学生の姿が目に入った。
「なぁ、本当にいいのかな。バレたら大変なことになるぜ?」
「……って言ってもなぁ。教授も葛葉さんも乗り気だし……だいいちお前、教授ににらまれて無事に卒業できる自信、あるか?」
 どうやら葛葉と同じ研究室の学生らしい。その様子はどことなく、後ろめたい気持ちを隠しているかのようだった。
「にしても狂ってるよな。動物レベルで成功してるとは言っても、まさか人体実験までいきなり行くなんてね。しかも、審査とか受けてないんだろ?葛葉さんもあんなに可愛いのになぁ……教授にだまされて……うぅっ」
 学生の言葉に、私は時が止まったかのような衝撃を覚えた。
 何だって? 人体実験? まさか……葛葉が?
 気が付くと私は、学生の襟首をひっつかみ、彼を問いつめていた。鬼でも見たかのようなおびえた表情で、彼はすべてを話した。
 真実を話してくれた学生を放り出すと、大学の奥、小高い丘の上に建てられた白い研究所へ、私は急いだ。
 絶対に止めなければ。それしか頭の中になかった。

 警備員や研究員の制止を振り切って、私が向かうのはただ、葛葉のもと。広い研究所内を駆け回り、ようやくたどり着いたのは、片面がガラス張りの小さな部屋だった。下を見ると、大きな部屋が広がっている。
 そこに、幾何学的な模様の刻み込まれた、得体の知れない機械が横たわっていた。そしてそれを取り囲む、白衣の面々。
 中央に、葛葉の姿があった。白衣が、初めてであった時のワンピースのようにゆるやかに広がっている。ふと、彼女が何かに気づいたように振り向いた。私の姿を認め、微笑む。軽く手を振って、また機械の方に向き直った。
「葛葉っ! 葛葉っ!!」
 声の限りに彼女の名前を呼ぶ。どうか、どうか。
 ガラスの壁を、必死に叩く。ガラスが割れたら、彼女を助けに行けるから。
 ドンドンとガラスを叩き続ける私の体を、背後から誰かが羽交い締めにした。振り向くと、警備員が私をここから退去させようと押し寄せていた。
 もがく私を、警備員は容赦なく外へと引きずり出そうとする。
 ガラスの向こうで、彼女がもういちど振り向いて、そして機械の中へと消えていった。
「葛葉……っ!」
 それが最後、だった。


 彼女は目覚めなかった。実験は失敗したのだ。
 彼女と共同研究と言う名目で参加していた、彼女の元指導教授は、失敗したのではなく、まだ技術が確立していないだけで、必ず目覚めると主張していたが、どちらにしろ同じ事だった。
 そして、ひとりの研究者が実験の途中、事故に巻き込まれて昏睡状態になった、とだけしか、世間に公表されることはなかった。
 表向き、教授は責任をとって辞めることにはなったが、それだけだった。今まで、大学に多大な貢献をしてきた教授だったせいだろう。
 ひとりの女性の未来を奪ったことに対する責任追及は、何もなかった。


 そして今も葛葉は眠りについている。あの実験から、誰も使うことなくそのままになっている研究所の、氷の奥津城で。
 私は、もう誰も足を踏み入れることの無くなったそこへ、毎日通っている。手に、白いのばらの苗を持って。研究所を、童話そのままの茨の城にするために。
 彼女がいつか再び目を開ける時、彼女を外から守るために。
 そして……夢見る彼女を茨を抜けて助け出してくれる王子に託すために。


 きみがめざめるとき、そこはどんな世界なのだろう。
 とおい未来、もちろん私は居ない。きみは、大丈夫だろうか。


 時々、私はこんな期待を抱く。
 いつか、時を簡単に越える術が見つかった世界できみがめざめたなら。
 もういちどきみに出会えるのではないかと。
 ふと振り向いたら、彼女がそこに立っていて。ただいまと言ってくれるような気がして。
「約束です。遊びに行きましょう、悠真さん!」
 と、あの幼い笑顔で笑ってくれるのではないかと。


 ――そして今日も私は、のばらを持ってきみにあいにゆく。



Fin.

この創作において出てくる技術・文献その他は、作者の創作です。
現実のいかなる事象とも関係はありません。