File.41「一番近いところで」 「早く、早く! もう、どうして飛べないのよ」 荒い息をついて走るデルディスの視線の遙か先、いらいらした様子で、空中に浮かんだティアフラムが声を上げた。人間である身のデルディスに、精霊であるティアフラムのように空を飛ぶなどどう願っても不可能である。無茶を言うなよ、とぼそり呟く。 だが同時に、急ぐティアフラムの気持ちもわかる。デルディス自身、ティアフラムのように空を駆け、移動することができたらと何度思っただろう。 ほんの少しの時間の経過すらいらだたしい。 アルマイスに着けば、リアンに会えれば、エディを救える。そのためだったら、何をしてもいい気分だった。 王都のメディス家から飛び出してもう五日、そろそろ着く頃だろうが、駆け通しで疲れた体は、デルディスの思い通りにはなかなかなってくれそうもなかった。 かといって、自由に動けるティアフラムひとりでリアンのもとに行かせるのは、精霊に対しての恐怖が大きくなっている今、賢明な行動とは言えない。 焦りばかりが募ってゆく。 「すまん、もう限界、だ。しばらく休ませてくれ……」 走り続けた反動からか、動きを止めようとしたデルディスの足が均衡を崩した。どさり、と道のそばに倒れ込む。 「もう、もうもう! しっかりしなさいよっ! こんなんじゃ、いつまで経っても着かないじゃない」 金切り声に近いティアフラムの叫びが近くなったかと思うと、デルディスの耳元で再びティアフラムは同じ言葉を繰り返す。頭痛がするほど高い声が響く。 「俺だって、止まりたくて止まってる、訳、じゃない。けど、体が動かない、んだよ。俺は、人間、なんだぞ」 荒い息のせいで途切れ途切れの声が反論する。休みをほとんど取らずに酷使した体は、そろそろ限界に近い。立ち上がろうと力を入れても、起きあがることすら容易ではない。 ろくに準備もせずに飛び出したおかげで、所持しているのは簡単な携帯食と、革袋にほんの少しの水。残ったわずかの水を喉に流し込んで、デルディスは大きく息をついた。 「あともう少しなの。デル、ねえ、デル」 疲れも限界といった様子のデルディスを見て、少しは良心がとがめたのだろう、今度は少々おとなしく、ティアフラムは懇願するように倒れたデルディスを見た。 しかし、どんなに気力を振り絞ってもいちど倒れ込んだ体になかなか力は戻らない。無理だと首を振るデルディスに、ティアフラムは力無く地面に崩れ落ちた。 「どうしよう、エディ、大丈夫かな。ねえ、デル、大丈夫だよね?」 おそらくエディ自身の前では絶対にみせないだろう、気弱な表情をして、ティアフラムは不安を口にした。いつでも憎まれ口を絶やすことの無かった彼女にしては、ひどくしおらしい態度だ。 落ち着かず、ひとみが揺れる。その様子を目の端にとどめて、デルディスは疲れた表情に少しだけ笑いを浮かべた。 こうやっていればティアフラムも、精霊だの人間だのは関係なく、ただのひとりの少女だ。何のかんのと言いつつも、エディが心配でたまらない様子がありありと見て取れる。 「なあ、ティー」 「何よ。そろそろまた走る気になった? いくら急いだって足りないくらいなんだから」 とげとげしい口調は焦っているせいだろう。さらりとかわして、デルディスは首を振る。あともう少しだけ、休む時間がほしい。疲れた体をようよう起きあがらせると、出発を今か今かと待つティアフラムの方へ視線を向けた。 「こんなときにこんなことを頼むのもなんだか違う気がするんだがな、ティー。お前に聞いてほしいことがあるんだ。あいつの前じゃ、言えないからな」 改まった表情でデルディスがそう言うと、ティアフラムの怒り出しそうな顔、にらみつける視線で答えを返される。 ティアフラムにしてみれば、今はいろいろ考えている余裕などどこにもないのだ。 こうしている間にも、エディは醒めない夢の中で苦しんでいる。そう思うと、いても立ってもいられなくなる。 「ティー。焦りはわかる。だが、少しだけ話をする時間をくれないか。エディが目覚めてからじゃきっと言う時間はないし、うやむやになっちまうだけだ。だから今、お前に聞いてほしい」 じっと、真剣なひとみに見つめられて、ティアフラムは反論しようとした言葉をぐっと飲み込んだ。かんしゃくを起こしてしまうのはためらわれて、口を尖らせたティアフラムはおとなしく地面に座り込む。 視線の鋭さが少しだけ和らぐ。ひとつ深い息をついて、デルディスは精霊の少女を再び見つめた。 「もしもその気になったら、でかまわないんだ。ティー、エディが目覚めたら、そして旅を再開することになったら、お前をファドに帰しに向かうことになるんだろう。だが……こんなことを言うのはやっぱり気が引けるんだが、できればずっと俺たちと一緒にいてほしい。エディに名を縛られて従ってるんじゃなく、自分の意志で俺たちと一緒に。望むなら、俺たちがあいつを説得してお前にかかった契約を破棄させる」 「……は? 何言ってるの、デル。何でいきなりそんな変なこと、言うのよ」 あまりといえばあまりに非現実的な申し出を受けて、ティアフラムは思い切り間の抜けた声を出した。何をもって、目の前のこの剣士がこんな奇妙なことを言い出したのか、まったく見当すらつかない。 契約を破棄してもらえるというのは魅力的な申し出だ。しかし、それと引き替えにしてでも旅への同行を求めるというのはいったいどういうことなのだろう。 この契約のそもそものはじまりは、今思えばティアフラムに責任がある。今では自分の所行に対し、反省もしている。いつもエディに対しては契約を破棄しろと口うるさく言うけれど、今は少しだけ、彼に名を縛られていても仕方がないかな、という気持ちは持っているのだ。 ただ、それも彼女の故郷であるファドに着くまでのこと。気に入らないことはエディとの口げんかで発散させて、故郷に帰る日を待てばよいだけのはずだった。 予想外のことが起こりすぎて予定は延びに延びている。知らなければ良かったこともあったし、エディをはじめ、デルディスやファーたちとともに過ごすうちに、次第に自分が変わっていることを感じて、奇妙な居心地の良さを感じてもいた。 こんな時間があともう少しだけ続けばいいのに、とこころの隅では少しだけ、そんな気持ちを隠している。しかし、それは面と向かっては絶対に言えないことだ。いつでも、帰りたい、逃げ出したい、こんなのは嫌だと言いたい放題言ってきたのに、急に態度を変えてしまったら、笑われてしまうに違いないのだ。 それなのにまさか、デルディスもそんなことを思っていたなんて。 「……そりゃあな、お前みたいなうるさいの、早くおさらばしたいと思ってたよ、はじめはな。エディとまあ、よく飽きずに言い争って、平和に旅したい俺にとってはいい迷惑でしかなかった。けどな。あいつ……エディが一番エディらしく振る舞えるのは、もしかしたらお前の前でなんじゃないかってこの頃思うんだ。俺もファーも、メルディースも、あいつにとっては保護者でしかない」 苦笑が少しだけ混じった声には寂しさが混じる。 ただ乾いた砂だけが広がる地で、エディと出会ってもうずいぶん経つ。気ままに旅を続けていたデルディスにとっては、その出会いすらもまた、ティアフラムのときと同じように迷惑なものでしかなかった。ただ、放っておけずにつきあううちに、いつしか弟のように思った彼を、同行者として旅の仲間に加えた。 しかし、幼すぎる精神を抱えたエディは、デルディスにとって守るべき対象に近いものだった。対等につきあうことのできる仲間とは、少し違う。 仲間というならむしろ、あとから加わったファーの方が感覚としては近い。 エディもそれがわかっているのだろうか、ティアフラムに対するような態度を、デルディスやファーにとったことはない。派手に言い争ったことなど、三人で旅をしていたときにはついぞ経験したことはなかった。 少年だった頃、生まれた村では仲間とやり合うことなど日常茶飯事だった。そしてそれが、デルディスを成長させたことも事実だ。自然なつきあいの中で、様々なことを学んだ。 しかし、それがエディには欠けている。子どもの頃の他愛のない交わりなど、エディにとってはあり得なかったからだ。 エディに欠けている決定的なもの。それがあの不安定さや幼さに繋がっているのかもしれない、デルディスはそう考えていた。 ティアフラムに出会ってから、エディは奪い去られた時間を取り戻すようにしてこころをあらわすようになっていた。 時々、我慢できないことがあって、その感情の発散の仕方がわからず力を暴走させるばかりだった昔とは、少しずつ変わっていっているような気がする。 これからもこの精霊の少女とともにあることができるならば、エディは失われた時をいつか取り戻すことができるだろう。そんな予感めいた気持ちがデルディスの中に生じた。 「エディに、本当のあいつを取り戻す時間を作ってくれないか。お前と旅を続けられるならそれが可能になる。そう思ってる。お前にとっちゃいい迷惑だろうが、これも何かの縁だと思ってのんでくれないか。無理強いはしない。ファドに帰るって言うんなら、仕方がない、あきらめる。でも、エディのためにはきっとお前が必要だと思うんだ。……頼む」 必死なひとみで問いかけるデルディスの前で、ティアフラムはとまどいの表情を浮かべた。 |
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