あなたに出会えた偶然に



「ねえ、運命と偶然、どちらを信じる?」
 僕の家に遊びに来ていた彼女が、夕飯を作りながら、そう声をかけた。
 僕はテレビを眺めながら、何を言ってるんだと苦笑を漏らす。


 僕の名前は篠崎 真治。彼女の名前は日永 薫。もうすぐ篠崎 薫になる。……つまり、もうすぐ結婚を控えたカップルな訳だ。会社に新入社員として入ってきた薫に、僕は惹かれた。仕事を教えるという理由にかこつけて親しくなり……そのあとはご想像通り、と言うわけ。
 結婚を控えた甘い雰囲気……というものに気がゆるんだのだろうか、僕は苦笑しながらも、薫の方を向く。なるべく、彼女の機嫌を損ねないように注意しながら、微笑んだ。
「どういう意味?」
 苦笑しつつもつきあっていると言うことがわかったのかもしれない、薫は少し、ふくれっ面になる。その顔も、どうしようもないほど可愛くて、幸せをかみしめた。
「もう。あのね、私たちって出会うべくして出会う、運命だったのか、もしかしたら出会わなかったかもしれない、偶然だったのかっていうこと」
 料理の手を止めて、薫は可愛らしく、首を傾げた。
 やっぱり薫が愛しくて可愛くて、ついつい顔がゆるんでしまう。こんな彼女と出会えたことに、僕は心から感謝していた。彼女と出会えたこと。それが僕の人生にとって、一番の出来事なのだ。まるではじめからぴったりとすべてが合うような、僕と薫。
「そうだなぁ……薫とこうして出会えたのは、きっと誰かわからないけれど、カミサマとか、そういう存在がいるんじゃないかなって思うんだ。産まれた時から、そう、赤い糸っていうのかな? そういうのをきっと結ぶんだよ。いつ、どうして出会うって、記録されている、運命の糸が」
 普段、仲間といる時なんて、こんなことは絶対に言わない。そんなこと言ったら、きっと馬鹿にされるか、のろけていると冷やかされるだけだ。でもきっと、みんな同じように大切な人に出会ったら、きっとこう思うに違いないんだ。薫ともうすぐ結婚できるという事実が、僕を舞い上がらせていたに違いないんだろうけれど。
 そんな風に言うと、薫は少し考えて、くす、と笑った。鈴の鳴る音のような声、薫の、癖。
「案外、真治みたいに男の人の方が、ロマンチックなのかもしれないね?」
 そうだね、赤い糸で結ばれているのかもしれないね。
 そんな甘い言葉を薫から期待していた僕としては、彼女の反応はとても意外で……かなり、不満で。ついつい、拗ねたようにそっぽを向く。
 そんな僕の様子に、薫はまた、くすくすと続けて笑う。可愛いけれど……なんだか遊ばれているようで、僕としては不満だ。
「ごめん、ごめん、真治。だってね、人の意見って本当に色々なんだな、って思うと、つい、ね。私は、真治みたいにロマンチストじゃないから、運命なんて言葉、あんまり使わないのよ」
 薫はそう言うと、拗ねる僕の前に座った。小首を傾げて、僕の頬を両手で支えて。
「真治。私はね、もしかしたらあなたとは出会わなかったんじゃないかって、時々そう思うの」
 薫の口から出た意外な言葉に、僕は眉をひそめる。一体どうして。
「だって、私、あなたと同じ会社に勤めることなんて、もしかしたら無かったかもしれないのよ? あともう一つ、内定をもらっていた会社もあったんだもの。それにね、同じ部署に配属されることだって、もしかしたら無かったかもしれない。
 だからね、運命、なんて無いと思うの。きっと、人の出会いって偶然なの。もしかしたら、出会えなかったかもしれない、そんな風に」
 そしてまた、くす、と笑う。
「出会うべくして出会ったよりも、きっと、もしかしたら出会わなかったかもしれないって思う方が、ひとつひとつの出会いを大切にできるわ。私はそう思うの。
 あなたに出会えた偶然に、私はいっぱい感謝してるわ」
 ねえ、そう思わない? にっこり、僕の同意を求めるように。
 僕は薫の微笑みに魅了されつつも、納得がいかなくて、やっぱりまだ拗ねてみせる。
「薫。そうは言うけれどね、結局薫は僕と同じ会社に入社して、同じ部署に配属になった。そして僕と出会う。それって、偶然と言うにはあまりにも都合良すぎないかい? 僕は運命を信じるよ。君と出会わせてくれた、幸せな運命にね」
 薫は、花のように、頷いた。幸せだよね、という言葉と共に。
「ねえ、でもね。運命という言葉に安心してると、何時か足下をすくわれてもしらないよ? 出会うことって、とっても大切なことなの。あらかじめ決められていると思えるほど、簡単なものじゃないわ。そしてね、油断していると、偶然は無かったことになってしまうの。大切にしないと、逃げて行っちゃうの」
 薫は、あくまで自分の意見を変えるつもりはないようだった。


 その言葉を、僕が体の奥底から実感したのは、それから間もない頃。
 薫が、僕の前から消えた。この世界から、飛び立ってしまった。鳥のように。
 僕が駆けつけた時にはもう、病院の暗い部屋で、白い服を着て永遠の眠りの中にいた。
 眠る薫は、まるで生きている時のように綺麗で、今にも目を開けて、いつものように笑ってくれるんじゃないかって、そう思った。 白い頬は、でも、暖かさの欠片もなくて、心がもう此処にはないことを、残酷にも教えてくれるようだった。
 薫は、僕ともうすぐ結婚するはずじゃなかったのか?
 僕の奥さんになって、可愛い子供をたくさん産んで……。
 そして、歳をとっても一緒にいるんだ。そういう運命じゃなかったのか?
 ぐるぐると、まとまらない考えと、怒りと、悲しみが心の中に渦巻く。
 どうして、僕から薫を奪うんだ。
 そのとき、ふいに薫が何かをささやいた気がした。
『運命という言葉に安心してると、何時か足下をすくわれてもしらないよ?』
 そう、薫が突然質問してきた時の、あの言葉。
 運命、偶然。その間で僕たちは言葉を交わした。
 僕は出会うべくして出会ったと言い、君はもしかしたら出会わなかったかもしれないと言った。大切にしないと、逃げて行ってしまう、と。
 これは、そういうことなのか?
 運命の名のもとに結ばれていると安心していた、僕に対する報いなのか?
 答えの出ない悲しみに、僕はいつまでも薫を抱きしめて、放すことができなかった。


 薫、薫。
 君は何を伝えたかった? あのとき、僕に尋ねたことは、何かのサインだったのか?
 僕は薫が消えてから、そればかりをずっと、心の中で繰り返している。何が僕から、薫を奪ってしまったのだろう。残酷な現実にもう、涙も出ない。
 ただ少し、僕は変わった。一瞬一瞬を、宝物のようだと思うようになった。
 薫を失ってから、二度と来ない時を、出会いを、そして『偶然』を。
 ねえ、薫。
 この前、ひとりの女の人と出会ったんだ。花屋で、君への花を選んでいる時、スーツに水をかけられてしまったんだ。それが、出会い。
 まるで映画のようだと笑うだろうか。それから、彼女は良く、僕の話を聞いてくれるようになった。本当に色々なことを。
 ……もちろん薫、君のこともね。
 嫉妬しないでくれ、君を失って、僕はもう、本当にだめになりかけていたんだから。だから、この人に出会えた偶然に、僕は感謝している。
 時々、こう思うこともあるんだ。


 薫。
 これも君がくれた、偶然なのかい?



Fin.